祭花には初めて入る本部寝殿だが、今は見回す気力もない。長椅子の一つにどうにか座らせてもらって、心配に落ちつかない様子のピカ=ピカが肘掛けからおろおろと見上げる。
奥の塗籠に歩いていった碧燈が、ふと呟くのが耳に届いた。
「……一咲に飲ませても平気な〝鎮酒〟の量ってどれくらいだっけ?」
何を飲まされるんだろうと祭花は思ったが、声を出す気力はやはりなかった。
そして普段、彼の疑問に答えてくれる兄の天茜はここにはいない。幸い、西の続き間にいたらしい誰かが御簾をかき分けて回答をよこした。
「一汐の鎮酒を盃三つ。碧燈お前ね、そのなんでも兄貴に聞きゃいいって態度もう改めろ」
視線を祭花に向けたようでピカ=ピカが会釈するが、祭花は目も上げられない。
「堕素にあてられたな? もし接触されてたらそんな吞気に迷う時間なんざなかったぞ。一咲は俺らと違って霊的な防護が皆無に近いんだから、侵蝕されんのも早い」
ん、と碧燈は珍しく神妙にうなずく。
「わかった。……ありがとな舞孔雀」
おー、とおざなりに応じて誰かはひっこむ。土盃に鎮酒とやらを注いで碧燈が戻ってくる。
「というわけで。飲んで」
重い眼球をどうにか動かすと、金色の光で出来たような透明な液体だ。ふわ、と立ち昇る香りは比肩するものが思いつかないかぐわしさで、それだけでも少し頭がはっきりする。
「……いい匂い。これなあに?」
「鎮酒。霊力回復薬、って言えばいいのかな。術使いすぎたり血ィ流しすぎたりして霊力払底しちまった時に、外から補充するためのもの」
明天井から降り注ぐ瑠璃光種の星金魚の青い光が、夜闇をむしろ際立たせる。その中で、鎮酒の金の光はまるで世界を温める慕わしい陽光、あるいは万物を安らがせる月光のようだ。
良いものだと無条件に、本能が告げる。
「清浄な斎田の米から抽出した、大地と水と陽光の霊力そのものだ。うまいぜ。飲んで」
その言葉に、慕わしさに促されるまま、一口に含んだ。
告げられたとおりの大地の匂いが、陽光の温かさが、流水の清冽が、清やかな風が伸びゆく茎葉の喜びが、しなだれて揺れる稲穂の充足が、胃の腑へと落ちて全身に広がった。
悪寒や脱力感が一息に吹き払われる。しっかり食べてよく眠った朝のように活力が満ちて、体も思考も軽くなった。
「おいしい……!」
「だろ。七堕が撒き散らす堕素は霊力を相殺するから、一咲があてられると今みたいに体の霊力が足りなくなるんだ。自然回復には時間かかるから、鎮酒使って補充しないといけない」
ことんと祭花は首を傾げる。
「でも、わたし一咲だよ。……霊力なんてそもそもないのに」
ああ、と碧燈はうなずいた。
「厳密には無いわけじゃないんだ。霊術を使えるほどには多くない、ってだけで」
それは羽化精が、生命力を霊力の代わりとして幻影霊術を発動できたのと同様に。
「霊力は生命力の源だから、生きてるなら無いってことはない。心臓も脳も、体のどこも動かすには霊力が関わってる。……そう、脳だけ取りだして電子情報界上の仮想現実に『移住』する研究が、動物実験の段階で被験体が全部死んで放棄されたって話、聞いたことねぇ?」
少し考えて、思い当たる。それに以前、重装機動隊の先輩が言っていた。
「うん。あと、全身機械改造は『八割』までしかできないって──メイン循環系には繫がなくても心臓と肺も、脳に加えて残さないといけないんだって。それと同じ?」
「それと同じ。俺ら全身生体強化者も、心臓と肺を片方ずつ強化臓器に入れ替えるのはできても、両方一気に入れ替えるのはできない。肺と心臓は霊力生成の中心で、脳を動かしてるのも霊力だから、両方同時に切り離されると脳も維持できなくなっちまうんだ」
天井の格子に貼られた紗の向こう、星金魚の泳ぐ仮想水面の漣淪の影が、影と同期して板敷に投影される青い微光の波紋が、碧燈にどこか神秘的な陰影を加えている。
「単衣も護身刀も、だから、七堕に対してぜんぜん無意味ってわけじゃねぇんだ。合成培養でも絹糸は霊力を循環保持する性質があるから単衣は霊的な防御になるし、護身刀は手の延長として霊力を乗せやすい。祭花みたいに鍛錬してる衛士なら、肚ァ括ってちゃんと当てれば七堕の防御表層くらいは突破できるから、牽制できるんだから万一の時は諦めんなよ」
時間さえ稼げば自分や天茜が、必ず助けに行くから。
祭花は微笑んだ。
「……うん。がんばる」
碧燈はなんだか眩しそうな顔をして、もう一杯いっとけ、と鎮酒を注いでくれた。
盃三つまで、というさっきの誰かの言葉を頭に留めつつ、ありがたく干してから問う。
「もしかして、竜化精で《加速竜鎧》を使えるようになるのも、この鎮酒が関係してるの?」
米から霊力を抽出し、一咲にも利用可能な状態にできるのなら。
「羽化精も、生命力だけじゃ足りないからちょっと使ってるんだけど。そうだな。竜化精も羽化精も、鎮酒と同じように生き物から霊力を抽出した〝人魚酒〟が材料だ。羽化精はともかく竜化精の《加速竜鎧》には、一汐クラスを一瓶使っても足りないけど」
「じゃあ、材料のお米を密造? してるところを探せば竜化精の製造を止められるんじゃ、」
田畑を含め、この国の全ての土地は皇室が所有し、特に米は全て朝廷に納められる。少なくとも臣民の市場には出回らないから、堕竜講が米を得たければ自分で育てるしかない。
ただし山野の開墾など一発で監視衛星に見つかるのだから、屋内の植物工場だろう。それも不自然な電力消費や排熱から検出できる。時々摘発される闇情報界のサーバと同じだ。
「人魚酒の材料は米じゃないんだけど、探し方が同じなのはまあそうだな。生き物だし。だから〈纐纈染〉からこっち、地道に探して叩いてもらってる」
「そうなんだ。……それもそうか」
竜化精の材料が人魚酒とやらだとヤエブキ機関は──朝廷は知っていたのだから、それはとっくに対処もしているだろう。祭花はちょっと肩を落として、碧燈は苦笑する。
「地道に捜査して叩いてくれてるのは全国の警察と、祭花たち衛門府だよ。竜化精の量産に繫がるような規模のでかい人魚酒工場は、だから、あらかた見つけて潰してある。今回の征伐で竜化精の生産自体、停止に追いこめるはずだ」
「……そのはずだったんだが、状況が変わった。調査と摘発はやり直しになる」
苦く言ったのは治療を終えて戻ってきた天茜で、碧燈が少しずれて長椅子の場所をあける。
「やり直し? てかお帰り。お前も鎮酒いる?」
「いや。このくらいの消耗なら一晩寝れば戻る」
言う、天茜の左袖は中身がなくて、祭花はぎょっとなったが碧燈は平然と問いを続ける。
「あれ、まるごと交換になったの?」
「侵蝕が傷を経由して腕の骨全体に及んだからな。開けてみたら内側はほぼ駄目だった」
祭花はまだぎょっとなったままだ。
「……うで、とれちゃったの?」
あっと二人は息を吞んだ。
「取れてない取れてない! 外しただけ!」
「元々どの部位も簡単に外せる仕組みになってるんだ、損傷時に換装しやすいように」
再び西庇の御簾がかき分けられて、さっきの誰かが顔を出した。
「……お前らなぁ。外の奴に俺らの基準で話してやんな。ふつう体の一部は外せねぇし取れたら大怪我だし、だからなくなってたら驚くんだよ。いい加減にしろこの世間知らずども」
で、言いたいことだけ言ってまたひっこんだ。気まずく二人はうなずく。
「……そうだな。悪かった」「ごめん」