ブギーポップ・クルシファイ リミットグレイの妖精逆説

Color 7 激怒の闇色 -rage black- ①

『人は何のために怒るのか。それをまことに理解できる者はいないし、怒っているときはすべての前提を引っ繰り返すことしかできない』

──霧間誠一〈十字架上のアイロニー〉


 夕暮れ時の駅前は、大勢の人々でごった返している。

 その上空を、どこから集まってきたのか、鳥の群れが急に飛来してきて、ぎゃあぎゃあ、と重なり合う無数の鳴き声がスクランブル交差点にやかましく響き渡る。

 鳥はムクドリであり、大勢の人間のいる繁華街こそが天敵の少ない安全地帯として、陽が落ちる前に群れを成す傾向がある。

 その騒音被害はいつものことであり、道行く人たちも今さらいちいち気にしたりはしない。

 だから──その騒音の中に、いつもとは異なる、黒板をツメでひっかいたときのような不快な笑い声が混じっていることも、誰も気づいていない。

〝ひひひひひ〟

〝ひひひひひ〟

〝ひひひひひ──〟

 妖精たちが、鳥の背に乗って高らかに嘲笑を響かせていた。

 その声を聞いた者は、自分でも意識しないうちに、微妙に苛立ちを抱えて、隣を歩いている者に対してかすかな怒りを感じてしまっていた。


(こいつなんで避けるの遅いんだよ、ぶつかるところだったろうが)

(チラチラこっち見んなよ、濁った眼しやがって)

(香水臭いんだよ)

(カバン振り回すんじゃねえよ。人の迷惑考えない馬鹿が)

(トロトロと道の真ん中歩くなよ。ノロマは端っこに行けっつーんだよ)


 皆の不快感が高まると、空中に新たな妖精が一匹、また一匹と、どんどん生まれていく。それは人の不安が増えれば増えるほど、群れが大きくなっていくらしかった。

〝不安〟を喰って、増殖するそれらは。もはや何かの意思によって操られるとかそういう次元を超えて、独立した新しい〝存在〟となりつつあった。それらがこのままどんどん拡大していったら、いずれは世界中を覆い尽くすことになり、その中では人々は常に苛立ちをかき立てられ続けて〝不安〟をエサにされ続けることになるのだろうか。

〝ひひひひひ〟

〝ひひひひひ〟

〝ひひひひひ──〟

 その笑い声が響くとき、人々の顔がじわりと険悪になっていく。そしてとうとう、街の片隅でいが始まる。

 肩がぶつかったとか、そういうどうでもいい理由で、争いが始まり、そしてそれを眺める周囲の人たちにも〝不安〟が広まっていく。

〝そうそう、ビビれビビれ、もっともっとビクつけよ〟

〝怯えろ、焦っちまえ、無様に取り乱せ〟

〝そして他の、自分よりもっとビビっているヤツを狙って、焦りを吹き飛ばせ〟

〝不安を感じて、不安を喰らえ〟

〝不安こそパワー、不安こそ生きがい〟

〝ビビっているヤツだとバレたら、眼ぇ付けられて他のヤツに喰われるぞ〟

〝その前に、相手を喰っちまえ──〟

 人々のいさかいはどんどんエスカレートしていき、とうとう警官まで出てきたが、大声を張り上げるばかりで、殺気立った空気はおさまるどころかより大きくなっていく。そして、その度に妖精が、ぽん、ぽん、ぽぽん、と続々と新たに増殖していく。その膨張を停めることはもはや不可能か──と思われた、そのときだった。

 街に充満する鳥の鳴き声と嘲笑──その中に、もうひとつの異音が紛れ込んできた。

 それは口笛だった。

 およそその奏法には似つかわしくない曲を、半ば強引に吹いている。

 ワーグナーの〈ニュルンベルクのマイスタージンガー〉第一幕への前奏曲。

 その口笛が街に流れていくと──人々の張り詰めた顔に変化が生じた。

 わずかな戸惑いと、弛緩──しらけて、色んなことが馬鹿馬鹿しく感じられるような、気恥ずかしさを伴う疲労感がじんわりと広がっていき──他人の襟首を摑んでいた手が離れていく。

 上げていた大声が吐息に変わり、振り上げた腕がだらんと落ちる。

 なんだ、何をムキになっていたんだ、くだらない──とでもいうような空気が、その口笛とともに拡散していく。

〝な、なんだ?〟

〝なんだこの曲は?〟

〝どこから聞こえてくる?〟

〝誰がかなでている?〟

〝ええい、変にまとわりつく、まわしい口笛だ──〟

 妖精たちが周囲を見回すと、そいつは──別に隠れもせずに、堂々と夕暮れ空に姿をさらしていた。

 ビルの屋上から突き出したアンテナ塔の、その先端の一点にだけ爪先を乗せて、ヤジロベエのようにゆらゆらと立っている。

 筒のような黒帽子と、全身を覆う黒マントに身を包んでいて、その奥に見える顔は異様に白く、黒いルージュだけがやけに浮き上がって見える。


「────♪」


 そいつは妖精たちを睨むでもなく、どこか投げやりな視線を虚空に向けながら、口笛を吹いている。

〝な、なんだおまえは?〟

〝どこから湧いて出た?〟

 動揺する妖精たちに、黒帽子は眉を片方だけ上げて、とぼけているような、呆れているような、曰く言いがたい左右非対称の表情になって、


「おや──君たちのような、噂話上の存在こそ、ぼくのことを知っていると思うんだが」


 と言った。

 その言葉を聞いて、妖精たちはざわざわと落ち着きを失う。

〝そ、そうだ──聞いたことがある〟

〝そのひとが一番美しいときに、それ以上醜くなる前に殺してしまう存在がいる、って〟

〝死神──その名は〟

〝その名は──〟

 妖精たちの声はどんどん甲高くなっていって、そしてほとんど合唱のように揃って叫ぶ。

 

〝げえっ──ブギーポップ!〟

 

 その一言が合図であったかのように、妖精たちが一匹ずつ、端から順番に、鳥の背中から、ひょい、と引き剝がされていく。

 それは見えない釣り糸に釣られて、水の中から空に放り出された魚のようで、そして吊し上げられた妖精は、他の者たちやエネルギー源となる人間からも引き離されて、孤独にされて──そしてその姿が薄れて、消えていく。

 不安というのは、それ自体では存在できない──怖がる対象という〈型〉があって、はじめて具体的になる。だから吊し上げられて、孤立して、何にも頼れなくなってしまうと──それで雲散霧消する。

〝ひ、ひいいいっ〟

〝う、うわああっ〟

 妖精たちが混乱し、のたうち回っている間にも、黒帽子はひょいひょいと、一匹ずつ淡々と釣り上げ続けていく。

〝だ、駄目だ〟

〝このままでは駄目だ〟

〝こんな風に散らばっていては駄目だ〟

〝固まらなければ〟

〝集まらなければ〟

 妖精たちは鳥から降りて、空中で結集していく。

 そして──巨大なタコのような、ウニのような、全身から触手ともとげともつかない突起を突き出した、被害妄想と他責思考の化身のような姿になる。その突起はすべて相手に突き刺しバラバラに引き裂くことにのみ特化した武装の腕だった。

〝どうだ! これで貴様をみ込んでやるぞ、ブギーポップ!〟

 その怪物は、ゆらゆら揺れている黒帽子めがけて突撃してきた。

 しかし──不安定な足場しかないと思われた黒帽子の姿は、次の瞬間には別の建物の先端へと跳躍していて、怪物の突進は寸前でかわされた。

〝ええい、ちょこまかと──しかし、逃げるしかないのなら、後は時間の問題だな!〟

 怪物は笑い声を上げた。そこに黒帽子が、静かな声で、


「しかし──ずいぶんと大きな姿で、実に目立ってしまっているけれど──それでいいのかな」


 と訊いてきた。

〝ああ? なんのことだ? 何の話をしている?〟


「いや──君たちが言っていたんだよ。『ビビっているヤツだとバレたら、眼を付けられて他のヤツに喰われる。その前に、相手を喰っちまえ』ってね──今の君たちは誰よりも怖れていて、それがしになっているけど──」


 と黒帽子が指差しするのと、それが始まるのは同時だった。

 街の上空を飛び回っていた鳥たちが、妖精の支配から解放されて──その性質をわずかに残したまま、空に浮かんでいる〝不安〟の塊を前にしたとき、採る選択はひとつしかなかった。

 その夥しい群れは、怪物の突起以外はぶよぶよで柔らかそうな塊めがけて、一斉に襲いかかってきた。

〝ぎゃあああ〟

〝やめろ、やめてくれ〟

〝喰われる、喰われてしまう〟

〝助けてくれ、助けて──たすけて〟