彼らが人間でないことは知っていた。
鋭い犬歯。踵が高くて関節が一つ多く見える足。白目のほとんど見えない真っ黒な双眸。
それでも大事な、いちばん仲の良かった友達だった。
「ああ、姫さま。ちょうど仕事は終わったところですよ」「今日は何をして遊びましょうか」
彼らが働く町工場の、裏手の門を通ると誰もが笑って迎えてくれる。彼らも彼らの主人である工場主夫妻も、遊びにくる小さな祭花をとても可愛がってくれた。
資材置き場を移して空けてくれた裏庭の一角で、毎日、遊んでもらった。
祭花は学校には行っていなくて、年の近い友達はいなくて。通いの爺やが帰ってしまうと邸には独りきりで。
それが寂しくて、いつも邸を出ては彼らに遊んでもらっていた。
その日も、きれいなリボンを主人にもらったからと祭花の髪を結って飾ってくれて、可愛い可愛いと誉められてそれが照れくさくてでも嬉しくて。
日が暮れて邸に帰ってから、リボンを返し忘れたと気がついてもう一度工場に向かった。
明日でもいいのかもしれないけれど、父がいるのに独りきりの邸にはいたくなかった。
レトロな目覚まし時計がまだ小声で歌い始めたところで、ぱし、と叩いて切って。
〈裾野〉の超高層集合賃貸住宅の自室の、狭苦しい寝台で祭花はうんと伸びをする。
電子情報界上の個人用仮想端末にも目覚まし機能はあるが、祭花は寝る時くらい情報界接続を切りたいタイプだ。起床を検知した環境調整AIが彼女好みの環境映像を投影し、硝子張りの坪庭を除いた壁面全体に閑雅な竹林が重なる。
──ほとんど一部屋分もあるこの坪庭がなければ、もっと部屋が広いのになぁ……
毎日のぼやきが脳裏をよぎる。やたら濃密に草木と発光性の幻獣(引き連れる珀玉は見えるのに、なぜか幻獣本体はいつも見えない)を配した全居室に設置が義務の坪庭は、積層森林同様の圧迫感を本日も無闇に放射している。というか物理的に居室の空間を圧迫している。
「ピカ=ピカ、おはよ」「おはようございます、祭花」
スリープモードから覚めたピカ=ピカが穏やかに応じ、枕元の待機ポッドから立ちあがる。
「祭花、基本食セットのストックがあります。朝食にしますか?」
「んー、いらないかな。今日も食堂で食べる。抹茶ラテ淹れて」
後半は環境調整AIを経由した汎用調理器への指示だ。ヘイラッシャイ! と、小さなキッチンからいつもの変な応答が返ってくるのを聞き流しつつ、やはり小さなバスルームへ。
出てきた時には淹れたての抹茶ラテを一口含んで、衣装簞笥を開けて考える。収納した就寝中に洗浄ずみの、制服の武官袍と単衣。夏の衵と春秋用の袷の袿に、私服が少し。
位袍は無位の黄色と決まっているが、その下の単衣や袿、衵は自由だ。今日は何色にしようかと、装束一揃いのホログラムをあれこれと姿見の自分に重ねて顔映りを確認する。
「おや、珍しいですね。普段は初期設定から変更しないのに」
「うるさいなあ。ちょっと、気分転換」
訳知り顔で覗きこんでくるのを払いのける。衵の乳白はそのまま、単衣を若草色と決めて色彩変更デバイスをセット。電気刺激により繊維の微細構造が変形、構造色による色彩を変化させる酪絹織は、単衣その他をそう何領も持てない下っ端官吏の強い味方だ。
髪を結いあげるところでまた、今日に限って妙に納得がいかなくて何度も結い直して。そんなことをしていたらすっかり家を出る時間だ。
「祭花、もう本当に出ないと電車が、」「走れば、走ればまだ間にあうから!」
着任祝いにと贈られた、白貝細工の卯の花の花鈿を留めて、あたふたと最終確認。うん、まあよし。あとは休憩時間に直そう。
ピカ=ピカを定位置の頭の上に置くのももどかしく、祭花は慌ただしく玄関を駆け出る。
先日の〈飛蝗〉の瞬殺にもかかわらず、全国各地で大小の堕竜講は様々に蠢動する。その鎮圧に、摘発に、また逮捕者の聴取や尋問に、地方警察も左右衛門府も大わらわだ。
それでも少し手が空いたタイミングで、祭花はヤエブキ機関本部を訪れる。
皇京建築の主流である寝殿造りは本棟である〝寝殿〟と別棟の〝対〟で構成され、寝殿と対は渡り廊下で繫がる。透渡殿とその下の遣水を渡り、天茜と碧燈の曹司がある東一対へ。
電磁御簾ごしに扇を鳴らして来訪を告げると、室内の二人は何故かぎょっと振り返った。
「うわ、祭花!? タイミング最悪!」「祭花、とりあえず耳を塞げ!」
予想外の反応と発言に、えっ、と祭花は立ちすくむ。
その両耳を、次の瞬間、大きくて硬い掌が塞いだ。
それはほとんど瞬時に目の前まで飛びだしてきた天茜の手で、その体温と衣に沁みた香に祭花はどきりとなる。
深沈と澄み、それでいてほのかに甘い香木の──白檀の匂い。
……そういえば。
休憩時間に直そうと思っていた髪形は、出仕したらばたばたしてしまってそのままで、ばたばたしていたのだからお化粧もきっと崩れてしまっていて。だいたい帝都は空気も汚いしだから髪も服も汚れたろうし、そうだ、今は夏なんだから汗だってかいたかもしれない!
一度帰ってシャワー浴びてから来るんだった……! と何故か激しく後悔して。
『かっけろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオァア!!』
「ひゃあっ!?」
ものすごい絶叫が檜皮葺の屋根の上から降ってきた。
あさっての方向に思考を飛ばしていた祭花は、そのこともあって飛びあがるほど驚く。
そしてその反応に我に返った様子で、天茜がびくっと体ごと手を引いた。
「……悪い。その、つい咄嗟に」
まあたしかに、会って間もない異性を相手にしていい接触ではないと言えばそのとおりではあるが。先日は担ぎあげまでしたのだから今更ではあるのだし。
「き、気にしないで。だって庇ってくれたんだもの……」
なんだか知らないが今の、騒音すら通りこして凶器みたいな大絶叫から。
はっと祭花は思い至る。自分を庇い、両手で耳を塞いでくれていたのなら。
「天茜は平気だったの? 今の音」
「聴覚、というか感覚系は全部、任意で遮断できるから」
同じく庇おうとして出遅れたのか、半端に踏み出した姿勢の碧燈もそれは同様のようで、一人無防備に絶叫に晒されたピカ=ピカだけが緊迫して周囲を見回している。
「なっ、なっ、なんです!? なにかの警報ですか!?」
「そ、そうだよ。今のなに? やっぱり警報!?」
ばっと顔をあげた祭花に、碧燈が首を振る。
「や、終業のチャイム」
「……え?」「はい?」
「終業のチャイム」
「八重の術師は夜が業務の中心だから就業時間がずれるが、ヤエブキ機関でも事務方は、他の庁舎と同じように朝から動いてるから」
淡々と天茜が補足して、それから首を傾げた。
「ああそう、祭花は俺たちに合わせると残業続きになるんじゃないか? 儀式の当番じゃなければ、こちらも時間の調整はできるが」
「あ、それは大丈夫。ヤエブキ機関と協同の間は昼夜の結番になってるから」
ピカ=ピカはまだぱちぱちとまばたきをしている。
「いえ、その、そうではなくて。……チャイムなんですか? あれが!?」
「おう。外廷の全庁舎で毎日元気に、朝八時と夕方五時と昼休憩前後の大絶叫ぶっぱなすニワトリ型機巧自在、その名も〝鶏郎〟くんです」
「官庁仕様の機巧自在を開発している陰陽寮・陰陽方はなんというか……思いついたジョークと他人の迷惑がバッティングしたら迷わずジョークを選ぶ類の馬鹿しかいないんだ」
「ええー……」
「結局バカって言ってるんじゃ濁そうとした意味ねえじゃん天茜。素直にマッドサイエンティスト集団って言っちまおうぜ」
それもそうか、とうなずいて天茜は言い直した。
「陰陽寮はマッドサイエンティストの馬鹿揃いだから」
「悪口が合体しちゃった!?」「しかもさりげなく陰陽寮全体に対象を広げましたね!?」