その方が坐すのは〝雲掛松〟、〈山裾〉で最も格の高い閑静な一帯だ。
せせこましく無粋な超高層ビルとは無縁の、贅沢な広い敷地に古今東西の様式の邸宅が並ぶ高級住宅街。街並みに不思議な調和で溶けこむ寝殿造りの邸第で、現状を報告すると女主人が微笑む。初夏の参上をねぎらい、手づから賜った盃の美酒。涼感を演出する、柱の間に嵌めこまれた大水槽の観賞魚たち。
「そう、かようにココノエ機関は欺瞞だらけです。権勢を維持するためなら民草の血を流すも厭わぬ、豺虎にも劣る冷血の暴君の集まりです」
宙を舞うかのように泳ぎ回る無数の観賞魚を背に、女主人は告げる。艶やかな花弁のような、揺らめく焰のような、その薄い長い尾びれの乱舞。
「彼らの欺瞞を公にし、裁きを下すまであと一息。……より一層、励みなさい」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
今でも覚えている。
儀式を終えて戻って、相方が儀式に失敗したと告げられた。
その日は会わせてもらえなかった。
ようやく対面の許可が下りて、生命維持槽の中、数多の機械に繫がれて眠る相方を見た。
あまりに損傷が激しすぎて、生まれた時から見慣れたはずの相方だともわからなかった。
あまりに損傷が激しすぎて、治療しても目が覚めるかはわからないと言われた。
その時の恐怖を、今も覚えている。
寝苦しい夢の理由は、あの日と同じきつい消毒薬の匂いのためだろう。
典医寮の一室で霊術の眠りから醒めて、天茜はまだ少しぼんやりと考える。
高頻度の換装を想定して設計された体は身体部品を交換してもリハビリも要らなければ、癒合に時間がかかることもない。手足どころか内臓を交換してもせいぜい半日、安静を保つだけで元どおりに動けるようになるのが八重の術師だ。
パーツの癒合と安定を待つ半日の間は霊術で眠っているので──やんちゃ盛りの十代に半日動くなと指示する無意味を、典医寮の医官はよくよく思い知っているのだ──、目覚めてもしばらくは醒めきらない心地がする。もう少し眠らないかとそそのかす、心地よいまどろみの誘惑をどうにか振り切って上体を起こすと、検査着代わりの小袖の襟に鱗がひっかかって攣れた。天茜の場合には第七頸椎の突起の真上にある一枚の鱗。
八重の術師の体では髪と共に、生来のままの最後の部位。
「──〈野辺ノ墨染〉の迎撃準備、あなたもお忙しいようで。半月ぶりですわね、碧燈」
固定の壁がない寝殿造りは、室内外を仕切る硝子蔀を開け放つと風が良く通る。
前栽の夏薔薇が清しく香る寝殿で、典雅に微笑むのは碧燈と同じ年頃の華奢な少女だ。
どこか神聖ですらある可憐な面立ちに、真紅に純白を重ねる夏の単重ね。紅に白の重ねは皇族、それも最高位の一品親王専用の禁色だ。皇家の祖神の一柱である緋鴉を織りだした唐衣と流水紋の裳の上に、古風にも身の丈を超える長い髪をまっすぐに流している。
絵にかいたような皇女殿下を前に、碧燈は平然と片あぐらをかいている。
「んーまあ、そうは言っても俺らは囮みたいなもんだから。綾水蓮」
あげく字名を呼び捨てにした。
それというのもこの二人、身分差を越えての友人同士なのである。碧燈と今不在の天茜は、勤務の合間に内廷のこの綾水蓮の住まい・翠雨殿に顔を出しては迎えられる間柄だ。
「迎撃本番は長官が出るから俺ら予備待機で済むし、今の征伐使の任務だって日中の時間使うだけでほとんど遊んでるようなもんだし」
同い年の衛士に皇京案内したり帝都行ったり、ついでに堕竜講をボコったり。
「その遊んでいるような征伐使の任務で、天茜は負傷して昨日から換装に帰っているのではありませんの? 大切なお兄さまに、ひどいことを仰いますのね」
「兄貴は俺だっての」
「あらあら」
口元を袖に隠して綾水蓮は笑い、碧燈は居心地悪く頭を搔く。年齢差数分の天茜はまだしも、綾水蓮はしっかり一歳年下なのに自分こそ弟分のような気がしてしまうのは何故なのか。
「……つか。そっちこそ忙しいんじゃないのかよ綾水蓮。ココノエ機関とその外の俺らとの連絡とりまとめ、こうやって買って出てるんだろ」
「とはいえ、連絡だけですもの。……そう、その取りまとめの際に耳にしたのですけれど」
つつつつと綾水蓮はにじり寄った。
膝立ちで、しかもぞろぞろ長い五衣と裳まで引きずってその速度出せるか普通? と碧燈が引くくらいの高速で膝行してきた。
「お二人が組んでいる衛士さまと、天茜。……いい雰囲気なんですの?」
そして目がキラキラしている。もう詳しく聞きたくてたまらない、という顔だ。
ついでに彼女の飼い猫の命婦殿もいそいそと寄ってきて、伺候する女官たちまでこっそり聞き耳を立てているようだ。
恋愛話大好き! な女性たちにやっぱりちょっと引きながら、碧燈はうなずいた。
「いい雰囲気になってくれりゃいいなって思ってる」
勘ぐりすぎだと最初の日、天茜は言ったけれども、それでも。
というか、むしろどう見ても勘ぐりすぎじゃないし既に結構いい雰囲気だし。親父さんのことじゃらしくないくらい気遣ってやって、八尋鰐からもカケ郎からも速攻で庇ってやって。
この前の大王烏賊の七堕については、あれが祭花じゃなくても庇ったろうからノーカウントだろうけれど……いや、やっぱり数えておきたい。だってポイント高い。
「もう三回くらい庇ってやってるし、よく話すしよく笑うし」
まあ素敵……と若い女官がつい呟いて、年かさの同僚にたしなめられた。主人とその客人の会話だ、失儀がすぎる。
当の女主人の綾水蓮はまったく気にせず、それでそれで? と身を乗りだしているのだが。
「あとそう、よく冗談も言ってるし、ちょいちょいからかってる」
「ああ! 好きな子には意地悪をしたくなる、という殿方の有名な生態ですわね!」
「生態って……綾水蓮お前な」
ぱちんと手を打つ綾水蓮に碧燈は呻く。珍獣あつかいはさすがにやめてほしい。
「お前もだ、碧燈。人のいない間に勝手な話をするな」
そしてやってきた天茜が、はっきり嫌な顔で切って捨てた。あら、と綾水蓮が肩を落とす。
「いいところでしたのに。残念」
畳と座布団は最初から碧燈の隣に設えられているので、女官は茶器と菓子の高坏を天茜に供してしずしずと下がる。品よく隠しているが、彼女もたいへん残念そうだ。
「ご本人がおいでの今こそ詳しく伺いたいところですけれど。換装当日くらいは天茜もゆっくりお休みになりたいですわよね。無粋ながら本題に入ってもよろしいでしょうか?」
天茜は一つまばたく。先の話題は、詳しく聞かれても話すことは特にないが。
「換装後の組織定着・安定の時間は充分とったから、そう気を遣わなくても」
やれやれと綾水蓮はため息をつく。
「こちらはこちらで、困ったお兄さまですこと。碧燈が内廷までこうして迎えに来ている、その気持ちくらい察してあげてくださいませ」
天茜はちょっと黙った。目の前で内心を暴露されて、碧燈は赤い顔でそっぽを向いたが言うべきことはそのまま続けた。
「今日はコレ聞いたら帰るし、お前は明日も休みだからな。聞くのも情報共有ってだけで、本部に報告持ってくのも打ち合わせもぜんぶ俺がやるから」
「……それはいいが、真っ当に打ち合わせてくるんだろうな…………? お前のとばっちりで長官に雷を落とされるのは、俺はもうごめんだ」
比喩ではなく物理的に、というか霊術的に。
うるせぇ、と碧燈はいよいよ拗ねて、仲のいい二人に綾水蓮はくすくす笑う。