ヤエブキ機関 千万丈塔踏破録1

一 ⑫

 祭(まつ)花(りか)の頭の上のピカ=ピカが、無言のまま目顔で答えた。わたくしも空気を読みますので。

 それもそうか。

 双子の兄が横目で要求してくるから──縋(すが)りつかれて懐(ふところ)の手(てぬ)巾(ぐい)が出せないのだ──自分の手(てぬ)巾(ぐい)を丸めて投げてやる。まず祭(まつ)花(りか)の肩を払ってやってから自分の手を拭っている様子に、碧燈(あおひ)はいよいよ半眼になった。

 ぴい、となにか小動物の悲鳴が足元であがった。


「……ん?」


 目を向けると、鰐(わに)の仔(こ)だ。大型肉食獣では唯一封印森林(シールド・テラリウム)に導入された在来種の八尋鰐(やひろわに)。突然降ってきたでかい虫にいそいそと喰(く)いついたところ、もっとでかい知らない生き物(人間)三体の前に飛び出してしまって凝然と凍りついている。

 ……鰐(わに)の仲間には。

 仔鰐(こわに)の悲鳴を聞くと親のみならず、一帯の成獣すべてが助けに集まる種類がいて。

 八尋鰐(やひろわに)はその一種だ。

 封印森林(シールド・テラリウム)の闇の底が、敵意一色に染まってざわりと蠢(うごめ)いた。


「うわ─────────っ!?」

「えっえっえっ、何なになに何!?」

「今度は一体なにをした碧燈(あおひ)!?」

「俺じゃねえよ、むしろお前だ天茜(あかね)!」


 思いきり叫んでしまった碧燈(あおひ)と、さすがに振り返った祭(まつ)花(りか)と天茜(あかね)が言いあう間にも、ガザガザガザガザッ! と藪(やぶ)を蹴散らして驀(ばく)進(しん)する音が四方からえらい勢いで迫る。

 次の瞬間砲弾さながら、八尋鰐(やひろわに)の名に恥じぬ全長八尋(十二メートル)の巨軀(きよく)が三人めがけて躍り出た。

 咄嗟(とつさ)に天茜(あかね)は祭(まつ)花(りか)の腰をかっ攫(さら)い、碧燈(あおひ)は首領を担(かつ)いだまま、頭上の枝へと跳びあがる。間一髪、元いた一帯が巨体の下敷きになって轢(ひ)き潰された。

 落とさないようにがっちりホールドした祭(まつ)花(りか)の手の中で、ピカ=ピカがぽつりと呟(つぶや)く。


「……仔鰐(こわに)、無事ですかね?」

「ピカ=ピカ、今はそういう場合じゃ、うわぁあぁああぁあ!?」


 首領から両手を放した碧燈(あおひ)が《逆手(さかて)》を打ち、長距離転移の《縮(しゆ)地(くち)》陣が展開。

 空中に開いた扉に祭(まつ)花(りか)を抱えたまま天茜(あかね)が、ついで碧燈(あおひ)が飛びこみ、突然の急な上下動に祭(まつ)花(りか)があげた悲鳴の尾をぶった切って陣の扉が閉まる。転移完了。

 後には仔鰐(こわに)の敵が突然消えてうろうろする鰐(わに)たちと、夜の森の静寂が残った。


「……うお、びっくりしたぁあ……。けど首領も引き渡したし、これでもう解散だよな?」

「そんなわけないだろ、全小隊帰投を待って作戦後報告(デブリーフイング)だ。普段の儀式でも同じだろ」

「だって普段の報告会(デブリーフイング)じゃ寝てるもん俺」

「知ってるが、だからなんだ。なにがだってだこの馬鹿」「さすがに寝たら駄目だよ碧燈(あおひ)」

「ちぇー……」


 言いあいながら右衛門府(うえもんふ)本部の夜の中庭で、食堂のおばちゃんたちが作戦の間に総出で用意してくれていたおにぎり(碧燈(あおひ)は肉巻きと煮卵と養殖鰹節(おかか)と高菜、天茜(あかね)は培養鮭(さけ)と梅干しと味(み)噌(そ)と鶏唐揚(とりから)、祭(まつ)花(りか)は合成小魚(ちりめんじやこ)と培養マグロ(ツナマヨ)と養殖昆布(こんぶ)と小梅漬け)で小腹を満たして。

 竹筒入りの冷たいお茶を揃(そろ)って飲み干したところで、天茜(あかね)が言った。


「ところで祭(まつ)花(りか)、報告会(デブリーフイング)のあと時間はあるか?」

「?」

「暇があれば皇京(おうきよう)を案内すると言ったろ。俺も碧燈(あおひ)も今日は儀式当番じゃない。つまり暇だ」


 あ、と気づいて目を輝かせた祭(まつ)花(りか)に、天茜(あかね)も笑った。


「祭(まつ)花(りか)が良ければ、夜の皇京(おうきよう)を見に行こう」


 夜の闇の皇京(おうきよう)は、闇の中だからこその絢(けん)爛(らん)だ。


「わっ、わっ……! また光った……!」


 皇京(おうきよう)のもう一つの目抜き通り、白(しら)華(はな)大路(おおじ)。その中央の水路を渡る石橋の上で、祭(まつ)花(りか)は夢中になってその光の競演を見つめる。

 夏の夜の潤む月影、星(せい)辰(しん)の光。白い石畳の淡い反射。この時期だけの儚(はかな)い螢(ほたる)。硝子(ガラス)質(しつ)の花弁(かべん)から柔らかな燭光(しよつこう)を零(こぼ)す灯(とう)籠(ろう)樹(じゆ)と、夜光虫の遺伝子を導入されて青く煌(きら)めく綺羅鯉(きらごい)の群。

 石橋の欄干で綱渡りに興じる碧燈(あおひ)の、水路の飛び石を渡る天茜(あかね)の影を、人(ひと)懐(なつ)こい綺羅鯉(きらごい)は追いかけては漣(さざ)淪(なみ)を立て、青い光をちりばめるから清流はなにか稀(きし)少(よう)な宝石のようだ。

 きゃあきゃあはしゃぐ祭(まつ)花(りか)の一方、なぜか天茜(あかね)の腕に収まるピカ=ピカは申し訳なさげだ。


「すみません……お二方ともお疲れでしょうに、こんなに気を遣っていただいて……」

「誘ったのはこちらだ。それに普段の踏破儀式の後も、報告会(デブリーフイング)の前に気を抜きたいから水(こ)路(こ)で少し過ごしてから帰ることにしてる」


 八(や)重(え)の術師は水の霊性と親和性が高く、こうした清流の傍(そば)はとりわけ心地よく感じるのだ。踏破・破竜儀式ではもちろん、その過酷に比べればままごと同然だった今日の作戦でもそれなりに保っていた戦闘時の緊張を、せせらぎや葉(は)擦(ず)れ、涼しい風の音が緩めてもくれる。

 それは多分、極端な集中を必要とする狙撃を披露し、また父の仇(かたき)も同然の堕(だり)竜(ゆう)講(こう)に相対した祭(まつ)花(りか)にも同様だろうから。


「祭(まつ)花(りか)、よければ水路にも降りてみないか。下からだとまた印象が変わると思う」

「いいの!?」


 ぱっと身を乗りだすのを、碧燈(あおひ)が手を取ってひょいと持ちあげ、欄干の上に立たせる。うわぁ!? とか悲鳴をあげる彼女を、今度は天茜(あかね)が風を呼んで水路の飛び石に降ろした。


「あっ、ありがと……」


 突然の上下動にどきどきする胸を押さえて祭(まつ)花(りか)は言う。

 体を支える風は彼女がきちんと飛び石を踏むのを待ってから散じて、その気遣いと不思議な力強さにも何(な)故(ぜ)か鼓動が速くなった。

 それから気づいて、あ、と口を開く。


「天茜(あかね)、……髪、ほどいてるんだ」


 首の後ろで束ねる髪(かみ)紐(ひも)も花鈿(かざし)も外して、柔らかいがまっすぐな髪をただ背中に流している。

 本物の絹糸みたい、と思い、わたしよりも長いんだ、とも思ってまたドキドキした。


「……ああ、悪い。無作法だな。いつもの癖で」

「ううん、それにほどきたいのもわかるもの。風、気持ちいいもんね」


 水と緑に冷やされた風も、その冷たさが肌を撫(な)で、髪先を梳(す)いていく感触も。

 同じ水面(みなも)に来て風と水と眠りに向かう街の気配に身を委(ゆだ)ねて、いつもここで一息ついてから本部に帰投するという、その習慣の理由がわかった気がした。

 つまりは踏破儀式の後の、戦闘の後のある種の確認だ。命を削る七堕(ナナエ)との死闘はもう終わったと。普段暮らす皇京(おうきよう)の日常に、自分はもう戻ってきたのだと。

 千万丈塔(せんまんじようとう)の戦場から今日も無事に、生きて帰ることができたと──その実感を得るための。

 そんな大切な時間に迎え入れてもらえたことがなにより嬉(うれ)しくて、祭(まつ)花(りか)はもう一度言った。


「ありがとう」


 笑って言ったら、天茜(あかね)は一つ二つまばたき、それからついとそっぽを向いた。

 照れたらしい。そんな顔もするんだ。ちょっとかわいい。

 あと。


「ピカ=ピカはなんでそこにいるの?」


 果たしてピカ=ピカはとほほと翼を落とした。まさか当の本人が覚えてもいないとは。


「それは祭(まつ)花(りか)がこの水路を見た瞬間に、興奮のあまり放りだしたからです……」


 碧燈(あおひ)がもの言いたげに手招きしているのでピカ=ピカもうなずく。ええ、わかっています。

 わたくし今、ものすごくお邪魔ですよね。

 出たい、と身じろぎで意思表示をしたピカ=ピカを手を緩めて放してやりつつ、天茜(あかね)は馴(な)染(じ)みのない、名前もわからない奇妙な衝動を持て余す。

 今、目を奪われた自分がいたように思う。

 水面と樹(き)々(ぎ)の光の中、笑った祭(まつ)花(りか)に。翳(かげ)りのない白い花のように笑った、彼女の笑顔に。

 ……碧燈(あおひ)の馬鹿が、妙なことを言ったせいだ。

 それに引きずられて、なにか別の感情を取り違えているだけだ。馬鹿があまりにも馬鹿なことを言うから、ついそちらに思考が向いてしまっているだけだ。だから。

 意識なんて、していない。

 ぱたぱた上昇してきたピカ=ピカを受けとめて、碧燈(あおひ)は唇を尖(とが)らせる。

 橋の横には彼と天茜(あかね)の迎えに加えてもう一組、祭(まつ)花(りか)を送るための鉄機馬(くろこま)と雑(ぞう)色(しき)の計三組が控えていて、手配したのは天茜(あかね)だ。そのことといい、先の《風招(かぜお)ぎ》のやたらな丁寧さといい。

 眼下、灯(とう)籠(ろう)樹(じゆ)と綺羅鯉(きらごい)の明かりで、この夜でもはっきりわかるその表情といい。


「……ほら見ろ。やっぱ意識してんじゃん」