天茜と同じ破竜術師は大勢いて、だから天茜一人がいなくても踏破儀式は平気だけれど踏破術師は碧燈一人だけだ。碧燈が動けないならそのあいだ千万丈塔の踏破は進むことがなくて、それは仲間たちの努力も、九百年にも亘り踏破儀式に殉じてきた歴代の八重の術師の思いも踏みにじることだと、それはわかっていて。
自分の代での踏破完了は決して無いと知りながら、踏破路の確認と改造技術の改良のために走り続けた──碧燈たち後進のために走り続けた、歴代の踏破術師の先達たちを。
それでも碧燈は動けなかった。仲間に失望されることよりも数多の先達を裏切ることよりも、天茜がいなくなってしまうかもしれないことが一番怖かった。
気がついてしまったからだ。
これまで常に──常に傍らにいたはずの。そしてこれからも共にあると疑いもなく信じていた双子の兄が、その実たった独り死んでしまう存在だと。
こんな無惨な、何一つの尊厳もない死を迎えるかもしれないのが、破竜方の役目なのだと。
気づいてしまったら恐ろしくてたまらなくて、もう一歩も動けなくて。
踏破儀式からも、天茜の報復にと仲間たちが積極的に参加していた征伐使活動からも目を背けて、双子の兄だけ見て兄のことだけ考えて過ごした。
でも、安心なんてやっぱり一度だって出来なかった。
眠るのが怖い。だって傍らの天茜の体温がなくては、自分の形がわからない。
誰かと話すのが怖い。だって自分の声だけで、天茜の声が聞こえない。
何をするのも怖い。何をするにも一緒だった天茜が、だって、今はそこにいない。
一日過ごすごとに追いつめられた。ある日とうとう思い余って、眠る兄に泣きついた。
「起きろよ。なぁ。もう起きろよぅ、天茜ぇ……」
ずっと言いたかったけれど我慢してきたことを、口にしたら途端に涙が出た。なんだか酷く情けなかった。
返る言葉は当たり前だけれど無くて、そんなことにも打ちのめされる。
天茜が言いそうな返事はいくらでも思いつくのに、それに自分がなんと応じるのかは、天茜の返事が聞こえないからわからない。
何をしてもどんなに呆れても、最後には仕方ないなとつきあってくれるのが双子の兄だとわかっているのに、では、その時自分は何をしているのかが何一つも思いつかない。
そのように。
「起きろよ。お前がいないと俺、どうしていいのかわかんないよ……!」
天茜が覚醒の兆候を示したのは、その翌朝のことだった。
〈沈ク花〉の巨体は見る見るうちに、焰に焼かれて縮んでいく。《火焰呪》を跳ねのけようと死に物狂いであがく、その動きさえもが覚束なくなる。
瞬間、〈沈ク花〉はあろうことか、自ら爆散してばらばらに飛び散った。
飛来した幾つもの鋭い骨片を、天茜は咄嗟に釼で払い飛ばす。
それはこの場合の正しい対処だ。
仮想物質化するほど密度の高い堕素の塊──七堕の体そのものと接触すれば、いかな八重の術師の防御でも喰い破られる。また接触した堕素を《感染霊術》の媒介に、より強力な呪詛を叩きこまれかねない。だから、接触される前に術具で払うのは正しい対処だ。
ただしこの時、この敵、天茜に限ってだけは、間違いだった。
散らばり、転がった骨片が姿を変える。
大きさはまるで違うが、基本的な形は暴君竜と同じ獣脚類のそれだ。やはり肉も皮膚もない全身骨格の、せいぜい鶏ほどの大きさの肉食恐竜。
暴君竜の全身骨格の、分割片から変じた数百もの群体の。
小型の猛禽型恐竜。
幾百の双眸に一斉に天茜を捉え、小鳥のように囀る。小さな口に覗く、細かく鋭い白い牙。
──その小さな口に。
鳥の嘴のような、鼠の顎と歯のような小さな口と牙に。
皮膚も肉も骨も手足も顔も、腹の中に潜りこんで内腑に至るまで、啄まれ齧り取られて貪られることを想像したなら──略奪者などとはとても名付けられないだろうに。
一度そうされた記憶が蘇る。
常には思いだそうとしても思いだせない、衝撃のあまりに意識の外へ切り捨てて、封じこめて凍りつかせてしまった記憶が蘇る。
最初は、悪魚じみて大きな鼠と見えた。
次の瞬間それは無数の小鼠に分裂し、その大群にたかられ引き倒されて吞みこまれていた。
強固なはずの《装甲霊鱗》は七堕との直接接触に瞬時に突破され、知覚は鼠の姿と声と感触とに全く塞がれて、やがて一つ一つ失われた。振り払おうにもすでに手も足も動かず、経験不足の幼い脳が恐慌で霊術も紡げぬとあれば、もはや抗う術は何一つもなかった。
その数分間の、永遠に続くようだった数分間の地獄の、苦痛と恐怖が蘇る。
封じこめてしまったからこそ忘却もされず、時間に薄められもしない未だ鮮烈な記憶が、再びその瞬間に立ち戻らされてしまったかのように蘇る。
「ッ……!」
無意識に息を詰めた。視界が白く眩み、思考は真っ赤に塗り潰されて、あの時と同じく何一つもできずにただ凍りつく。
眼前の術師から逃げるつもりでその姿を取った──けれど肉食獣の形状を備え七堕としての殺戮衝動を抱えた、小型猛竜どもの目の前で。
そう、本当は覚えている。
封じこめてしまっただけで、本当はなにもかも覚えている。
貪られる苦痛も。
昏睡の底でも脳のどこかが認識していた、辛うじて残った身体の部位が次々に奪われていく──激しく損傷した各部が治療のために切り離される感触も。それにより自分の形が一つ一つ、失われていく恐怖も。
失った体を一つ一つ、戻されていくのだって安堵するどころかむしろ恐ろしかった。
つけ直される部位はその瞬間までは自分ではなくて、つけ直されれば自分だけれどそれは失われた体そのものではない。そうであるなら、己を生かす内腑も行く足も触れる手も世界を映す目も耳も、己と外部の境界である皮膚さえも、全て失って代替部品に入れ替えられてしまった自分は、それではどこまで『自分』なのか。このさき何度でも自分と自分でないものとを入れ替えられていく自分は、それではいつまで『自分』でいられるのか。
そもそも人の形を成す前から、改造神経細胞・改造グリア細胞の種を神経系に植えつけられている自分たちは、────自分なんてものを持っていたことがあるのだろうか。
八重の術師と生まれてついてからずっと、考えないようにしてきたその疑問を、その恐怖を。これ以上なく突きつけられる現状がどうしようもなく恐ろしかった。
破竜術師であるのはこれから先もなおも自分を失い続けて、その果てにまた喰い尽くされて死ぬことだと気づかされてしまって、……そうなるくらいならもう目覚めたくなかった。
せめて今、残ったわずかな自分だけでも守って。いつまでも眠っていたかった。
凍りついていたのは、それでも一瞬だけだった。
その一瞬だけでも致命的だ。
立ち尽くした足に、小型猛竜が我先に飛びつく。強烈な餓えと小さな牙を剝きだして次々と喰らいつく。あの時と同じく、七堕との直接接触に《装甲霊鱗》が瞬時に陥落。無数の牙に肉と腱を喰い破られた右脚からの、機能喪失の警告が左目の人工角膜に赤く閃く。
そして気配を察し、顔をあげた天茜の眼前で。
再構成された暴君竜の頭部骨格がかっと牙を剝き、無慈悲に獰悪に喰らいついた。
あの時。
天茜が覚醒の兆候を示したと看護師に告げられた時、碧燈はむしろ戦いた。
あんな勝手な言葉をよりにもよって傷ついて眠る兄に投げつけて、天茜がそれに応じようとしていることに。その罪深さに戦いた。
そして今でも後悔している。
天茜は、もう目覚めたくないと思ってしまうくらい本当に怖がって、本当に傷ついていて。
そんな兄にそのうえ泣きついて、引き戻してしまったのは自分だ。
自分を見捨てられなかったから、天茜は目を覚まさざるを得なくなったのだ。
以来ずっと、天茜は死に囚われている。
いつか同じ死を、あの最悪の死を迎えるかもしれないのが破竜術師だと気づいてしまって、その最悪よりはまだましな死を毎日まいにち目の前にして、だから時折、天茜は誘われてしまう。夜ごとの破竜儀式の死闘の最中に、ふいと死線を踏み外してしまおうとする。
破竜術師は、原則としては破竜儀式で死ぬわけにはいかない。ペアを組む開城や解析の術師を死なせないためには死ぬわけにはいかない。