水のような青い闇と淡い影が、今日最後の薔薇の深沈の香が、綾水蓮と向かいあって座す茨宮の袖や裾を、恐れ多いと戦きながらもおし戴くようにそろそろと浸している。
「十六日当日夜の、国土全域の霊脈賦活準備も同様に。破竜儀式場はお兄さまの封印解除から七二〇〇秒間、斎王府の総力を挙げて維持するとのことです。〈錆丸〉解放のため、警衛には衛士ではなく近衛を配置。お兄さまご自身の戦闘準備には十六汐の鎮酒を、仰せのとおり死酒にて精製。……禊の期間短縮と合わせ、綾水蓮は感心しませんよ、お兄さま」
諫言をさしあげるも、寡黙な兄宮は応えもしない。禊とは水注ぎ、水の霊性と親和性の高い九重の皇族には、特に効果的な霊力強化の儀式であるのに。
もう、と小さく頭を振り、そのまま続けた。
「砲支援には棺を七基抽出、直衛には執弓さまが。予備戦力には〈八重山吹〉と、万一に備えて〈翼仙三山〉の瑞香公主、〈超人軍〉のレディ・レッドストーンが待機なさいます。レディ・レッドストーンは自由連邦より観測の式神を飛ばしたいと仰せですが、お邪魔には?」
「問題ない。……敵味方識別霊紋符号は確実に通達を」
「お兄さまのお出ましとなれば、《使い羽》などは余波でも危のうございますものね。お伝えいたします」
静かに一つ、うなずいて。
今度は茨宮が口を開く。宵闇の薄青を全く乱さぬ、冷えた、酷く静かなその声。
「こちらからも。征伐使活動中の〈八重山吹〉は現在、最優先目標である堕竜講〈ヘキホウトウ製薬〉の捜査と誅戮を担当している」
綾水蓮はこの件では情報統括と伝達の役だ。〈八重山吹〉長官として当然、把握している蜥賊征伐の進捗を、情報統括の妹姫に共有するためだけの熱のない声音。
「誅戮は今宵、完了の予定だ」
〈山裾〉と〈裾野〉の高等学校各校の、それぞれ千人超の生徒を抱える学生寮。
その上空に、闇に溶ける漆黒の機影が到達する。消音ロータの軍用多目的ヘリ〈鼯〉。
側面の扉を開いたキャビンで二人の若者、あるいは娘、少年少女の八重の術師が、眼下の学生寮を笑んで、鋭く、また凜然と見下ろした。
「包囲の衛門府各小隊、配置完了した。舞孔雀」「了解、槍時雨。──さァて、」
「各位。これより堕竜講〈ヘキホウトウ製薬〉および〈秦吉了〉の誅戮を開始する。当校での先陣は破竜方・煌雪」「ならびに開城方・甘雪が務めますわ」
「それでは僭越ですが、一番槍。破竜方の珠兎と」「解析方の星雀。推参いたします!」
「起きろ、〈凰尾〉」
鉛華町外れの台屋ビル。隣町の小見世、中見世からも料理と菓子の注文を受ける仕出し料理屋が集まるそこの、ここも草と苔と灌木に溢れる屋上に立って碧燈は己が式神を呼ぶ。
さしのべた真神の釼に天茜が自身の釼を重ね、碧燈の霊的知覚を共有して静かに唱えた。
「──《この矢に》」
「《禍れ》」
遠い台屋ビルでの宣告と同時。
曲鉤楼地下、工場奥で最後の人魚酒を羽化精に変換していた直剣と配下のブッキリ数名が、瞬時に柱全てをへし折られたことによる崩落に巻きこまれて吞みこまれた。
霊術の矢は地上の鉛華町にはなんらの被害ももたらさなかったが、町の地下構造の崩壊だ。激震に誰もがよろめき倒れ、不在の若き楼主に代わって事態を把握するべく、遣手婆は曲鉤楼を飛び出す。
その彼女を、待ち構えていた衛士たちが即座に押し伏せて拘束した。
女郎らが甲高く悲鳴をあげる。その女郎や客たちも別の衛士が捕らえる騒ぎの中、進み出た小隊長がホログラムの令状を表示して突きつけた。
「かけまくもかしこき、大八千穂帝皇の勅命において。……堕竜講〈ヘキホウトウ製薬〉。違法薬物製造、違法生体製造、大逆および叛逆予備の咎により全員拘束する」
困惑におろおろと視線を彷徨わせていた遣手婆がその罪状に、とりわけ最後のそれに愕然と凍りつく。帝と皇家に刃を向ける大逆も、国家に仇なす叛逆もこれ以上ない大罪だ。
計画を立てた段階で死罪に相当し、容疑者というだけでも死刑相当犯となる。つまり。
「抵抗した場合、この場での即時処刑が許可されている!」
「……潰せたか?」
「ん、羽化精とかの製造機械は全部。直剣の近くにいた構成員も」
破竜方の天茜は戦闘特化の改造で、踏破方の碧燈は運動性能強化型だが霊的走査能も高い。
それぞれの得手を合わせれば、地下に潜む標的の位置を正確に把握して周囲の構造物だけを破壊、地上は無傷のまま標的を建材の崩落に巻きこむことも可能だ。
〈製薬〉本拠の曲鉤楼では衛士の突入も始まったようで、喧騒と怒号が遠くする。吞気にも明日の夜を決行日時としていた〈製薬〉に、この襲撃は全くの予想外だったようだ。
〈製薬〉にも直剣にも、密務省はとっくに行きついていたというのに。
なるほど監視には気をつけていたのだろう。〈根の街〉を利用した歌流街の出入りに関係者との会合、環境調整AIを避けての最低限の自室への滞在。……監視をかいくぐろうとするそれら不自然な挙動をも検出対象とするのが統制院の監視AIで、検出された要注意対象を追跡・監視するのが都市全域に放たれた小動物型機巧自在〈化け貉〉だ。
張り巡らされた監視網は、同時に囮。後ろめたく避ける者を無辜の中から選別するための。
「直剣は動けなくするにとどめたつもりだが、生きているな?」
「それも大丈夫。うまい具合に瓦礫に挟まってるよ」
〈凰尾〉経由で霊圧分布とその霊紋を確かめて碧燈がうなずく。生き物は誰もが魂魄、霊体を持ち、霊体と魂魄を構成する霊質は質量が時空を歪ませるように霊的な場を歪める。一咲の霊質量が発する霊圧ではごく近距離でしか感じ取れないが、生存判定には充分だ。
工場内の〈ムジナ〉に確認させたのだろう、裏部からも通信霊術《伝神》で連絡が入る。
『こちらでも確認した。霊術薬生成機械三種、および同行の蜥賊は全滅。直剣は生存しているが重傷だ。……情報取得の上でも最優先目標だ、失血死する前に回収してくれ』
遥か眼下の路地には祓使の装いの一団が控え、通信相手はその一人だ。衛門府に加え祓使からも戦力を借りた、──その名目で密務省が派遣した裏部の地下工場突入班。
部隊を率いる裏部の指揮官は、《伝神》の向こうでからりと笑う。
『六年ごしの報復だ。先陣は任せる、ヤエブキ機関』
決起のための羽化精は特製の超濃縮版だが、それでも各校それぞれに千余人分となればかなりの量だ。地下工場からの搬出口である何故か紹介制の切見世で、受け取った封印保存瓶を丈夫な鞄に詰めていた銀木犀たち〈秦吉了〉は、その暗い広間で地下崩落の激震に遭う。