碧燈の今宵の踏破の起点、二十二万五千七百三十五階。これだけは他の階層と共通の、高さ三十余丈、直径二令里の円形をしたそのフロアは。
「──解析方の報告どおり、百貨店、かな」
ぐるりと見回して碧燈は呟く。ちょうど中央に彼が立つ、薔薇大理石の円柱が囲む吹き抜けのホール、円柱同士をつなぐバルコニーと磨いた石の手すり。その向こうに煌めくクリスタルのシャンデリア。フロアでは無数のショーウインドウが姸を競い、見渡すかぎり全く無人であるというのに、淡い人影と聞き取れないさざめきがそこかしこで息づく。
そしてその全てを極彩色に染めあげる、頭上から降り注ぐ光の驟雨。
煌めく翠から耀く青、絢爛の紅から燦然たる黄金へと刻々と色彩が変化する。三十丈頭上の天井部いっぱいに広がるそれは、光そのもので構成されたあまりにも巨大な万華鏡だ。
降りしきる無数の光の細片が一帯を定まらぬ七色に揺らめかせ、元より乏しい千万丈塔内部の現実感を徹底的に奪い去る。眩暈と幻惑を形にしたような精緻すぎる幾何学模様は、直視すればそのまま意識を吸われそうだ。
碧燈にはもう二十二万中略階分も見た、ちらちらと鬱陶しい装飾でしかないけれど。
見えないさざめきがさわさわと近づいてくるのを感じながら、真神の釼を引き抜いた。
「《この釼は 我がにはあらず》」
〈夢路〉の霊術陣は発動寸前を示していよいよ眩い。灰焰色をした霊術陣から視線を逸らさず天茜は詠唱する。夜ごとの破竜儀式の、その始まりを告げる言霊。
八重の術師の戦闘機能を解放する──日常では封印しておかねばならぬほどに強大なそれをこのひととき、解放するための定められた呪言。
「《鬼を狩る 大口狼の 威の釼なり》」
寄り集まるさざめき──千万丈塔の防衛機構である敵性仮想精霊は今にも手が触れそうで、けれど碧燈は視線一つも揺らさない。ただ淡々と、唱え慣れた言霊を今宵も唱える。
常には封印しておかねばならぬほどに強化された──踏破儀式のためにはそれほどにまで研ぎ澄ませねばならなかった、八重の術師の全機能を呼び覚ます言葉。
「《長途征く 御先の狼の 斎の釼なり》」
真神の釼が青く燃える。
膨大な霊力が霊力伝導率の高い絹の繊維に行き渡り、織りこまれた霊術紋を燃えたたせる。術師固有の霊力波長──霊紋に反応し、純白の武官袍を艶やかに染める色彩は天茜が真紅と月白の桜重ね、碧燈は青色の濃淡の月草重ねだ。
地上の破竜儀式場と遥か天空の千万丈塔内部で、双子の術師は同時に唱えた。携えるのは冴え凍る焰を纏い、凜冽と琅々と吼え猛る異形の兵杖。
「《響け》」
大蜻蛉の七堕・〈夢路〉の霊術陣が、全て同時に砕け散る。
侵入者を排除せんとした防衛機構の仮想精霊が、まとめて一息に吹き散らされる。
〈夢路〉の左の複眼が真っ二つに裂け、体液とも鮮血とも異なる何かが溢れ落ちる。輝く闇。さんざめく無音。そのようにしか認識できない、この世のものではない何か。
紡いだ術を破却され、その反動にひき裂かれてよろめく大蜻蛉を見据えたまま、天茜は次の手を放つ。左眼球硝子体内部、有機透明プロセッサ製の生体電算端末が稼働させていた観測演算のうち一つを終了。武装格納亜空間・一番を解放。
「来い、〈凌霄〉」
飛び出した黒影が一直線にビルの谷間を急上昇し、〈夢路〉の頭上を取ったところで反転、滞空。巨大な両翼、刃物の如き鉤爪、鋭い嘴に精悍な体軀。その全てが金属製の自律機械。
熊鷹型機巧自在〈凌霄〉。八千穂国が誇る先進技術者集団・陰陽寮製の戦闘機械だ。
黄金の双眸を無機質な殺意に光らせ、両の鉤爪を〈夢路〉の頭部に叩きこむ。不意を打たれた大蜻蛉は脳髄製の頭部にまともに一撃をくらい、輝く闇を振り零しながら側方回転。裂かれた灰白質をべろりと垂らし、無様にもビルに翅先を擦って〈凌霄〉の攻撃範囲を逃れた。
本来の敵の存在を、昆虫の単純な神経系そのままに全く忘れて。
高層ビルの側面、窓と壁面の間のわずかな段差を足場と蹴りつけ、上空の〈夢路〉の許まで瞬時に駆け登った天茜が、その真横に出現する。
一足で獣の俊足を踏み越え、二歩で最高速に至る。極限まで改造された身体を、骨格表面の《身体強化》と装束の《霊理賦活》によって霊的にも強化する八重の術師の慮外の加速性能。
高速で動く翅や動きの大きな末端部と異なり、体幹近くは回避が難しい。長い胴を横薙ぎに、天茜は青く燃えたつ釼を振るう。
敵性仮想精霊をかき消して、開けたように感じる碧燈の視界は実際に常よりも明るく広い。大気の粒子の一つ一つまでも感じとれるような、思考と感覚が鋭敏になる馴染みの感覚。
グリア細胞──神経細胞を支えて栄養補給や絶縁を担う、脳細胞の実に八割を占める細胞群を、発光性の細胞内小器官を増設することで光学信号による第二の演算系と成したグリア演算系が稼働、生来の神経細胞演算系の補助を開始したのだ。公的には実現されず、また厳重に禁じられているヒト脳細胞そのものへの操作の産物。
「〈凰尾〉、起きろ」
グリア系の記憶領域に保存されたプログラムの一つを解凍し起動。観測演算を開始。
未観測ゆえに『消失』していた仮想精霊が、演算による観測を受ける。存在座標を確定され、孔雀尾の金魚の群が顕現する。量子論的仮想精霊〝式神〟。その一種〈凰尾〉。
〈凰尾〉は速やかにフロア全域へと展開し、周囲の探査を開始。精霊とは物理界面と霊理界面の法則・現象が意識未満の意志を持った存在、〈凰尾〉は『共振』の仮想精霊だ。万物が有する霊性に共鳴することでそこに在る全てを碧燈の意識に反映し、霊的拡張知覚として機能する。
「よし、……んじゃ行くか」
〈凰尾〉の索敵情報を意識内に、解析方が作成した踏破路を左目の人工角膜に表示して。
碧燈は床面を蹴って跳んだ。
進入角を示す四角形の連続が描く回廊を正確に抜け、まずは上方、出現時の正面を零時方向と見た場合の十時の位置の三階バルコニーへ。
石の手すりに靴裏が触れると同時に全身を撓め、蹴りだして背後、今度は一階分上の高く伸びる円柱側面へ、次いで七時方向の円柱飾りの彫像の肩へ。足場を蹴るごとに返る反力を己の脚力に余さず加算し、瞬く間に常人では目でも追えない速度域へと到達する。
複数設定された経由点と、その通過順序。
それらを正しく繫いだ〝踏破路〟を進み、万華鏡天井に到達して次の階層へ登る。繰り返して三万五千八百キロメートルを登りつめ、最上階、三十五万八千階へと至る。
それが千万丈塔踏破儀式の、踏破方たる碧燈が担当する『踏破』の全容だ。
経由点と順序を無視してただ万華鏡天井に達しただけでは、千万丈塔はその階層を踏破したとは認めない。認められなければ決して万華鏡天井は開かれず、次の階層へも進めない。
踏破路の配置は階層ごとに異なり、フロアの外周近くをぐるぐる駆け上る階層もあれば、図形を描くようにフロア全体を往復しながら登る階層もある。経由点が空中に設定されていることや、仕掛けをとかねば表に出てこない、なんてこともざらだ。
「この階は……しばらくはまっすぐ登るだけだな」