「あー、ごめんごめん」「ちっちゃな可愛い直剣も、もう立派な大哥さんだもんね」
仕事用の打掛を留守番の妓夫に持ってこさせて、ささ一献、などと科を作って麦茶のおかわりを注ぐ。沁みついた安い香に、直剣は忸怩たる思いをひっそりと嚙み締めた。
曲鉤楼を含め、切見世の女郎は多くがいわゆる〈谷底〉行き校出身者だ。
能力以前に意欲がないと判定され、他の生徒への悪影響を避けると称して放りこまれる最低位の義務教育校。大半はそのまま〈谷底〉に堕ち、逃れようとしてもありつける職はせいぜい切見世の最下級女郎だ。安価な人形遊女と競合が激しく、線香代も安い文字どおりの苦界。
そして安い線香女郎では稼げないから、学び直して定職に就くことももうできない。富裕な大見世・中見世の客どころか、自分とて切見世通いがやっとの薄給取りからさえ、体を売るしか能がない役立たずと生涯、見下されて生きねばならない。
そんなにも職がないのは朝廷が、重要産業には片端から人型使役を導入して臣民の職を奪ったせいだというのに。
──ちゃんとお勉強しないと、私たちみたいになっちゃうわよ?
だから、姐さん。それは本当は、姐さんの罪でもなんでもないんだ!
悲鳴のように直剣は思う。
この国では成績次第で高等教育の対象となる、つまり子供のうちから有為と無益が選別される。選別は初等部から始まるから、就学前の幼児教育を受けられない貧しい層の子供は、入学直後から自分は『劣等』だと明確に示されることになる。
まだ幼い子供がいきなり矜持をへし折られて、どうして学習意欲など持てるだろう。遥かに恵まれた生徒を眼前に、挽回しようなどと思えるだろう。
結局は生まれついた階層と財力で、その後の人生の全てが決まる。そんなものは。
「……平等でも公平でもない。そう見せかけた階級の固定だ」
口の中だけで、吐き捨てた。姐さんたちの罪ではない。為政者の罪だ。
民の遺伝的素質も行動も思想も管理し、有為と無益とを選別して有為な血統だけを残したい、一咲をまるで家畜のように扱う九重の皇家の罪咎だ。
この国では何もかもが民のためにはない。臣民の主食生産は工場に押しのけ、全てが朝廷に納められる米と絹と真珠。交通および各産業の要衝を独占する、広大な皇家直轄領。そうと生まれつくや必ず朝廷に召しあげられ、朝廷の戦力としてのみ働く術師たち。そのように稔りも富も人手も全てが皇京に、九重の皇家に奉仕するためだけに用いられる。
滅多なことでは皇京を出ず、帝に至っては臨御のこの九百余年、ただの一度たりとも臣民に尊顔を拝させたこともない──民など見てすらいない蛇どものために。
きつく、直剣は両の拳を握り締める。
銀木犀の実の父母は、ある切見世町を仕切るブッキリと、その町の線香陰郎だったそうだ。
歌流街を囲む〈谷底〉を、高架道路から見渡して銀木犀は物思いに沈む。
商品に手をつけるのは犯罪結社の御法度。両親はけじめとして歌流街から追放され、銀木犀は実母の兄貴分の後見の下、直剣の父に預けられた。直剣との縁はそれ以来だ。
ブッキリにはできない娘なのだから堅気として立派に生きていけるようにと、後見の男は様々な芸事・教養を与えてくれて、その芸事がきっかけで今の養父母に引き取られた。客として以外では歌流街には来るんじゃないぞ、と送りだしてくれた顔は今も忘れられない。
一方で、実の両親はそれからどうなったのかもわからない。それぞれどこかの大都市の裏街や歓楽街で同じ仕事をしているか、──どこかの〈谷底〉に落ちてしまったか。
「……まだ、生きていてくれるのかな。それとも……」
〈谷底〉の平均寿命は他の街より二十年以上も短い。個室から出ることもない極度の不健康、異様に多い七堕の被害に加え、自殺率が極めて高いのだ。働いて報酬を得る尊厳を、己が力で生きる誇りを剝奪されて孤独と幻想ばかりを与えられる生に、その虚しさに、彼らはいずれ力尽きて殺されてしまう。
そしてそんな下級臣民らの苦しみには目を向けずただ蔑むのが──皇家への憤懣を逸らす目的で眼前に晒し者にされた〈谷底〉を、そのとおりに蔑む奴隷根性の持ち主が、臣民だ。
「やあ、待たせた、銀木犀」「ごめんなさいね、下民の街は慣れなくて迷ってしまって」
堕竜講〈秦吉了〉の同志、鹿院学園の学友が口々に詫びつつやってきて、銀木犀は内心を押し隠して華やかに笑ってみせる。
高額の生体改造を単なる装飾として施した極彩色や金属光沢の虹彩、宝石を蒔いた培養皮膚。金銀細工の花鈿に螺鈿や蒔絵の護身刀で、いっそ場違いなほど贅沢に着飾った若者たち。
「……いや。思った以上に込みいっていたろう?」
「まったく、驚いたよ」「よくもこんなごみごみとしたところに住んでいられるものだ」
管理事務所の態で番をするブッキリに鍵を開けてもらい、〈根の街〉のメンテナンス通路へ。降りた分だけ廃墟めいた〈谷底〉の街は〈山裾〉の若者たちに近づいて、濃く澱む塵霧、墓石じみた社会保障住宅、育ちすぎて歪な魔物のような街路樹の榛木の群。
不気味な焰にも似た金緑の蝶がゆらゆらと近づいて、学友が顔をしかめて払いのける。
「明後日の革命が終わったら、こんな〈谷底〉なんかは一掃しないとね。役立たずの下級臣民が処分もされずに甘やかされて……身の毛がよだつったら」
「鬼に王道なしと言いますもの。粗暴な二本角が、資産の管理など知るはずもありませんわ」
「所詮、下民とは我ら名族に使われるだけが能の家畜だ。使えない家畜を生かしておく無駄は当然、我らが成し遂げる美しく合理的な統治には相応しくない」
先導して〈根の街〉を歩きながら、銀木犀は冷ややかに目を眇めた。
この学友たちはみな特級臣民、ここにはいない他校の同志もやはり〈山裾〉の住民か、好成績か特異な才能により選抜されて〈裾野〉の高等学校に進んだ上級臣民候補だ。
九重の皇家の支配を厭いながら、その皇家の評価のままに下層の臣民を見下し。美しく優秀な自分たちはそうではない者を同じ臣民とも思わなくて当然なのだと、角蛇どもの価値観に染まりきった卑しさを剝き出しにして愧じもしない、そんな彼らが銀木犀は嫌いだ。
好き放題に語っていた一人があっと息を吞む。
「すまない、銀木犀! 君は〈谷底〉もどきの妓楼の出だったね。君を悪く言うつもりはないんだ。優秀で、その、すごく綺麗な君はもちろん、僕たちの仲間だ。下級臣民などとは違う」
「いや、いいよ。僕が切見世生まれなのは本当だから……でも、ありがとう」
その〈谷底〉もどきの線香女郎や下級臣民に落ちてしまう、最低位校の生徒の学習を支援して上位の学校に戻らせようと立ちあげたのが、〈秦吉了〉のそもそもの始まりだ。活動がうまくいったならいずれは線香女郎や〈谷底〉そのものの学習支援も行うつもりだった──切見世を抱える直剣も、そう言った時には心の底から喜んでくれた。
けれどこの学友たちも、他校の活動会も、下級臣民候補という珍獣を見物するために、己の優越を再確認して自尊心を満足させるために、惨めな〈谷底〉行き校を愉しむばかりだった。
だいきらいだ。
〈根の街〉のメンテナンス通路のむこう、歌流街が見えてくる。整然たる〈山裾〉とは全く異なる極彩色の迷宮に、さすがに息を吞んだ彼らを振り返って銀木犀は微笑んだ。