ヤエブキ機関 千万丈塔踏破録1

四 ⑧

 天茜あかねと同じ破竜術師は大勢いて、だから天茜あかね一人がいなくても踏破儀式は平気だけれど踏破術師は碧燈あおひ一人だけだ。碧燈あおひが動けないならそのあいだ千万丈塔せんまんじようとうの踏破は進むことがなくて、それは仲間たちの努力も、九百年にもわたり踏破儀式に殉じてきた歴代のの術師の思いも踏みにじることだと、それはわかっていて。

 自分の代での踏破完了は決して無いと知りながら、踏破路の確認と改造技術の改良のために走り続けた──碧燈あおひたち後進のために走り続けた、歴代の踏破術師の先達たちを。

 それでも碧燈あおひは動けなかった。仲間に失望されることよりも数多あまたの先達を裏切ることよりも、天茜あかねがいなくなってしまうかもしれないことが一番怖かった。

 気がついてしまったからだ。

 これまで常に──常にかたわらにいたはずの。そしてこれからも共にあると疑いもなく信じていた双子の兄が、その実たった独り死んでしまう存在だと。

 こんな無惨むざんな、何一つの尊厳もない死を迎えるかもしれないのが、はりゆうがたの役目なのだと。

 気づいてしまったら恐ろしくてたまらなくて、もう一歩も動けなくて。

 踏破儀式からも、天茜あかねの報復にと仲間たちが積極的に参加していた征伐使せいばつし活動からも目を背けて、双子の兄だけ見て兄のことだけ考えて過ごした。

 でも、安心なんてやっぱり一度だって出来なかった。

 眠るのが怖い。だってかたわらの天茜あかねの体温がなくては、自分の形がわからない。

 誰かと話すのが怖い。だって自分の声だけで、天茜あかねの声が聞こえない。

 何をするのも怖い。何をするにも一緒だった天茜あかねが、だって、今はそこにいない。

 一日過ごすごとに追いつめられた。ある日とうとう思い余って、眠る兄に泣きついた。


「起きろよ。なぁ。もう起きろよぅ、天茜あかねぇ……」


 ずっと言いたかったけれど我慢してきたことを、口にしたら途端に涙が出た。なんだかひどく情けなかった。

 返る言葉は当たり前だけれど無くて、そんなことにも打ちのめされる。

 天茜あかねが言いそうな返事はいくらでも思いつくのに、それに自分がなんと応じるのかは、天茜あかねの返事が聞こえないからわからない。

 何をしてもどんなにあきれても、最後には仕方ないなとつきあってくれるのが双子の兄だとわかっているのに、では、その時自分は何をしているのかが何一つも思いつかない。

 そのように。


「起きろよ。お前がいないと俺、どうしていいのかわかんないよ……!」


 天茜あかねが覚醒の兆候を示したのは、その翌朝のことだった。


シヅハナ〉の巨体は見る見るうちに、ほのおに焼かれて縮んでいく。《火焰呪ほたるび》を跳ねのけようと死に物狂いであがく、その動きさえもがおぼつかなくなる。

 瞬間、〈シヅハナ〉はあろうことか、自ら爆散してばらばらに飛び散った。

 飛来した幾つもの鋭い骨片を、天茜あかね咄嗟とつさたちはらい飛ばす。

 それはこの場合の正しい対処だ。

 仮想物質化するほど密度の高いの塊──七堕ナナエの体そのものと接触すれば、いかなの術師の防御でもい破られる。また接触したを《感染霊術ヌリテ》の媒介に、より強力な呪詛じゆそたたきこまれかねない。だから、接触される前に術具で払うのは正しい対処だ。

 ただしこの時、この敵、天茜あかねに限ってだけは、間違いだった。

 散らばり、転がった骨片が姿を変える。

 大きさはまるで違うが、基本的な形は暴君竜テイラノサウルスと同じ獣脚類のそれだ。やはり肉も皮膚もない全身骨格の、せいぜいにわとりほどの大きさの肉食恐竜。

 暴君竜テイラノサウルスの全身骨格の、分割片から変じたの。

 小型の猛禽型恐竜ミクロラプトル

 幾百のそうぼうに一斉に天茜あかねを捉え、小鳥のようにさえずる。小さな口にのぞく、細かく鋭い白い牙。

 ──その小さな口に。

 鳥のくちばしのような、ネズミの顎と歯のような小さな口と牙に。

 皮膚も肉も骨も手足も顔も、腹の中に潜りこんではらわたに至るまで、ついばまれかじり取られてむさぼられることを想像したなら──略奪者ラプトルなどとはとても名付けられないだろうに。

 一度された記憶がよみがえる。

 常には思いだそうとしても思いだせない、衝撃のあまりに意識の外へ切り捨てて、封じこめて凍りつかせてしまった記憶がよみがえる。

 最初は、悪魚クジラじみて大きなネズミと見えた。

 次の瞬間それは無数のこねずみに分裂し、その大群にたかられ引き倒されてみこまれていた。

 強固なはずの《》は七堕ナナエとの直接接触に瞬時に突破され、知覚はネズミの姿と声と感触とに全く塞がれて、やがて一つ一つ失われた。振り払おうにもすでに手も足も動かず、経験不足の幼い脳が恐慌きようこうで霊術もつむげぬとあれば、もはやあらがすべは何一つもなかった。

 その数分間の、永遠に続くようだった数分間の地獄の、苦痛と恐怖がよみがえる。

 封じこめてしまったからこそ忘却もされず、時間に薄められもしないいまだ鮮烈な記憶が、再びその瞬間に立ち戻らされてしまったかのようによみがえる。


「ッ……!」


 無意識に息を詰めた。視界が白くくらみ、思考は真っ赤に塗り潰されて、あの時と同じく何一つもできずにただ凍りつく。

 眼前の術師から逃げるつもりでその姿を取った──けれど肉食獣の形状を備え七堕ナナエとしてのさつりく衝動を抱えた、小型猛竜ミクロラプトルどもの目の前で。

 そう、本当は覚えている。

 封じこめてしまっただけで、本当はなにもかも覚えている。

 むさぼられる苦痛も。

 こんすいの底でも脳のどこかが認識していた、かろうじて残った身体からだの部位が次々に奪われていく──激しく損傷した各部が治療のために切り離される感触も。それにより自分の形が一つ一つ、失われていく恐怖も。

 失った体を一つ一つ、戻されていくのだって安堵あんどするどころかむしろ恐ろしかった。

 つけ直される部位はその瞬間までは、つけ直されれば自分だけれどそれは失われたじぶんそのものではない。そうであるなら、己を生かす内腑ないふも行く足も触れる手も世界を映す目も耳も、己と外部の境界である皮膚さえも、全て失ってじぶんでないものに入れ替えられてしまった自分は、それではどこまで『自分』なのか。このさき何度でも自分と自分でないものとを入れ替えられていく自分は、それではいつまで『自分』でいられるのか。

 そもそも人の形を成す前から、改造神経細胞・改造グリア細胞の種じぶんでないものを神経系に植えつけられている自分たちは、────

 の術師と生まれてついてからずっと、考えないようにしてきたその疑問を、その恐怖を。これ以上なく突きつけられる現状がどうしようもなく恐ろしかった。

 破竜術師であるのはこれから先もなおも自分を失い続けて、その果てにい尽くされて死ぬことだと気づかされてしまって、……そうなるくらいならもう目覚めたくなかった。

 せめて今、残ったわずかな自分だけでも守って。いつまでも眠っていたかった。

 凍りついていたのは、それでも一瞬だけだった。

 その一瞬だけでも致命的だ。

 立ち尽くした足に、小型猛竜ミクロラプトルが我先に飛びつく。強烈なえと小さな牙をきだして次々とらいつく。あの時と同じく、七堕ナナエとの直接接触に《》が瞬時に陥落。無数の牙に肉とけんい破られた右脚からの、機能喪失の警告が左目の人工角膜に赤くひらめく。

 そして気配を察し、顔をあげた天茜あかねの眼前で。

 再構成された暴君竜テイラノサウルスの頭部骨格がかっと牙をき、無慈悲にどうあくらいついた。

 あの時。

 天茜あかねが覚醒の兆候を示したと看護師に告げられた時、碧燈あおひはむしろおののいた。

 あんな勝手な言葉をよりにもよって傷ついて眠る兄に投げつけて、天茜あかねがそれに応じようとしていることに。その罪深さにおののいた。

 そして今でも後悔している。

 天茜あかねは、もう目覚めたくないと思ってしまうくらい本当に怖がって、本当に傷ついていて。

 そんな兄にそのうえ泣きついて、引き戻してしまったのは自分だ。

 自分を見捨てられなかったから、天茜あかねは目を覚まさざるを得なくなったのだ。

 以来ずっと、天茜あかねは死にとらわれている。

 いつか同じ死を、あの最悪の死を迎えるかもしれないのが破竜術師だと気づいてしまって、その最悪よりはな死を毎日まいにち目の前にして、だから時折、天茜あかねは誘われてしまう。夜ごとの破竜儀式の死闘の最中に、ふいと死線を踏み外してしまおうとする。

 破竜術師は、原則としては破竜儀式で死ぬわけにはいかない。ペアを組む開城かいじようや解析の術師を死なせないためには死ぬわけにはいかない。