七堕を構成する堕素とは滅びそのもの、万物を侵蝕し、消滅せしめる虚無の焰だ。
鉄檻がまとめてぐずりと朽ちる。薙がれた尾がコンクリートの壁をごっそりとかき消す。長い太い尾はそのまま衛士に迫り、防御の麻の葉紋に弾かれて激しく火花を散らした。
招喚陣の破却は間にあわないと見て天茜が展開した汎用防御結界《白瓊壁》の檻。七堕を、共に漏出した濃密な堕素を、閉じこめてそれ以上広げないための。
同時に《汎用防壁》の外側に《縮地》の双翼陣が複数展開、衛士と亜人たちと銀木犀を吐き出す。七堕に近くてそのままでは結界内に取り残される彼らを、碧燈が転移させたのだ。
獲物を眼窩に捉えた七堕が巨大な頭部を下げて構え、結界壁へと全身をぶちかます突進。跳ね返ってきた猛烈な『重さ』に天茜は歯を食いしばった。
「ッ……!」
数万斤はあろうかという巨獣の重量。そしてそれほどの巨体を構成する膨大な堕素の、霊異存在の強大さとしての霊圧だ。
全長は実に七丈はあろうか。その威容に比してなお馬鹿げた巨大さの頭骨、下手な短刀よりも凶悪な牙を揃えた顎骨。立ち枯れた巨木めいた背骨から肋骨が伸びて胸骨に繫がり、尖った竜骨の向こうに頑強な後ろ脚と分厚い鉤爪、長く長く連なる尾の骨が続く。
それは人類の出現よりも遥かに以前、この惑星に君臨した獣脚類恐竜の完成形。
暴君竜の王──その全身骨格だ。
パレードでの大王烏賊がそうだったように、ほとんどの七堕は瞬間的にしか顕現しないものだが、覇王の竜は《汎用防壁》の結界の中、いつまでも消え失せない。破竜儀式以外ではごく稀にしか現れない、膨大な堕素を飽食して完成した成体の七堕だ。
ただ待っていても、この七堕は消えない。破竜儀式と同様、撃破し浄化せねばならない。
天茜はそう判断を下す。
一方で、ここは戦場として種々の備えがなされた破竜儀式場ではない。儀式場外への流れ弾を防ぐ《翠瑞垣》結界もなければ、周辺の臣民の退避もなされていない。《国土結界》の傷そのものはすでに自動修復されているけれど──《国土結界》は国家守護・救済の大祭祀を司る帝を術者とし、大気や大地の霊脈から霊力供給を受ける極めて強固な結界だ──漏出した大量の堕素は未だこの地下倉庫に残ったままだ。
守らねばならぬものが多い現状で、この戦場は足枷が多すぎる。
だから七堕を見据えたまま、天茜は双子の弟に短く呼びかける。
「碧燈」「おう」
応じて釼を構え直した碧燈に。
「〈月滴子〉は任せた」
観測演算を押しつけるなり、空いたグリア系の演算能力で《縮地》を展開。
自分以外の全員を、まとめて転移の陣に取りこんだ。衛士も祭花も亜人も銀木犀も。
目の前の碧燈も。
呆然としたのは一瞬、かっと碧燈が激昂する。
「てめえ!」
「七堕の討滅は、破竜方の俺の役目だ」
「だからってこんな、《戦場隔壁》もないとこで一人で戦う気か。俺も残った方がいい!」
「弁えろ、踏破方」
ぐっと碧燈は言葉に詰まる。
踏破方は原則、七堕との戦闘は行わない。
そして失わせるわけにもいかない。
最も人数が多く替えのきく破竜方と違って、踏破方は常に一人だけだ。
破竜方の天茜と踏破方の碧燈では、同じ八重の術師でも全く価値が異なる。千年を投じる三十五万八千階の全行程の、残る未開城・未解析階層はわずかに一万二千、ついに儀式の終わりが見えた今この時に、二十二万階までを踏破した術師を失うなど。
「〈月滴子〉と銀木犀の引き渡し、それにさっきの招喚陣の報告をしてくれ。特に招喚陣とその術者については現状、お前以外に詳細を報告できる奴がいない」
衛士が根付経由で格納亜空間を、蜥賊が竜化精を使用し人魚酒製造の霊術機械を動かしているとおり。あらかじめ構築された術式に鎮酒や人魚酒で霊力を供給し、起動するのは一咲にも可能だ。原理や構造を理解せずとも、電池を入れてスイッチを押せば懐中電灯は点灯する。
けれど《国土結界》の──一帯の霊力分布の変化に応じ、刻々と構造を流動させる超複雑な大霊術の、ごく一部でも読み取って相殺霊術を構築するのは一咲どころか並の術師にも不可能だ。まして万一の誅戮失敗・七堕招喚に備えて強化されていた今宵の帝都の《国土結界》をあろうことか独力で穿つだけの大霊力。
堕竜講の〝下法士〟、朝廷に服従せず、ゆえに千年前の〈大粛清〉の対象とされた二華血統の生き残りは、危険な朝敵としてこの千年、優先して摘発されて六年前の〈纐纈染〉でとどめを刺されて、だからこれほどの実力者が残っているはずはないというのに。
「それに招喚のタイミングも不可解だ。独力で《国土結界》が突破できるならそもそも〈製薬〉に協力する必要がない。最後の最後でこれ見よがしに七堕を招喚してやる義理も」
仮に協力の理由があったとしても、それなら〈製薬〉は羽化精による間接的な七堕招喚ではなく、下法士を術者に、人魚酒を霊力供給源にした直接招喚を行えた。監視網をかいくぐらずとも結界内で会合を持てた。工場に突入された後も、もう少し時間が稼げたろう。
何もしてやらなかったくせに、何もかもが終わってから無意味に七堕を招喚して。
それにより八重の術師に──朝廷にわざわざ己の存在を知らせて。
くっと天茜は目を眇める。
「意図が読めない。なにか、想定していなかったかたちの敵がいる」
個人か、結社か、それ以上か。それはわからないけれど、……何かがまだ潜んでいるというこの情報をこそ、皇室直属の術師である天茜は皇京に持ち帰らせねばならない。
「けど……!」
だというのにまだバカは物分かり悪くぐずるから、鋒先を鼻先に突きつけて黙らせる。
「そういう馬鹿なところは心底腹が立つが、お前は俺の弟だ。……誰にも殺されてたまるか」
生意気だし寝汚いし何かというと頼りにしてくるくせに人の話は聞こうともしないけれど、弟だ。守らなければならないと、この世で唯一思う相手だ。
ぎゅっと碧燈は唇を引き結ぶ。
《縮地》の陣が閉じきる直前、その隙間から吐き出すように叫んで寄越した。
「すぐ戻るからな、この馬鹿!」
碧燈は、祭花は、その瞬間、見た。
《縮地》の羽根の扉の向こうの天茜が──ふいと目を背けるように背を向けたのを。
「戻ってくるな、馬鹿」
七堕の出現そのものは八千穂国の日常の危機だ。碧燈の報告を待つまでもなく御所・内廷深部の三基の〈琴宮〉が七堕成体の出現を検知。出現地区一帯に向けて自動命令が発令。
歌流街で清掃業務に従事していた〈アラモ〉〈ニコモ〉が全機、一斉に動きを止めた。
色彩可変絹の外装が警告色の赤に切り替わる。げろりと開けた大口の奥から大音量の警報を発し、七堕の出現とそれに伴う避難命令の電子音声をやはり大音量で流しながら近くの酔漢・娼妓へと突き進む。
大口を開けて迫りくる真っ赤な機巧自在にこそ驚いて、住民も客も慌てて反対側へと──歌流街の外へと逃げていく。抗う者や立ちすくんでしまった者はその巨体でぐいぐいと押してまで、清掃機巧自在は安全圏への住民の誘導に勤しむ。
同時に、周辺の上空を遊弋していた大気浄化幻獣が進路を変更して歌流街へ。