祭花の頭の上のピカ=ピカが、無言のまま目顔で答えた。わたくしも空気を読みますので。
それもそうか。
双子の兄が横目で要求してくるから──縋りつかれて懐の手巾が出せないのだ──自分の手巾を丸めて投げてやる。まず祭花の肩を払ってやってから自分の手を拭っている様子に、碧燈はいよいよ半眼になった。
ぴい、となにか小動物の悲鳴が足元であがった。
「……ん?」
目を向けると、鰐の仔だ。大型肉食獣では唯一封印森林に導入された在来種の八尋鰐。突然降ってきたでかい虫にいそいそと喰いついたところ、もっとでかい知らない生き物(人間)三体の前に飛び出してしまって凝然と凍りついている。
……鰐の仲間には。
仔鰐の悲鳴を聞くと親のみならず、一帯の成獣すべてが助けに集まる種類がいて。
八尋鰐はその一種だ。
封印森林の闇の底が、敵意一色に染まってざわりと蠢いた。
「うわ─────────っ!?」
「えっえっえっ、何なになに何!?」
「今度は一体なにをした碧燈!?」
「俺じゃねえよ、むしろお前だ天茜!」
思いきり叫んでしまった碧燈と、さすがに振り返った祭花と天茜が言いあう間にも、ガザガザガザガザッ! と藪を蹴散らして驀進する音が四方からえらい勢いで迫る。
次の瞬間砲弾さながら、八尋鰐の名に恥じぬ全長八尋の巨軀が三人めがけて躍り出た。
咄嗟に天茜は祭花の腰をかっ攫い、碧燈は首領を担いだまま、頭上の枝へと跳びあがる。間一髪、元いた一帯が巨体の下敷きになって轢き潰された。
落とさないようにがっちりホールドした祭花の手の中で、ピカ=ピカがぽつりと呟く。
「……仔鰐、無事ですかね?」
「ピカ=ピカ、今はそういう場合じゃ、うわぁあぁああぁあ!?」
首領から両手を放した碧燈が《逆手》を打ち、長距離転移の《縮地》陣が展開。
空中に開いた扉に祭花を抱えたまま天茜が、ついで碧燈が飛びこみ、突然の急な上下動に祭花があげた悲鳴の尾をぶった切って陣の扉が閉まる。転移完了。
後には仔鰐の敵が突然消えてうろうろする鰐たちと、夜の森の静寂が残った。
「……うお、びっくりしたぁあ……。けど首領も引き渡したし、これでもう解散だよな?」
「そんなわけないだろ、全小隊帰投を待って作戦後報告だ。普段の儀式でも同じだろ」
「だって普段の報告会じゃ寝てるもん俺」
「知ってるが、だからなんだ。なにがだってだこの馬鹿」「さすがに寝たら駄目だよ碧燈」
「ちぇー……」
言いあいながら右衛門府本部の夜の中庭で、食堂のおばちゃんたちが作戦の間に総出で用意してくれていたおにぎり(碧燈は肉巻きと煮卵と養殖鰹節と高菜、天茜は培養鮭と梅干しと味噌と鶏唐揚、祭花は合成小魚と培養マグロと養殖昆布と小梅漬け)で小腹を満たして。
竹筒入りの冷たいお茶を揃って飲み干したところで、天茜が言った。
「ところで祭花、報告会のあと時間はあるか?」
「?」
「暇があれば皇京を案内すると言ったろ。俺も碧燈も今日は儀式当番じゃない。つまり暇だ」
あ、と気づいて目を輝かせた祭花に、天茜も笑った。
「祭花が良ければ、夜の皇京を見に行こう」
夜の闇の皇京は、闇の中だからこその絢爛だ。
「わっ、わっ……! また光った……!」
皇京のもう一つの目抜き通り、白華大路。その中央の水路を渡る石橋の上で、祭花は夢中になってその光の競演を見つめる。
夏の夜の潤む月影、星辰の光。白い石畳の淡い反射。この時期だけの儚い螢。硝子質の花弁から柔らかな燭光を零す灯籠樹と、夜光虫の遺伝子を導入されて青く煌めく綺羅鯉の群。
石橋の欄干で綱渡りに興じる碧燈の、水路の飛び石を渡る天茜の影を、人懐こい綺羅鯉は追いかけては漣淪を立て、青い光をちりばめるから清流はなにか稀少な宝石のようだ。
きゃあきゃあはしゃぐ祭花の一方、なぜか天茜の腕に収まるピカ=ピカは申し訳なさげだ。
「すみません……お二方ともお疲れでしょうに、こんなに気を遣っていただいて……」
「誘ったのはこちらだ。それに普段の踏破儀式の後も、報告会の前に気を抜きたいから水路で少し過ごしてから帰ることにしてる」
八重の術師は水の霊性と親和性が高く、こうした清流の傍はとりわけ心地よく感じるのだ。踏破・破竜儀式ではもちろん、その過酷に比べればままごと同然だった今日の作戦でもそれなりに保っていた戦闘時の緊張を、せせらぎや葉擦れ、涼しい風の音が緩めてもくれる。
それは多分、極端な集中を必要とする狙撃を披露し、また父の仇も同然の堕竜講に相対した祭花にも同様だろうから。
「祭花、よければ水路にも降りてみないか。下からだとまた印象が変わると思う」
「いいの!?」
ぱっと身を乗りだすのを、碧燈が手を取ってひょいと持ちあげ、欄干の上に立たせる。うわぁ!? とか悲鳴をあげる彼女を、今度は天茜が風を呼んで水路の飛び石に降ろした。
「あっ、ありがと……」
突然の上下動にどきどきする胸を押さえて祭花は言う。
体を支える風は彼女がきちんと飛び石を踏むのを待ってから散じて、その気遣いと不思議な力強さにも何故か鼓動が速くなった。
それから気づいて、あ、と口を開く。
「天茜、……髪、ほどいてるんだ」
首の後ろで束ねる髪紐も花鈿も外して、柔らかいがまっすぐな髪をただ背中に流している。
本物の絹糸みたい、と思い、わたしよりも長いんだ、とも思ってまたドキドキした。
「……ああ、悪い。無作法だな。いつもの癖で」
「ううん、それにほどきたいのもわかるもの。風、気持ちいいもんね」
水と緑に冷やされた風も、その冷たさが肌を撫で、髪先を梳いていく感触も。
同じ水面に来て風と水と眠りに向かう街の気配に身を委ねて、いつもここで一息ついてから本部に帰投するという、その習慣の理由がわかった気がした。
つまりは踏破儀式の後の、戦闘の後のある種の確認だ。命を削る七堕との死闘はもう終わったと。普段暮らす皇京の日常に、自分はもう戻ってきたのだと。
千万丈塔の戦場から今日も無事に、生きて帰ることができたと──その実感を得るための。
そんな大切な時間に迎え入れてもらえたことがなにより嬉しくて、祭花はもう一度言った。
「ありがとう」
笑って言ったら、天茜は一つ二つまばたき、それからついとそっぽを向いた。
照れたらしい。そんな顔もするんだ。ちょっとかわいい。
あと。
「ピカ=ピカはなんでそこにいるの?」
果たしてピカ=ピカはとほほと翼を落とした。まさか当の本人が覚えてもいないとは。
「それは祭花がこの水路を見た瞬間に、興奮のあまり放りだしたからです……」
碧燈がもの言いたげに手招きしているのでピカ=ピカもうなずく。ええ、わかっています。
わたくし今、ものすごくお邪魔ですよね。
出たい、と身じろぎで意思表示をしたピカ=ピカを手を緩めて放してやりつつ、天茜は馴染みのない、名前もわからない奇妙な衝動を持て余す。
今、目を奪われた自分がいたように思う。
水面と樹々の光の中、笑った祭花に。翳りのない白い花のように笑った、彼女の笑顔に。
……碧燈の馬鹿が、妙なことを言ったせいだ。
それに引きずられて、なにか別の感情を取り違えているだけだ。馬鹿があまりにも馬鹿なことを言うから、ついそちらに思考が向いてしまっているだけだ。だから。
意識なんて、していない。
ぱたぱた上昇してきたピカ=ピカを受けとめて、碧燈は唇を尖らせる。
橋の横には彼と天茜の迎えに加えてもう一組、祭花を送るための鉄機馬と雑色の計三組が控えていて、手配したのは天茜だ。そのことといい、先の《風招ぎ》のやたらな丁寧さといい。
眼下、灯籠樹と綺羅鯉の明かりで、この夜でもはっきりわかるその表情といい。
「……ほら見ろ。やっぱ意識してんじゃん」