けれど一度儀式に失敗した天茜は、そしてとりわけ貴重な踏破術師の相方である天茜は、特に厳重な予備戦力が儀式のたび備えられている。少し前までは破竜方最強だった琉璃揚羽とその兄のペアが、現在では同じく最強の座につく夜叉伏と薄刃椿のペアが、彼の敗北に備えて常に待機している。共に儀式に参加する破竜術師だって、必ず一人は年上でベテランの、何かあっても二体の七堕を押さえて予備戦力の投入を待てる実力者だ。
天茜はだから、破竜儀式で死んでしまっても踏破儀式にはさほど影響がない。
誰もそんなつもりではないのだろうけれど、まるで彼が死ぬのを待っているかのような万全の態勢が整えられているのだから、そのとおり死んでしまってもそれはそれで構わない。
引き留めているのはただ、天茜自身の矜持と責任感だけだ。
傷も癒えない兄に泣きつく弱い弟を見捨てられない、兄としての矜持と責任感だけだ。
碧燈が天茜を、死に誘われながらも抗わねばならぬ、苦痛の戦場に縛りつけている。
今なお死に誘われるような傷を、──それが癒えるまで休むことさえ彼に許してやらなかったから今なお負わせたままにしてしまったのだって、六年前の幼い碧燈だったというのに。
俺こそが。あいつを。
「……あのさ、祭花」
ずいぶん長く、黙っていた碧燈がその果てにぽつりと口を開いて、祭花は目を向ける。
碧燈は後ろめたく目を逸らして、痛みを堪えて目を伏せて、祭花を見ない。
「言うとおりあいつ、ほっといたら死んじゃうから。目ェ離したらその間に、いなくなっちゃうかもしれない奴だから。だから……」
だから。
「助けたいっていうなら、助けてやって。あいつのこと、いなくなりたいとか思わないようにしてやって」
そして碧燈は一度、唇を引き結んで吐き捨てるように零した。
俺では決して、あいつのことを救えないから。
それでもあれから、六年だ。
六年、積みあげた戦闘経験がほとんど自動的に天茜の身体を駆動させる。戦場に出たての幼い破竜術師には思いつけなかった回避と反撃を、即座に呼びだして躊躇なく実行。
体を捩って右腕に喰いつかせ、腕と釼を犠牲に致命傷となる胴体の損傷を回避。現生のどの獣よりも強力な咬合力に腕が喰い千切られる寸前、釼を起点とした《爆轟呪》を高速展開。
高性能爆薬のそれをも上回る超高速の衝撃波が、暴君竜の顎を内側から爆散させた。
戦場を瞬時に駆けぬけた衝撃波と爆焰は小型猛竜をもまとめて吹き飛ばし、細かい設定をしている余裕はなかったから天茜自身にも牙を剝く。とはいえほとんどは装束の《装甲霊鱗》で無効化できる。それに今さら傷が増えたところで、痛覚はとっくに遮断しているのだからなんの問題もない。
動かない右脚に義足代わりに《駆動装甲》を展開し、ややぎこちなく飛び退って間合いを開ける。べろりと半端に、壊れ残って垂れ下がった右腕の残骸を、残る左手で無造作に摑んで千切り捨てた。
口腔内で炸裂を起こされた暴君竜にも即座の反撃は難しかったようで──なにしろ頭部は全く爆散、残るは構築途中の脊椎の半端な連なりだけだ──どこか異形の花にも似た動けぬその身がまたしても解ける。生き残った小型猛竜の骨をも再び取りこんで形を変える。……同じ獣脚類の骨格の、一丈余りの敏捷な体軀の恐爪の猛禽恐竜。
復活した後脚で瓦礫だらけの床を踏みしめる。姿勢安定系である長い尾を揺らし、名の由来となった凶悪な鉤爪をがちりと鳴らした。──機動力と兵装の復活。こちらは片足の自由を失い、〈凌霄〉も、右腕と共に最後の釼さえ失ってしまったのだが。
まあ、さほど問題はないかと天茜は思う。
真神の釼はないと困るものではあるが、なければ術を使えないというわけでもない。数万斤の巨体をこんな、せいぜい千余斤サイズまで削りとってやったのだから、あとは増援到着まで《禁呪》を繰り返して抑えこむくらいはなんとかなるだろう。
ただ。
ふっと馴染み深い思考が、脳裏を掠めた。
そうまでして生きのびなくても、別に、いいのではないか。
どうせ代えのきく自分などを生き残らせるより、七堕を滅する破竜方の使命に殉じた方がいいのではないか。
六年前に無様に死に損なった自分などが、このうえ無意味に生き続けるよりは。
六年前から碧燈の足枷となり続けている自分などが、なおも生きのびて双子の弟の足を止めたままにしてしまうよりは。
目を覚まさずにいた間も、天茜は外界のことをある程度認識していた。
同じ八重の術師や、今も馴染みの典医や看護師が繰り返し話しかけてくれる声は聞こえていたし、双子の弟が毎日朝早くから夜遅くまで、つききりで傍にいたこともわかっていた。
今代の踏破方である碧燈が、一人きりしかいない貴重な踏破術師の彼が、天茜を失うことを恐れるあまりに長い間、踏破儀式を放棄していることを。
あれからずっと、碧燈は破竜儀式で天茜が死ぬことを恐れ続けている。
恐れているから、踏破にもあまり身が入らない。天茜の安否などという余計な心配に気を取られて、儀式に集中できないから速度が出ない。
全て、天茜が六年前、無様にも負けて死にかけたせいだ。
そのせいで双子の弟に、それまで意識せずにいられた破竜儀式の果てのきょうだいの死を意識させてしまったのだ。
元より天茜の霊力量は八重の術師としては低い部類だ。だから破竜儀式での殉職も、そう可能性の低い未来ではなかったのだけれど──それを碧燈の目の前に、天茜はあまりにも酷いかたちで突きつけてしまった。
そして霊力の低い天茜は、その弱さゆえにいつまでたっても、碧燈の恐怖を拭えない。碧燈は今でも天茜の戦死を恐れて、そのために立ちすくんでいるままだ。
天茜が弱い分だけ、碧燈は本当は強いはずなのに。歴代の踏破方の中でも強力な、千年の悲願たる千万丈塔踏破を終わらせるに相応しい踏破術師が、彼の双子の弟のはずなのに。
その碧燈の足枷となるばかりの自分は、弱いから弟の懸念一つも晴らせない自分は、だから、いない方がいいのではないか。
自分さえいなくなれば碧燈は、弱い兄などに足を取られず進んでいけるのではないか。
同僚たちにだって、自分のせいでずいぶんな迷惑をかけている。常に待機している夜叉伏と薄刃椿。やはり常に同じ結番に加わる槍時雨。本当なら自分などにかまけるのではなく、この望外の儀式進行の高速化が成せている今のうちに、開城戦闘に投入すべき彼ら。
そうでなくても、自分よりよほど強い夜叉伏や薄刃椿とペアを組み直せば、碧燈が七堕に害される可能性は今よりもっとずっと低くなる。弱い自分などが無意味な意地を張って戦い続けるよりもよほど、双子の弟の安全に貢献できる。
──特別じゃないのは。選ばれなかったのは。やっぱり……つらいから。
最も多く最も替えの利く破竜方だからこそ。その中でも弱い部類だからこそ。……自分などには何もできないからこそせめて、兄の役割だけでも果たしたいなんてそんなくだらない意地のためだけにこの上なおも、この世界を救うべき碧燈の足を捕らえ続けるくらいなら。
自分などここで、今すぐ死んでしまった方が。
惹かれるように剣印を向けた。《禁呪》ではなく攻撃のための霊術を、今にも飛び出さんとしている恐爪猛竜を見据えて紡いだ。
詠唱すべき言霊が長く、その分だけ威力の高い霊術。今の天茜の為体でも確実に七堕を滅却でき、そして喰いつかれたとしても死ぬまでには詠唱し終えられる霊術。
「──《この声は》」
〈沈ク花〉が身を撓める。突進が来る。即死だけ回避すればそれでいい。
そのとき不意に、〈沈ク花〉は眼前の天茜から視線を転じた。
《縮地》は距離と結界とを同時には越えられない。《戦場隔壁》のすぐ手前で双翼の扉を飛び出し、そのまま駆けて到達した地下倉庫跡の戦場で、祭花は鋭く息を吐く。