だって万一、二人が同じように怪我をしたとしても祭花には助けに行くことができない。
万物への侵蝕たる七堕を前にすればそれだけで、霊力の護りを持たない一咲は消滅してしまうのだ。まして七堕を撃退できるはずもなく、だから二人の助けにもなれない。
一咲である祭花には、無力な一咲の祭花には所詮、術師の二人と共に戦う力なんてない。
父を、友人たちを誰一人、救う力もなかったのと同じに。
「……お父さま」
七堕とは死を喰らい続けて堕素を溜めこみ、限界まで膨れあがった滅びの化身だ。
その身を構成する堕素の全てを祓い、浄化することで七堕の討滅は完了する。
《禁呪》により地に縫い留められた大蜻蛉を見下ろして、天茜はまず《逆手》を打つ。
八千穂国古来の神祇術には、音を媒介とするものが多い。
手を打つ音。鈴の音。刃鳴り。瓊音。手草の笹や椿の葉擦れ。領巾の衣鳴り。弓弦を引き鳴らし、足を踏み鳴らし、米粒をうち撒き土器を割る音さえも、霊術の媒介として行使する。
「《一、二、三、四、五、六、七、八》」
《鎮魂》の言霊。《鎮魂》の言霊。天地の霊性と響きあい、己を震わせ奮いたたせることで、天地の間の万物を霊力で満たす。
それは眼前の、哀れな滅びの竜さえも。
再び《逆手》。袖の鳴玉が玲瓏に鳴り響く。ゆらかした袖がさらさらと鳴る。
指先を天に向けて打つ《柏手》とは逆、地に向けて打つ《逆手》はすなわち《柏手》の奏上・敬意・祈願の逆。宣言にして命令、意志の行使。
「──《ふるえ》」
青く輝く臥鴉丸──浄化の霊術陣が清冽な水流のように一帯に広がり、そしていかなる穢れをも吞みこみ清める青海原のように、倒れた七堕と全ての堕素とを吞みこんだ。
どういう場所かはもちろん解析方から事前説明を受けていたし、全力で汎用防御の《白瓊壁》結界を張った上で《装甲霊鱗》をとにかくフル稼働させろ、とも警告されていた。
「──うおっ!?」
それでも出現と同時に結界壁にのしかかったとんでもない水圧に、碧燈は思わず呻く。
二十二万五千八百九十七階。──たぶん水深数千丈とかの、どこぞの海溝の底である。
「最悪……!」
踏破ももう終盤、というか今日はこの階層が最後だろう。残る霊力量と踏破予測時間を計算し、最後まで結界を維持できると判断。喚きながらも碧燈は踏み出す。やっぱり存在する頭上の万華鏡天井の光が、本来無明の闇であるこの深海の階層でだけはありがたい。
ゆらりと襲いくる目の無い何かや降りくる鯨の死骸に邪魔をされつつどうにか《鎮魂》までをこなして、辿りついた次の階層、前略九十八階の真っ昼間の砂漠で大の字になった。
「うあ──……きっっっっつかったぁー……!」
砂漠の陽光は熱いというより最早痛いが、今はどうでもいい。とにかく動きたくない。明日の踏破はこの、痛いほど苛烈な陽光の下から始まるとかいう嫌な事実も今は考えたくない。
「……そんで。あいつも今日も無事だよな……?」
頭上、ぎらつく陽光の階層では全く不自然にそこにある、万華鏡天井の回転が停止する。
虚ノ刻の終了。──千万丈塔からの退出時刻だ。
ビル街がかき消える。アンカーが外れる。金剛の塔が音もなくほどけていく。
見上げる天茜の傍らに、とん、と何処からともなく飛び降りてくるかたちで碧燈が戻る。
「ただいまー。今日の七堕なに?」
夕飯の献立でも聞くような調子だ。一瞥して無傷なことを確かめ、天茜は端的に応じる。
「蜻蛉だ。大きさ三丈の」
「……七堕、見た目は生き物再現してるくせにサイズはほんと無茶苦茶だよな……」
千万丈塔が空の向こうに消えて、帝都の星の少ない夜空が戻る。三重の結界が解除。儀式前後の破竜儀式場を清める祓使が箒やら熊手やら水圧洗浄機やらを担いでどやどやとやってきて、顔なじみの彼らと挨拶を交わしつつ、入れ替わりに二人は儀式場を出た。
儀式場を囲む霊木の暗い森の向こう、感じ取った霊紋は儀式開始時にはいなかった同僚のもので、天茜は片眉を上げる。予備戦力として待機する破竜方ペアの片割れ。夜叉伏。
今日の開城方の舞孔雀は瀕死の重傷を負おうが退かないから、解析方のどちらかが負傷したのだろう。ペアの破竜術師は搬送に抜けさせ、代わって七堕の討滅にあたったようだ。
そのせいだろうか。
「──お帰りなさい、二人とも」
出迎えてくれた祭花は、なんだか泣きだしそうな。ひどくうちひしがれた顔をしていた。
新米衛士が無力感に苛まれていようがお構いなしに、堕竜講は暗躍し捜査機関は摘発する。新たに発覚したテロ計画の、鎮圧協力を依頼に祭花はヤエブキ機関本部を訪れる。
説明を聞いて天茜も碧燈も、まずは盛大に顔をしかめている。
「──帝都最大の堕竜講〈神兵ニ羞ヂズ〉を中心とした、帝都同時多発七堕テロ」
「そんで帝都どころか皇畿の主だった堕竜講全部が参加予定か。そんだけいりゃたしかに、複数個所の同時襲撃もできなくもねえよな」
「うん。……決行日は明日、九日の夜。〈野辺ノ墨染〉迎撃の戦力が整わないうちに、複数の七堕を招喚して政府の対処能力を飽和させ、帝都官庁を全て占拠。〈墨染〉迎撃準備のサボタージュを交渉材料に、九重の一族の王権廃止、帝の退位を要求する……って」
「神剣を以て佞臣を斬る、どころか直接暗君を弑すか。……左右衛門府や呪禁寮の帝都管轄局を飽和させたところで、単に軍の中央即応師団が出動するだけなんだが」
呆れた調子で天茜が言うとおり、計画自体は想定が甘すぎて机上の空論だ。国家間の戦争こそ行われなくなって久しいものの──各国とも、もう戦争どころではない──統治の基盤たる暴力装置、すなわち軍はどの王家も手放していない。そもそも仮にも中央官庁の警備を、素人がそうそう突破できるはずもないのだ。
だから計画の中で唯一実現性があり、そして当の堕竜講の想定をも超えた脅威と──政権転覆の交渉材料どころか国家滅亡の端緒ともなりかねないのは。
「七堕招喚だけは、準備と運しだいだよな。〈神兵〉くらいでかい堕竜講なら、犯罪結社から小火器だの薬物だのを仕入れる金もあるだろうし」
「それだけじゃないの。そもそもこのテロ計画はそっちの取引活性化から発覚したんだけど、参加組織全員に行き渡るだけの〝竜化精〟を購入してる」
霊力を持たず霊術を使えない一咲に、けれど人外の怪力と俊敏、竜鱗の鎧を備えた竜人への変化の術を付与する秘薬。古くから堕竜講が用いてきた彼らの切り札である。
天茜の表情が険しくなる。
「竜を模した簡易版の《駆動装甲》を──霊術製の装甲外骨格を使用者に纏わせる霊薬、だったな。……生身の、それも民間人が相手なら一方的に殺傷できる。皇畿の主だった堕竜講全員が竜人になったなら、たしかに七堕を呼べるだけの虐殺さえ不可能じゃない」
「そんで薬さえあればすぐ戦力を増やせるのが竜化精みたいな一時強化薬物だしな……。衛士の被害が多くても七堕招喚の贄になっちまうから、確実に防ぐなら戦力整えねえと」