結界内の大気を侵蝕するそれを、天茜は翻した釼の刃音で祓う。浄化を避けて〈沈ク花〉は狭い戦場を後退。今や己の全長ほどにも伸びた百足の双腕を持ちあげ、またも頭を下げて吶喊の──少なくとも初撃は必中すると確定した攻撃の構えをとる。
その割れた肩甲骨が、砕けた肋骨が、ひびの入った脊椎が不意に、ずるりと伸びて蠢く。
「……君、」
そして二人のやりとりが聞こえていたのだろう。銀木犀がどこか後ろめたく口を開いた。
「そこの衛士の君、君だって一咲だろう。なのにどうして術師を……二華を助けるんだ」
「……天茜がいなくなるなり元気だな、あんた。むしろ俺のが、天茜ほどあんたに寛容にはなれねえんだけどわかってんのか」
はっきり厭わしげに碧燈が横目を投げ、銀木犀はびくりとなったがそれでも祭花から視線を逸らさない。なおも後ろめたげに、何かを恐れるように言葉を紡ぐ。
「ひきずりみたいに媚びを売っても、皇京は君を受け入れない。なのに」
長く裾を曳く遊女、皇族や貴族の侍妾を侮蔑する言葉にも、祭花は目を眇めただけだった。
「さっきも思ったけど、……やっぱり、ちゃんと見てないのはあなたの方だわ」
歌流街の闇を直視しているようで、この国の歪さを正しく見抜いているようで、……それ以前の肝心なことに見ないふりをしている。
「斑牙、この前の現場写真を、投射サイズ最大で」
ふっと斑牙が眉を寄せた。人型使役特有の、強膜の見えない真っ黒な双眸。
「……平気か、嬢」
人型使役は改造元となった犬の本能そのまま、人間を愛してくれている。そんな人型使役の中では斑牙の無愛想さは珍しい部類だが、だからといって彼が人を嫌いなわけではない。むしろ任された新人の祭花を彼なりに可愛がってくれて、……本当は耐えなくてはいけないことからも庇ってくれていた。
その優しさに、これまで甘えてきてしまった。でも。
「うん、大丈夫。……もう大丈夫」
うなずいた斑牙が、やはり懸念顔のブル=ブルに指示した直後。
空中に大きく映し出されたのは、七堕による殺害現場の記録写真だった。
一面に鮮血と、わずかな喰い残しがぶちまけられた──堕素に侵されて消滅するのではなく七堕に喰い殺されたケースだ。割合としては少ないが、毎夜確実に千件以上も発生する事例。
ひゅっ、と銀木犀が息を吞んだ。
祭花もまたきつく歯を食いしばった。全く同じ真紅の記憶が──父と友人たちの死に様がフラッシュバックしかけて、その恐慌を、掌の熱さを思いだして必死に抑えた。
何度も庇ってくれた掌の。八尋鰐から、七堕から、父の死への罪悪感から、庇ってそして支えてくれた天茜の手の、少し高い体温と力強さを。
その熱にかき消されて、蘇りかけた惨劇の情景が少しずつ遠ざかっていく。
映像とはいえ初めて乗り切ることが出来てそろそろと息を吐くと、斑牙にくしゃっと頭を搔き回された。頼りない仔犬を見守ってきた師父犬からの、最後の子供扱いだとわかった。
そして銀木犀はその祭花以上に真っ青になっていて、眼前の酸鼻に釘付けになっている彼女を、見据えて祭花は低く告げる。
「あなたがしようとしたのは、こういうこと」
この国はなるほど、たしかに根深く歪んでいる。塵霧の帝都を眼下に、己ばかりが清浄と安寧を享受する皇京。国家の大権を帝都以下には渡さず、独占する朝廷。叛逆を封じる厳重な監視網。有為でなければならない民。──あらゆるものが皇家のためだけに存在しているかのようなこの国のかたちに、祭花だって父だって傷つけられた。
それでも。
「亜人は殺せなかったのに、この街や〈裾野〉や〈山裾〉や、あなた自身の仲間さえ平気で七堕に殺させようとした。〈製薬〉首魁は平気で天茜を撃とうとして、あなたはそれを平気で見ていた。……なにが、殺すことはなかった、よ。自分たちが先に、誰も彼も問答無用で殺そうとしておいて。碧燈の目の前で天茜を撃ち殺そうとしておいて」
ちょっと殺そうとしたくらいで反撃するなんて酷い。殺し返すなんて酷い。
そんな言いぐさがあるものか。
「他人を人間扱いしてないのは……皇京も〈山裾〉も〈裾野〉も豺虎扱いしてたのはそっち。悪鬼呼ばわりして人外呼ばわりして、これから目を逸らしてたのはあなたたちの方だわ」
位袍の袖を振るい、七堕による殺害の光景を示した。銀木犀たちが帝都にもたらそうとし、けれどそれがどれほどの無惨であるのかは考えもしなかった光景を。
目の当たりにしてしまえば、そうやって恐ろしくて目も背けられないくせに。
それほど恐ろしい無惨が自分たちの行動の結末だと、本当はどこかでわかっていたくせに。
「人が殺されるのは怖いでしょ。人を殺すのは怖いでしょ。だってそれは悪だもの。どんなに理由をつけてもどんな正義を掲げても、人を殺したらそれは悪だもの」
七堕に父を殺された、その喪失にこそ今なお祭花は傷つき続けている。国の歪みよりも一咲に生まれついたことよりも、もっとずっと傷ついている。
その七堕による死を、人の死とそれに伴う悲しみを。自分だって平気じゃないからこそ見ないふりをして、他人に与えようとする堕竜講の振舞こそが祭花にはいっとう許せない。
「そんなこともわからないあなたは。本当はわかっていたくせに、わからないふりで誰も彼も殺そうとしたあなたたちは、──ただの甘ったれのひとごろしだわ」
銀木犀はその断罪に、そっと目を閉じる。
まったくそのとおりだ。そして言うとおり、とっくに気がついていた。あの時。直剣を殺されてそれを糾弾して、術師の一人にひきずり起こされた時に。
小さかった。直剣よりも銀木犀よりも。背丈も年齢も二人より小さな、まだ幼さの色濃い顔立ちと背の伸びきらない細い体軀をしていた。
討とうとした二華が子供だなんて、──自分たちのせいで子供が死ぬかもしれないなんて。……そんなこと、自分も直剣もたしかに、考えてもみなかった。
今度はなにを勝手に納得したのか、銀木犀はおとなしく護送されて。一方で亜人たちは協力を申し出たこの町のブッキリの、若い衆と違法改造の電気駆動車と見世の備品だろう打掛やらガウンやらの提供の下で移送されていって。
護送と移送には最低限の頭数を回して、残った衛士たちが避難誘導に散っていく。歌流街の外からも応援の衛士と祓使が向かっているそうで、その一班と共に来るという〈月滴子〉使いの密務省の術師を待って祭花と碧燈は待機する。
預かった真神の釼は、佩用具がないので手巾で帯に括りつける。気合のために髪もきつく結い直す祭花の傍らで、碧燈はピカ=ピカを両手に乗せる。
「ピカ=ピカ、消費した鎮酒のかわりに俺の霊力、容量満タンまでチャージしていい? 想定外の運用だからピカ=ピカには負荷かかっちまうけど、祭花の防護の足しになるから」
「もちろんです、碧燈さま。お願いします」
うなずいたピカ=ピカが仄皓い燐光に包まれる。髪を結い終えてその様を見守って、祭花はふと思いついて問うた。下法士には効くのだから、もしかして。
「電磁加速狙撃銃なら、七堕にも手傷くらい負わせられる?」
碧燈はけれど首を横に振る。