ブギーポップ・クルシファイ リミットグレイの妖精逆説

Color 8 虚空の空白 -empty space- ①

『不安に潰されるのが凡人で、不安を無視するヤツは二流で、不安を武器にするヤツが一流で、でも正直、そんなのは全部どうでもいい話で、結局は不安の通りにしかなんないのよ、世の中は』

──みなもとしずくの言葉より


 暗い昏い闇の中を、府名井柚純は逃げていた。

 あれからずっと逃げている。

 とんでもなく巨大な不安が、彼女のことを喰い尽くさんと迫ってきている。

 もはや自分が走っているのか四つん這いなのか、前に進んでいるのか下がっているのか、落ちているのか上がっているのか、なにもかもわからない。

 どれほどの時間が過ぎたのか、ほんの一瞬だったような気も、永遠だったような気もする。

 足首を、がしっ、と強い強い力で摑まれた。ひいっ、と悲鳴と共に振り返ると、そこには骸骨の姿をした怪物がいて、彼女に爪を立ててくる。

 その食い込んだところから、吸い取られる。

 柚純を構成しているもの、血液、肉体、骨格、精神、好き嫌い、想い出、憎悪、そして不安が、怪物にどんどん吸われていってしまう。

 そして自分の方はみるみる痩せ細っていき、骸骨の姿になっていく。

 あああ、という嘆きも、どんどん弱まっていって、そして──消える。

 その代わりに、どこかから声が聞こえてくる。

〝──ろ、きろ、おきろ、起きろ──もう治っているんだから、起きろ〟

 


「起きろ」


 

 急に耳元ではっきり言われて、柚純はびっくりして跳び起きた。

 そこは──病室らしき、真っ白な空間だった。

 柚純はそこのベッドに横たわっていて──脇には一人の少年が座っていた。


「あ──」


 柚純が茫然としつつ、彼を見ると、


「俺はあおあきっていう。リミットの使いだ」


 と名乗ってきた。


「え──」

「ただし、統和機構には属していない。彼女の、いわば私的なアシスタントっていうか、裏の私兵──まあ、忍者みたいなものだ」


 蒼衣はかるく自己紹介すると、間を入れずに、


「府名井柚純、あんたはこれから統和機構の正式な面接を受けることになるが──その前に、リミットから託された個人的な忠告を伝えるぞ。言われた通りに言うから、解釈はそっちでやってくれ」


 啞然としている柚純にお構いなく、蒼衣は淡々と説明する。


「おまえの能力〈ローリング・アンザェティ〉はあくまでも〝観察〟に徹して、人心操作や〝攻撃〟としては使わない方がいい。相手の体感時間を止めて思いのままにするという技術は、統和機構監察部門のトップであるギノルタ・エージの〈ノー・ブルース〉によく似ていて、なんなら上位互換にあたるが──それはギノルタからおまえが敵視される危険につながる。ヤツは執念深く、目を付けられても良いことは何もない。無駄なリスクを負うくらいなら、分析者に徹して成長した方がおまえのメリットになるだろう──以上だ。理解できたか?」

「…………」


 柚純が絶句していると、蒼衣はにやりと笑いかけてきて、


「おまえ──これから自分は世界の裏側を知ることになって、普通の人間とは違う生活が待っている、とか期待しているかも知れないが、残念ながらそうそううまくはいかないぞ。曖昧にされていることが多すぎるし、理不尽な命令がされることもある。かなり出世して実力をつけたリミットですら、自由にやるために俺のような〝非公式協力者〟を自前でこっそり雇わなきゃならなくなるしな──おまえがそこまで行けるか、わからんがな」

「……あなたも、普通の人間じゃないのね」

「その通り。俺もリミット同様に合成人間だ。だが統和機構に創られた訳じゃない。色々とあるのさ。複雑なんだよ、世界ってヤツは」

「…………」


 柚純は、蒼衣秋良からかなりの衝撃を受けている。

 彼から感じられる〝不安〟には、柚純に対してのものが何もない。自分の精神が相手に見抜かれていると知りながら、そのことをなんとも思っていない。その図太さと、そして割り切りの良さに圧倒されていた。


(私も……こんなレベルにまで達しないと通用しないのか)


 その重圧を、彼女は明確に実感させられていた。


「それじゃ話は終わりだ。もう会うこともないだろうが……ま、お互いに頑張ろうや」


 と言うと、蒼衣は携帯端末を取り出して、画面を柚純の方に向けてきた。そこには何も表示されていない。


「……?」


 と柚純が眉をひそめると……次の瞬間、その画面から凄まじいフラッシュがかれた。せんこうが室内を満たす。


「──わっ!」


 と柚純は思わず眼を閉じて、手を顔の前にかざした──そして下ろしたときには、もう蒼衣秋良の姿はどこにもなかった。


「────」


 彼女が啞然としていると、しばらく経ってから廊下の方から足音が聞こえてきて、そして病室のドアが開いた。

 白衣を着た男たちが、彼女が目覚めているのを見て、なにやらうなずき合っている。やってくる人はどんどん増えていき、次々と気分はどうだ、話はできるか、みたいなことをあれこれ訊いてくるが、柚純はなかなか反応できなかった。先は長そうだ、と自分でも思った。



「しかし、もう少し長い目で見て計画を続けても良かったと思いますがね」


 予備校の個別自習室で、古嶋俊輝は雨宮美津子に向かって、やや不満げに言った。


「確かに霧間凪への対処を僕がミスしたのが原因なのは認めますが、最終的に彼女が協力的であったなら、府名井柚純をさっさと研究班に渡すこともなかったのに」

「気絶したまま目覚めなかったんだぞ。他に選択肢はなかったろう」

「どうせすぐに起きてましたよ。他の連中もみんなそうでしょ?」

「府名井の場合はおまえの能力の作用じゃなかったように感じた。だからおまえの見解を聞く必要もなかった」

「やれやれ──そんなにこの件から早く身を引きたいんですか」


 俊輝が肩をすくめると、雨宮は眉をひそめて、


「おまえもたまには、自分自身が矢面に立ってみることを考えたらどうだ?」


 と詰めると、俊輝はうっすら微笑んで、


「人には向き不向きがありましてね」


 と言いながら、指先でもはや紙くずとなった〈予告状〉を弄んでいる。


「僕には裏側から成功に近づく方が適性があるんですよ。誰もが一番乗りを目指しますが、それでは全滅したときに被害が大きすぎる。僕のように常に一歩引いて全体を見渡せる者が必要なんですよ、この世界には」


 したり顔で言うが、雨宮からするとこれは、


(こいつって──本当にそれっぽい建前を言うのだけは一流なんだよな……本音だけは絶対に他に漏らさないくせに)


 という認識にしかならない。彼女自身にもそういう面があるだけに、この男が何を隠しているのか、うすうす見当がつくのだった。


「しかし、府名井柚純の勧誘はさすがに僕の功績扱いにしてもらえますよね?」

「どうかな──微妙かもな」

「おやおや。まあ気持ちを切り替えて次の仕事に励みますか。でもそうなるとリミット様の評価も下がってしまいませんか」

「だからその名で呼ぶな──」


 と彼女が言いかけたところで、携帯端末に着信が入った。専用回線からだった。


「ああ──府名井が起きたようだな。おまえはちょっと待ってろ」


 と雨宮は通話に出るために、自習室から出て行った。


「ふん──」


 俊輝はかすかに鼻を鳴らして、背もたれに身体を預けて、天井を見た。

 しかし、一分と経たないうちに、ふたたびドアが開いて、ひとりの女性が入ってきた。


「ああ、リミット様──ずいぶん早かったですね。話は終わりましたか」


 と呼びかけたが、その女性は返事をせずに、俊輝の前に座った。そして、まっすぐに見つめてくる。


「どうかされましたか?」


 俊輝が訊くと、彼女は口を開いて、


「君にひとつ、確認しておきたいことがある──」


 と言った。俊輝は虚を突かれてぽかん、となったが、すぐに、


「もしかして──リセット様の方ですか? そっくりの双子だという──」


 と訊き返した。女性は何も言わずに、彼のことをじっ、と見つめている……。


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