「そうだ。その上で、歌流街周辺のメンテナンス通路の通行はこのとおり黙認されている。悪所通いを隠したい奴は多いし、あがりが減っては元締めだって困るからな。おかげで〈裾野〉の真面目な学生も、〈山裾〉の御令嬢との悪い遊びにこっそり歌流街に行けるわけさ」
〈裾野〉トップの高等学校で優秀な成績を収める直剣の冗談に、銀木犀がくすくす笑う。
「楽しみにしてるよ、女衒くん」
「妓楼主相手じゃ冗談にならないぞ、衆議院議員閣下のお嬢さま。……ともかく、朝廷のそのお目溢しを濫用して、犯罪結社がちょっとした会合や取引の場所にもしてるのがこの〈根の街〉なんだ。場所が場所だからさすがに、恒久的な拠点は置けないけど」
高架道路の裏側の空中である。足元も左右も素通しの金網、吹きさらしの日陰で酷く寒いという以上に、少しでも注意を引けば周囲一帯から丸見えだ。
「目溢し、か。僕も噂には聞いていたけど、犯罪結社と皇家の繫がり、本当にあるんだね」
「そうでもなければ、皇京が歌流街やその裏街を放置するわけがない」
衛士や警官も滅多に立ち入らない、どれほど下卑た欲望を露わにしても見咎められない犯罪結社の『自治区』。それが歌流街であり裏歌流街であり各都市の歓楽街だ。……そう見せかけて、実態は犯罪結社が官憲に代わる皇京の目となっているだけ。臣民のガス抜きの場として朝廷には必要な街だから、いくらかの黙認を与えて維持しているだけだ。
「さっきの御老体みたいなホンモノは皇家に顔向けできない事態を嫌うから──凶悪な堕竜講や仁義を弁えないマガイモノは進んで粛清するから、皇京としては充分な番犬なんだろうけど。……だからこうして手を嚙まれることになる」
〈根の街〉のように監視を躱す工夫をされる。その工夫を堕竜講に真似られる。そう。
「その黙認の下、特権階級のための娯楽を提供してきた──俺たち〈製薬〉にも」
朝廷の霊力補充薬・鎮酒は全国の水田で育った米を材料に製造される。これは植物が陽光と水と大地の霊力を蓄積する性質を持ち、霊力抽出源として効率的かつ経済的なためだ。
一方で、陽光と大地から切り離された屋内で材料を育てる堕竜講の人魚酒の場合には、呼吸と血流により霊力を生成可能な動物でなければ充分な霊力を抽出できない。
羽化精工場から回収されたその材料を見やって、碧燈は顔をしかめる。
人魚酒材料は動物ならなんでもいいが、主流は昆虫ほど小さすぎず、けれど立体飼育できる程度に小型で雑食、成長が早く良く増える生き物だ。たとえばラット。たとえばモルモット。
そして碧燈の前の〝灰白鼠〟のような。
「……人間の脳があるからって、霊力ふえたりしないんだけどな」
遺伝子合成によって追加された小型のヒト脳を、背中の薄皮の下に負って重たげに這いずる違法改造ラットの哀れに嘆息した。ヒトの脳としては小さいといっても、ラットの体とは同程度の大きさだ。維持するのはさぞ、負担で苦しいだろう。
人間は別段、霊的に特別な生き物ではない。霊能を持つ二華などごく少数、一方で鳥や獣、草木にも霊力を持つ霊獣・霊木は存在する。バイオテクノロジーと霊術研究を管轄する典薬省は特に、その霊獣・霊木系統を数多く確保し、幻獣製造に役立てているのだ。
一方で堕竜講は最早、人魚酒材料としても有用なそれら霊獣系統を保有していない。
何故なら今、堕竜講を構成するのは一咲ばかりだ。霊力を持たず、霊理を解さない。一咲なりに工夫した霊獣もどきに、真に霊力があるかを測る術さえ持ちえない。ただ下法士が遺した霊術機械を原理もわからぬまま動かして、人魚酒や羽化精や竜化精を作りだすのみ。
それでも七堕招喚薬という羽化精の効能が広められてしまった以上、その霊術機械を以て羽化精はより量産されるだろう。羽化精程度の製造なら賃貸住宅の一室程度の小規模なラット養殖場でも充分で、小規模な分だけ発見もしづらい。
「だからこそ、今のうちに堕竜講ごとぶっ潰さねえとな」
吐き捨て、灰白鼠に手をかざした。
構築したのは《感染霊術》。切り離された一部から本体へと、あるいはある個体から血の繫がりを経由して別個体へと、根源が共通であることを経路として伝播する霊術。
別種間で遺伝子導入を行った遺伝子合成生体は民間での製造が禁じられ、またヒト遺伝子を用いての遺伝子合成は政府機関でさえも厳禁だ。その禁じられた技術を保有し、扱う堕竜講がこの哀れな鼠を製造し、そしておそらくはパレードでの実験にもかかわっている。
千年前、下法士と共に堕竜講に下った〈企業〉の生き残りが。
赤い瞳で無心に見上げる違法生体の鼠を見下ろして、碧燈はふと囁いた。
「……ごめんな。巻きこんで」
玲瓏。
各堕竜講の養殖場に一定品質の繁殖個体を提供するため、地下工場に保持していた灰白鼠の親個体群が前触れもなく消し飛んだ。
本拠である切見世──最下等の妓楼に着くなり、直剣は番頭からその報告を受ける。学生の彼に代わって実務を取り仕切る、亡き父の弟分。犯罪結社のそれも堕竜講としてのそれも。
かつての遊郭の内装を模した妓楼の、吹き抜けのホールを進む直剣の傍らで銀木犀が言う。
「霊術──感染呪術、というやつかな。灰白鼠を殺したのは」
「おそらくな。販売先の養殖場の、どれかが摘発されたんだろう」
淡々と直剣はうなずいた。そうである以上、じきにこの本拠にも官憲の手が及ぶだろうが、自分たちの計画はもう最終段階だ。追いつかれるよりも決起の方が早い。
かつての遊郭を模し、けれど所詮は切見世だから安っぽくて、昼間の今は見られたものではないホール。自由時間の女郎たちが、友人連れの若き楼主を認めて少しニヤニヤと微笑む。
彼女たちに世話を焼かれていた小さな頃から、何度も、思ったものだ。
苦界に堕ちた女郎にも、それだけは変わらず髪に煌めく花鈿の珀玉。帝が民に賜った守護だと謳われ、その実は皇家が民に課した監視とも囁かれる、臣民どころか人としても認められないあの子たちの下にも現出する不可思議の珠玉。
何度も思ったものだ。
守護だというなら姐さんたちを、あの哀れな子供たちを救ってくれ。
監視だというならいっそ今すぐ、俺たちに裁きを下してくれ。
そんなことさえも朝廷は──九重の皇家は、ついにしてはくれなかったのだから。
図面上は存在しない地下への昇降機で下って、金属の扉が開く。
この切見世だけではない、実に色町一つ分もの地下空間に、培養槽の円柱が見渡すかぎりに連なる異様な光景が、途端に直剣と銀木犀を出迎える。
母体違法生体〈人魚〉の巨体に、なお収まりきらない人工子宮が葡萄の房のように下がる。透けて見える無数の胎児は、いくらかはヒトと他の生き物が入り混じって珍奇な、大半はヒトにも獣にもなれなかった奇怪なそれ。顧客どもの流行や注文に応じた形質を、短期間に製造するべく大量の試行を行うのだから、大半が失敗作となるのは当然のことだ。
犯罪結社〈ヘキホウトウ製薬〉が製造し、裏歌流街にて〈澗底〉が商う主力商品。ヒト遺伝子ベースの違法生体〝亜人〟。
そして堕竜講〈ヘキホウトウ製薬〉が取り扱う竜化精・羽化精の──人魚酒の材料。