「ああ、戻る。……あんたの兄貴が、死ぬかもしれなくてもあんたを助けに戻った理由と同じだ。相方なんだから、兄弟なんだから、──見捨ててなんか帰れない」
琉璃揚羽は小さく嘆息したようだった。
『……仕方ありませんね。六年前の二の舞となっても困ります。──ただし、参戦は密務省の術師と合流、〈月滴子〉を渡してからです。それまでは現在地で待機。それと無理はしないように。避難完了と増援の到着まで、時間を稼ぐつもりでいなさい』
やりとりの間、もちろん衛士たちも突っ立っていたわけではない。一部は銀木犀と亜人の護送の手配をし、残りは避難誘導に戻るべく衛門府本部に状況を確認し指示を仰ぐ。その中で、祭花はやりとりを終えた碧燈に近づく。
「碧燈。……戻るならわたしも、」
連れていって、と続けるより先に、碧燈が一瞥を寄越した。
冷徹な眼光。
「無茶言うな、一咲が七堕と戦えるか。はっきり言うけど足手まといだ」
言いながらその表情はわずかに歪んだ。
足手まといだから、ではないけれど。庇われたから逃がされたと彼自身、自覚しているからこそ屈辱と無力感に歪んだ。
「その備えがされてる破竜儀式場じゃないから、《戦場隔壁》の補強だの周りの避難状況だのに気ィ回しながら戦わないといけない。その上お前まで守るのは厳しいんだ」
祭花はけれど引かなくて、だから二人は睨みあう。穢れた帝都の、裏路地の夜の闇の中。
「……じゃあ、守ってくれなくていい」
「なんだと」
「勝手についてくんだから、放っておいてくれていい。手、離さないから、一緒に行くことになるでしょ」
言いながら腕を摑んだ。離さないという意志をこめて握りしめた。
碧燈は顔を歪める。
「……なんでそこまで」
出会って間もない、友人ではあるだろうけれどただそれだけの自分たちに。
祭花はこの時、初めて碧燈から目を逸らした。
「……似てるの。さっきの天茜は、亡くなる直前のお父さまと」
大嫌いな父だった。
そう思っていたけれど本当は、……怖かった。
いつでも沈んだ顔をして、憂悶と苦悩に沈んだ顔をして、ひっそり息を殺すように生きている父だった。白い下直衣の背中は儚く細くて、目を離したら消えてしまいそうで怖かった。
そして実際、見ていない間に死んでしまった。
消えてしまいそうで怖くて、だから幼い祭花がいつも逃げだしていた邸で。祭花に置き去りにされた邸で独り、七堕に喰われて死んでしまった。
今ならわかる。
父はずっと、どうにかして死にたかった。
強力な術師の血統である九重の皇家にけれど一咲として生まれた父は、その罪を死んで償いたかった。役立たずな、無力な、無価値な自分を捨て去りたかった。いつも罪悪感に苛まれて息をすることさえ後ろめたい苦しい人生を、一日も早く終わらせたかった。
その纏った色濃い絶望の気配こそが、幼い祭花には恐ろしかったのだ。
「さっきの天茜は、お父さまと同じなの。生きてるのが苦しくて申し訳ないって思ってて、だから目を離したらきっと死んじゃう。お父さまみたいに」
自分が見捨てた、父のように。
愛されなかったからと愛さなかった。そのせいで苦しいまま死なせてしまった父のように。
だから。
だから。
「見捨てさせないで」
今度はまだ、助けられる人を。
見捨てたらまた、苦しいままに、独りのままに、死んでしまう人を。
碧燈はしばし、沈黙した。
「……あんたは術師じゃない」
「わかってる」
「わかってねえ。……霊力が一番弱いから、七堕の前に出たらあんたが真っ先に狙われる。囮になりに行くようなもんだぞ」
祭花は一瞬、目を見開いた。
ピカ=ピカが、そこまでは黙って聞いているだけにとどめてくれていた斑牙が、何か言いかけるのを制して必死に笑った。
「じゃあ、役に立てるんじゃない。いいよ。囮でもなんでも」
「ったく……」
短くぼやいて碧燈は左手をかざす。格納亜空間の観測演算を終了、手の中に釼を召喚した。右手に携えたままの真神の釼と同じ長さ、同じ拵えの、おそらくは予備の。
ずいと突きだして押しつけた。
「持ってろ。お守り程度だけど、ないよりはマシだから」
半町四方の戦場では狭すぎるのは、全長七丈の暴君竜にも同じだ。たとえばその重量を武器に突進しようにも、加速の距離がろくに取れない。
それでも七堕は巨大な頭部を低く下げて構える。千余斤を軽く超える頭部の重量に引きずられるように踏み出し、勢いに乗って前進、疾走。踏みしめる後脚でコンクリートに亀裂を入れ、前のめりに倒れこむようにして頭部の重量を叩きつける。
回避して《戦場隔壁》に激突されれば〈ヒロモ〉へのダメージが大きい。受けるしかない。霊力を圧縮硬化した防壁霊術《醜楯》を刀身に展開、衝撃緩和の術式を追加。相手の速度が乗り切る前に自らも踏み出して、天茜は暴君竜の吶喊を真正面から受けとめる。
硝子の割れるような大音響を撒き散らし、比べれば小枝のような真神の釼が巨竜の突進を冗談のように防ぎとめる。
左目角膜に情報更新の表示、がちがちと牙嚙みする七堕の頭部に〈沈ク花〉の識別名がオーバーラップ。皇京に状況が伝わったようだ。それなら続く対応も動きだしたか。
妓楼の──解語の花売る店の無念を糧に生まれた七堕には、ずいぶんと皮肉な識別名だが。
……花ならとりあえずは、焼いてみるか。
「《夜は螢の》」
《火焰呪》を詠唱。霊術の劫火が眼前に顕現。
全身に焰の牙が喰いこんだ暴君竜──〈沈ク花〉が轟と吼えて仰け反り、火を厭う獣そのままに飛び退る。なおも纏いつく朱焰を払いのけんと激しく身を震わせ、ついには天を仰ぎ咆哮して穢れた風巻を生みだした。
激しく吹き荒れる暴風に焰が吹き散らされる前に──《火焰呪》が返される前に天茜も術をキャンセル。幻のように霊焰が搔き消え、灰焰色の風を纏った〈沈ク花〉が後脚でがりがりとコンクリートを搔く。再びの突撃。
見た目どおりに脳のない。否。
「俺が避けないと学習したか……!」
背後の《戦場隔壁》を庇っていると、この一度の交錯で。
そしてそのとおり、天茜に回避の選択肢はない。釼に《醜楯》を再構築、再び激突。穢れの風巻の分だけ浅い裂傷が装束の袖や裾に、腕に頰に刻まれ、また刃の向こう、牙嚙みの奥で唸りが轟く。──詠唱。七堕の、霊術行使の。
天茜の身長と大差ない長さをした、前脚の骨がずるずると伸びる。
瞬く間にとぐろを巻くほどの長さに達する。円柱から扁平へと変形し、鋼鉄の如き背板と腹板を鎧う。側面から数十対の尖った歩行肢を、先端に触角と禍々しい大顎を生やしたそれは、左右一対の大百足だ。
同時に暴君竜の本来の顎が釼を嚙む。本体に釼を封じさせ、百足の両腕がかっと大顎を開いて左右から天茜に襲いかかる。
「〈凌霄〉!」
応じて上空、〈ヒロモ〉の直下で待機していた──高度のかたちで位置エネルギーを保持していた鋼鉄の猛禽群が動力降下。巨大な翼が生みだす速度に重力加速を加え、〈沈ク花〉の大樹めいた脊椎に、楯の如き肩甲骨に、檻のような肋骨に吶喊。
背部を痛打された〈沈ク花〉が衝撃に釼を取りこぼす。自由を取り戻した得物を天茜はすかさず振るい、百足の大顎を左右ともに弾き返した。
砕けた骨の、斬り削ったキチン質の破片が堕素に戻って撒き散らされる。