ブギーポップ・クルシファイ リミットグレイの妖精逆説
Color 8 虚空の空白 -empty space- ②
*
「釘斗博士、状況はどう?」
雨宮は通話に出るなり、まず質問した。蒼衣秋良に指示を出しておいたのが、うまくいったのかどうか、それを密かに確認しておきたかった。しかし、
〝ああ……いや、それなんだが〟
通話口の博士は煮え切らない口調だった。
〝なあ、おまえ例の話をしていたな?〟
「え? なんのこと?」
〝だから……ペイパーカットの話だよ〟
言われてから、やっと雨宮は、ああ、とそれを思い出した。
「そういや、そんなこともあったわね……すっかり忘れてたわ。それどころじゃなかったから」
〝それでなんだが──府名井柚純に話を聞いたところ、どうもあの文言を使ったのは彼女の発案じゃなかったらしいな〟
「府名井は目を覚ましてるのね?」
〝だから、そんなことはもう、大したことじゃなくなっているらしいんだよ〟
「は?」
雨宮はきょとん、としてしまった。
「博士、いったい何の話をしてるの?」
〝私だってよくわからんよ、とにかく──〟
と釘斗博士が言いかけたところで、ふいに、
〝おい、通話先は問題のヤツなのか?〟
という声が割り込んできた。若い男の声だった。続いて、
〝おい、古嶋俊輝──今すぐに、そこから離れろ!〟
と呼びかけてきた。こちらを俊輝と勘違いしているらしい。
「あのねえ、なにか──」
と彼女は反論しようとするが、端末を持っているのが博士なので、声の主にはこちらの声は届いていないようで、
〝おまえは何もわかっていない!〟
という怒鳴り声がさらに続く。その脇あたりから、
〝いや
という落ち着いているが、とぼけているようでもある曖昧な声も聞こえてきたが、叫んでいるヤツはそれにおかまいなく、
〝いいから逃げろ! 古嶋、おまえは勘違いしているんだ! 呼び寄せようと思っているんだろうが──逆だ!〟
その切迫した声を聞きながら、雨宮には思い当たる節があった。
(そうだ──そう言えば、前に博士が言っていた──〈専門家〉を用意している、と。その内訳は、確か──)
〈刑事〉と〈探偵〉──そう言っていた。つまりこの二人が、
(統和機構が、合成人間でも通用しない相手に対して準備したっていう、そのエキスパートなのか?)
雨宮が戸惑っている間にも、男はさらに声を上げ続けている。
〝おまえの方こそ罠に掛かっているんだ! ヤツはもう──すぐ側まで来ているぞ!〟
*
その雨宮美津子そっくりの姿をしたそいつは、
「君は、壁を意識しているか?」
と唐突に訊いてきた。
「壁、ですか? 自分の限界、というような意味ですか」
「自分の前には壁があると思うか?」
「それは──ない、とは言えませんね。人生にさまざまな障害物が立ちはだかっているな、とは感じていますよ。しかし、僕としてはそういうものをひとつひとつ乗り越えていけるものだと──」
俊輝がいつものように優等生的な
「壁は、世界の方にあると思うか、それとも自分の中にあると感じるか?」
と問いを重ねてきた。
「え?」
「自分は壁に取り囲まれているのか、それとも自分自身が壁だと感じているのか、どっちだと思う?」
その眼はまっすぐに俊輝の瞳の奥まで覗き込んでくる。
「それは……」
「君は、壁の外に出たいか?」
「ええと……それは、一概にはそう言い切れないと思います」
「どんなところで躊躇する?」
「壁が自分の中にもあるとして……それは害意のある外からの攻撃を防いでくれるものでもあると思うんです。だったらそれを一気になくしてしまうのも危険だと思います。外側に吞み込まれて、食い込まれて、自分というものがなくなってしまうのはやはり、よくないと思います」
「壁の内側に籠もっていれば安全安心、ということか。それでいいと?」
「それだけでは可能性がありません。壁そのものを広げる努力も必要だと思います」
「広げるためには、何が必要だと思っている?」
「それは……より広い見識とか、日々の努力とか……いや」
俊輝は首を振った。
「そうですね……広げる前には、そう……以前の壁を壊さなければならない……」
その理解が、ふいに脳裏に訪れた。そこにさらに、
「君は自分を壊したいのか、それとも世界を破壊したいか」
と訊ねられる。俊輝はさすがに戸惑って、
「それは……二者択一なんですか?」
「さて」
「もちろん古い固定観念に縛られた自分は常に克己していかなければならないと思いますし、そして周囲の環境の方も、同様に老朽化して機能不全を起こしているシステムは改良していかなければならないでしょう。このふたつは矛盾するものではなく、同時に可能だと思います」
「どうやってそれを判断する?」
「え?」
「自分をこれまで形成してきたのは過去の経験であり、環境であり、そして世界だ。君の思考はその壁の中でしか機能しない。そして世界の方も壁によって支えられているなら、可能性など最初から限定されたものでしかないのでは?」
「…………」
俊輝は、さすがに奇妙すぎる、という気がしてきた。これは──統和機構の昇進試験にしては、あまりにも得体が知れなさすぎる。
「限界、というものを人はどういうときに感じる?」
「あの……」
「君は、自分に限界があると本気で信じられるか? 心のどこかではいつだって、なんとかなる、どうにかなる、と思っているのではないか?」
「そういう楽観的な面があるのは否定しませんが、でも……」
「いざとなったら、誰か別のヤツに問題を押しつけてしまえばいい、自分だけは逃げられる、と──そう思っているか?」
「そんな──」
やけに眼がちかちかする、と俊輝は感じていた。光が入ってくるような気がする。眩しくて、目を開けているのが困難になってきた。
「人が限界を感じるのは、あらゆる可能性が絶たれたときではない。人は生まれてからずっと、いつだってその状態であり、人が自分の可能性を見いだしてそれに酔っているときはたいてい、以前に別の者が成功したルートにただ乗っているだけで、新しい可能性など何も広がっていない。世界の壁を再生産しているだけだ。君はどうだ。自分は成功したいと思っているんだろうが──その成功がただただ、壁を厚く、狭くしているだけだと感じてはいないか?」
そいつは──ああ、そいつが雨宮美津子そっくりに見えていたのが、今となっては信じられない。それはただ、俊輝にとって自分の成功するパターンとしての未来をそこに投影していただけで、全然そいつ自身のことを見ていなかっただけだった。
そいつはただ、銀色で──。
「ああ──」
「君は──他人に責任を押しつけたいと思っていたのか。それとも──壁を作るのを手助けしたくなくて、その役目から逃げたかっただけなのか」
「うう──」
「さて──そこで改めて訊くんだが、君は壁の外に出たいか?」
俊輝は、そのひたすらにまっすぐな視線を受けながら、ちら、と自分の手元を見る。
そこには一枚の紙切れがある。そこに書かれている言葉は──、
〝これを見た者の、生命と同じだけの価値あるものを盗む〟
それを書いたのは俊輝自身のはずだったのだが、しかし今その確信が持てない。数多く書き記してばらまいてきたので、一々その
(…………)
古嶋俊輝の人生──それは苦難の連続だった。優秀な知性を持ちながら、幼い頃は難病に苦しんで、外で他の子供たちが遊んでいる声を聞きながら病室に閉じ込められていた。統和機構によって救われてからも、その厳しい環境の中でどうやって一歩抜きんでるかという競争に
(僕を支えて、僕を取り囲んで、僕を支配してきた、そのすべてよりも──)
彼がその認識に達して、そして顔をその銀色に向け直したとき──すでに、その紙切れは彼の手から離れて、相手の指先に挟まっていた。
目にも留まらぬ速さで──盗まれていた。



