地下二層、堕竜講としての隠し工場から人魚酒の封印保存瓶を運び出していた、三十人ほどの男女が──ブッキリにして蜥賊でもある〈製薬〉構成員たちが直剣を見る。
その無数の──無数の、壁の一面をぎっしり埋めて積みあがり、仄朱く輝く人魚酒の山。
「待たせた、みんな。俺たちの決起の、最後の準備を始めよう」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
詳細は実のところ、あまり覚えていない。
より正確に言うなら、思いだせない。記憶を辿ってもその数分間は知覚も思考も感情も酷く錯綜して、記憶の体を成していない。
覚えているのはむしろ、その後のことだ。
霊術の昏睡の中で、生命維持槽の眠りの中で、なお認識していた自身の状態。思いだせないくせに眠りの底で、繰り返し夢に見るあの数分間の最後の記憶。
何度か覚醒を促されていたのはわかっていたが、気がつかないふりをした。
こうなる前と同じ状況に、本当はまだいるのではないかと恐ろしくて。目が覚めてまた、同じ事態に突き落とされたらと恐ろしくて。目覚めたくなかった。
寝苦しい夢から覚めて、薄く瞼を持ちあげると黎明の暗さだ。設定した起床時刻に合わせて帳台の灯が再現する、偽の夜明けの薄闇と光。
もうじき起きる時間で、でもまだ、その時間ではない。
だったらまだ眠っていようと、碧燈はまどろみの誘惑に従って目を閉じる。覚醒を促す薄明かりに抗うように、夏用の薄い上掛けに潜りこんだ。
まだ眠りたい。起きたくない。
だって眠っていれば、起きずにいれば、天茜が起こしに来る。
双子の兄が起こしに来たなら、天茜が確実にそこにいるとわかったなら、起きてもいい。
そうじゃないなら起きたくない。
「──天茜」
機関本部の渡り廊下で天茜を呼びとめたのは同僚の舞孔雀で、電子書類表示用のデバイスを懐から取りだし、起動してついとさしだす。
「密務省から最終報告。お前らが『あたり』だ」
先日とは反対に、ヤエブキ機関からの要請で祭花たち補佐の衛士が呼ばれて。
今回は例のニワトリ機巧自在が絶叫する終業時刻のだいぶ前だから、気にせず祭花は電磁御簾の前で扇を鳴らしたのだが振り返った二人はやっぱりぎょっとなる。
「祭花ぁ! なんでそうタイミング悪いの!?」「とりあえず目を閉じて耳を塞げ!」
えっなんで!? と思いつつ祭花は耳を塞いだが、そんなこと言われて目まで閉じるのは怖かったし今度は天茜も飛び出すのが間にあわなかった。
「放送体操・第一ィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!」
で、鬼のお面をかぶった禿頭に上裸の魁偉な豪傑が、何故か本人は放送体操第一ではなく特殊部隊も落伍する伝説の第七を、三倍速で演武しながら築地塀の上を爆走していった。
「──いや本当になんなのあれ!?」「もう完全に意味不明なのですが!?」
「アレ、帝の御在所の金剛殿警備長官・〝不死身〟の笹竹さまです。各省の事務方の健康増進に、毎日この時間に放送体操第一・第二を実施してて」
「それこそ放送でも流せばいいものを、毎日わざわざ絶叫しながら実演してるのはご本人の趣味だ。終わったら戻ってくるが絶対に目を合わせるな。うっかり構ってやると懐かれるぞ」
「皇京って────!」
ハイッイチ、ニ! とかいう野太い掛け声を電磁御簾を遮音モードに切りかえて排除し、何も見なかったことにして三人と一羽は会議スペースに収まる。紗の几帳で仕切った曹司の、御簾ごしの午後の陽光で明るい続き間のソファセット。
「あ、そう天茜。怪我した左手って、もう大丈夫なの?」
「ん」
傷一つない左手をひらひらと振られる。やっぱりひっかかるものはありつつもほっと息を吐いた祭花に、おそらく無意識に微笑んでから天茜は本題に入る。
「今日、来てもらった用事だけど。──先のパレードで七堕招喚の実験を行った首謀者と、その本拠が判明した。最優先で誅殺するから、衛門府からも人員を提供してほしい」
祭花はぽかんとなった。
「も……もうそこまでわかったの? 首謀者って、」
一つうなずいて、天茜は閉じた扇を傍らの情報表示屛風に向ける。何十名もの顔写真と簡易なプロフィールが表示され、指し示した扇の先で一つが拡大。
「登録字名・直剣。職業は学生、帝都一高在籍。十八歳」
謹厳な顔立ちの、意志の強い目をした青年だ。帝都一高──公立トップの高等学校在学という身元も相まって、とてもテロなど企むようには見えない。
「出生登録は歌流街。同区の切見世町〝鉛華町〟を差配する犯罪結社〈ヘキホウトウ製薬〉の先代刀首の実子だ。就学中でまだ襲名はせず、先代の刀弟筆頭に実務を任せていることになっているが、実質的にはこの直剣が現刀首として活動している」
犯罪結社は多くの伝統的組織と同様、構成員間で疑似的な家族関係を結んでいる。打刀を稼業の象徴とすることから『刀』の字を呼称につけるのが彼らの特徴だ。
「〈製薬〉は〈寒卑の澗底〉の傘下組織で、表向きには鉛華町の管理を、裏では〈澗底〉が商う亜人の製造を担当。鉛華町を擬装とした地下工場を保有していると推測される」
大勢の娼妓と従業員が居住し、人と物品の出入りも多いのが花街だ。工場の電力消費は街のそれに、資材類は酒や食材の仕入れに、出荷品は残飯の廃棄に紛れさせられる。
そこまで聞いて祭花も気づく。先日彼女が捕らえた蜥賊がその名前を口にしていた。
──〈製薬〉から灰白を。
昨日の今日だ。連中はまだ取調室で、彼らの言う〈製薬〉までは辿りつけなかったけれど。
「亜人の工場を持ってるなら人魚酒も──羽化精の材料も量産できる」
「ああ。〈製薬〉には堕竜講としての活動の記録はなかったが、密務省の追加調査により所属するブッキリ全員がそのまま堕竜講の一員でもあると判明した」
「竜化精と人魚酒、灰白鼠の生産専門の組織として他の堕竜講に保護されてたみたいだ。遺伝子合成なんて特殊技術持ってる奴は蜥賊には貴重だもんな」
碧燈が補足した。技術者として保護され隠されていたのが、今回、パレードに際して自ら動いたことで初めて、捜査の俎上にあがったということか。
祭花は繰り返しうなずき、天茜が説明の続きを引き取る。扇を横に振って次の画像へ。
「登録字名・銀木犀。同じく学生で十八歳、鹿院学園在籍。〈製薬〉の構成員ではないが、直剣と行動を共にしている。活動の内容からして首謀者格と推定」
流し見た経歴の、居住地の項目に祭花はぎょっとなる。
「〈山裾〉の……特級臣民のお嬢さまじゃない……!」
「出生登録は歌流街だ、養子だろうな」
遺伝子操作で才と美を得た特級臣民は、だからこそ『天然もの』の美人・才人を尊び、しばしば配偶者や養子に迎える。美貌と教養を併せ持つ大見世の太夫やその子供は、常に〈山裾〉からひっぱりだこだ。
「初等校への学習支援の奉仕活動会を校内で立ちあげ、その裏で堕竜講活動をしている。他の高等学校の奉仕活動会とも活発に交流し、この堕竜講〈秦吉了〉に引きこんでいるようだ」