素人目にもそれとわかる急造のコンソールに縋りつき、トグルスイッチを片端から倒した。
転瞬、頭上の鉛華町で、壁の向こうの工場で七堕の咆哮が、衛士や術師の絶望の悲鳴が──あがらなかった。
起動しない。工場と鉛華町の散布装置が。
「そんな……そんな!? どうして……!?」
スイッチを再び動かした。抱えたまま忘れていた鞄の封印保存瓶を片端から改めた。けれどやはり、何も起きない。否、淡翠に輝くはずの羽化精が、人魚酒の朱に戻っている。
無力化されている。羽化精の幻影霊術そのものが、いつのまにか。……どうやって!?
思い至って銀木犀は顔を歪める。先日、やはりこの工場の灰白鼠を突然に吹き飛ばした。
「感染呪術、というやつか……!」
「──よし、っと」
裏部が持ってきた封印保存瓶、またその散布装置にも、かざしていた左手を碧燈はおろす。先日の灰白鼠よりも七面倒くさい術式を構築する必要はあったものの、《感染霊術》はきちんと目標全てに伝染したようだ。
すなわち、〈製薬〉が製造した羽化精全てに《感染》する、幻影霊術の破却術式が。
この羽化精の原料は、この工場で製造された生き物だ。
この羽化精に刻まれた幻影霊術は、この工場の霊術機械で付与されたものだ。
血脈やそれに類する関係の近さを経路に伝わる《感染霊術》の対象と出来、まとめて無力化することができる。さらに面倒な術式となるが、同じ人間が作った散布装置も同様に。
「処分完了。残りの人魚酒の探索と回収頼む」「了解です」
踵を返そうとした捜索班の裏部に、あ、と気づいてつけ加えた。
「……えっと。あんまり乱暴にしないでやって」
人魚酒は所詮、亜人の霊体と肉体の霊性を抽出したものであって哀れな亜人そのものではない。だからこれは、碧燈の単なる感傷でしかないのだけれど。
裏部は優しげに目元を緩めた。
「ええ、術師さま。それも了解しています」
思わず銀木犀はコンソールに拳を叩きつける。がん! と悲鳴のような音が響く。
「くそっ……いったい術師は、二華は何様なんだ! 僕たち一咲が苦労して積み重ねたものを遠くから霊術を使っただけで指一本動かさずに!」
二華め。霊能持つ異形め。魂無き支配者め。二本角の僣神め。
一咲の足搔きをこんなにも容易く踏みにじる、神騙りの鬼蛇どもめ!
怨嗟のあまりに異様に底光る双眸が、それでもなお屈することなくもちあがる。
「……それでもまだ、打つ手はあるぞ。二華ども」
そうだ。霊力を持つお前たちと違う。脆弱な一咲の自分たちには。
「強い霊力はそれだけで、一咲には毒だ。──飲ませればいい。幻影霊術で生命を削る羽化精よりは弱いだろうけど、人魚酒のままでも飲ませれば人は死ぬんだ」
それを恐れてだろう、散布装置も壊されてしまったけれど、まだ銀木犀が接触可能な。
「倉庫の、出荷待ちの亜人たち。……彼らにだけでもせめて、復讐をさせてやる」
案の定、格納亜空間維持用の鎮酒は〈組打〉でごっそり消費されて残量が心もとない。とはいえ〈十一式〉も〈八郎〉も置いていけないし、着たまま長時間歩き回る想定の装備でもない。
他の装備の格納を諦めることにして、祭花はその格納亜空間を全解放。出てきた六尺棒と双節棍、落としたままの四尺棒を残置し、三節棍は肩にかけて鉄扇は腰帯に挟んだ。
「凜雪、ごめん、できたら〈金鵄〉で残置装備の回収お願い」
〈高張提灯〉と共に〈金鵄〉を──大型の猛禽である鳶型の機巧自在を操る凜雪に無線で要請。新しい木材は掌にひっかかって使いづらいため、馴染んだ棒は惜しい。
りょーかい、と凜雪は快諾してくれて、今度は小隊長へ繫ぐ。祭花がブッキリをぶちのめしている間に、この曲鉤楼からも地下工場への突入が始まっていたようだ。突入班に合流するよう指示を受け、地下への昇降機を隠す釣針模様の壁掛けをくぐって地下工場へ。
「──斑牙!」
「嬢か。いいところに来たと言いたいところだが、やはり狭さが問題だな」
「…………?」
地下通路の曲がり角を楯にした斑牙が、手鏡を使って見せてくれた曲がり角の向こう。
人一人が通るのがぎりぎりの幅の、無意味に曲がってすぐさま戻る通路の奥。分厚い防弾扉に守られた管理室にたてこもり、竜人どもが壁の銃眼から密造火器、それもアサルトライフルか汎用機関銃の銃身だけを突き出して待ち構えていた。
出荷前の亜人の倉庫は数寸堂の真下にあるが、地上からの昇降機はケージを落とし、メンテナンスハッチも塞いで封鎖したようだ。衛士の姿はまだない。けれど。
「亜人だけじゃ……足りないか……」
銀木犀が見回した先、積みあがった金属の檻の中で、昇降路上方からの異音と異様な雰囲気に怯えて身を寄せあう亜人の少年少女はせいぜい数十名といったところだ。人間ならば千人からの贄を必要とする七堕の招喚にはまるで足りない。
「衛士が突入した瞬間に、その衛士も贄とすれば……駄目だ。それでも百人も超えない。術師は殺せば強力な贄になるらしいけど、霊力を持つ術師には人魚酒は毒にならないから……」
なら、どうすればいい。考えろ。考えろ。考えろ。
今、自由に動けるのはおそらくはもう銀木犀一人だけだ。直剣の遺志を、番頭に託された〈製薬〉の悲願を叶えられるのは自分だけだ。だから考えろ、考えろ……!
不意に、閃いた。人魚酒とは、亜人の命を奪って生成したものだ。
人魚酒とは死そのものだ。銀木犀が抱えるこの人魚酒は、無数の亜人の死そのものだ。
「大量の人魚酒さえあれば……七堕は呼べる……!?」
呼びかける方法なんか知らないけれど、呼び水となる死さえあれば、もしかしたら。
最後の希望らしきものを見出した銀木犀の双眸が、怯える亜人に向けられる。
電磁加速狙撃銃〈八郎〉なら防弾扉も撃ち抜けるが、問題は通路の幅が狭すぎて〈十一式〉が展開できず、生身で伏せ撃ちしようにも今度は例の曲がり角に〈八郎〉の長大な銃身がひっかかることだ。あからさまな対物火器対策に、見事に祭花は無力化されてしまった。
「なら、短砲身の推進弾発射機ならどう?」「後方爆風でこちらが焦げるな、嬢」「誰か装甲入れる改造してないか」「ねえよ。重装機動隊じゃないんだぞ」「閃光音響弾投げこめる隙間もないしなぁ」「盾も曲がり角で引っかかるし」「ワ、ワタクシめが閃光音響弾を抱えて飛びこむのは!?」「もちろんダメよカシャ=カシャ」「なに言ってるの」「馬鹿言うな」
臆病な疑似人格設定らしい根付が決死の覚悟で言ってその場の全員が却下したところで、斑牙が嫌そうに嘆息した。多少のリスクは容認せざるをえないのは衛士の常だが。
「こういう場合こそ霊術に頼りたいところだが。要請してこちらに来させるにも時間がな」
「……なら、」
ちり、と刃鳴りが背後で零れる。
振り返った祭花の視界を、伸ばされた桜重ねの袖が塞ぐ。
「頼られたとおり、このまま喰わせてもらう。──《響け》」
竜人どもの立てこもる管理室が、身も蓋もなく紅蓮の猛火に埋まった。