帯に差した釼とピカ=ピカに宿る碧燈の霊力、更には頭から被いた紺青の衣が堕素を防いでくれるから呼吸は苦しくなく、膚と肉が焼かれもしない。碧燈だけでなく祭花までもが戦場に戻ると知った〈月滴子〉使いの術師が、それならこれも着ていきなさいと防護の術をかけて被せてくれた彼の位袍。
眼前には半端な掌だけが柄に絡んだ釼が突き立っていて、その向こうには恐竜の姿の七堕と、釼と片腕を失い、ぼろぼろの右脚を《駆動装甲》で支えて立つ天茜の姿。
桜重ねの戦闘装束が真っ赤に染まるほど、大量の血を流しながらも強く光る瞳で、決然と七堕を見据えている。
まにあった。よかった。
思うけれどまだ気は緩めない。むしろ息を細く吐くのと共に意識も鋭く研ぎ澄ませていく。
鋭く引き絞られ、同時に戦場全体に広がる意識に、響いてくるのは澄み渡る高音だ。
鋭利な刃で水晶を撃つように、銀の鍾を珠玉の枹で打ち鳴らすように響く。いっそ恐ろしいほどの清冽で広がり、鈴を振り鳴らす残響をどこまでも留める。繰り返される音響と残響が、重なりあってやがて万々の鍾の歌声になる。
音の波の中心にいるのは碧燈だ。抜いた釼を顔の前に水平に構え、無言のままに霊術を紡ぐ。ちらりと双眸が祭花を見やり、小さく一つうなずいた。
同時に祭花は刀を抜いた。
預かった真神の釼ではない。それは抜くなと言われている。一咲の霊力ではそれは危ないからと。だから自分の護身刀だ。護身用だから短い刀身の、けれど刃引きではない鋭い鋒先の。
自分が生まれた時に父が、わざわざ神刀鍛冶に打たせたのだという誕生の祝いの。
踏みこんで眼前の七堕の、長い尾の半ばに斬りつけた。
護身刀は。
手の延長として霊力が乗せやすく。鍛錬を積んだ自分たち衛士なら、正しく気迫をこめれば七堕の表層防御くらいは突破できる。
一咲の自分でも七堕を皮一枚、傷つけることくらいはできる。
刃が尾の骨に喰いこみ、斬り裂き、何か抵抗に当たって跳ね返る。
途端に七堕の虚ろな眼窩が祭花を振り向く。
より弱い獲物を見いだし、そのまま喰いつかんと向き直る。直後。
嚙み鳴らす左側の歯が、本来の音響とは異なる澄んだ金属音を奏でるのを自分の身体と天地に響かせつつ碧燈は数える。この術は詠唱も要らないし使い分けも楽だし強力で、ついでに碧燈が得手とする術なのだが、回数がかさむことだけが少し手間だ。
……二十九。
祭花が動く。
護身刀を抜き、眼前の七堕に斬りつける。
……いや祭花なにしてんの!?
まさかの光景に思いきり焦りつつ、とにかく碧燈は霊術を完成させた。
八重の術師が用いる呪禁の術は、大陸由来の霊術と八千穂国古来のそれが習合したものだ。
大陸由来の霊術の一つである《叩歯》は、名のとおり歯を嚙みあわせる音を媒介とする。いずれも大陸にて楽器として、また祭器として用いられた謦・鼓・鍾の名を冠し、人の身を祭器として鳴らすことで霊理に、太古には管理神群にも呼びかけ感応を乞うた術である。
すなわち右の歯を鳴らす防護の《椎天謦》。中央の歯を鳴らす招神の《鳴天鼓》。
そして左の歯を嚙み鳴らす音にて邪悪を祓う辟邪の術を。
《折天鍾》、という。
「《三十》! ──いけっ!」
天の鍾が鳴り響く。
招いた天空の霊性が、銀の雨のように天籟のように降り注ぐ。不可視の圧力と化して眼下の邪悪を──七堕を捕らえて押し拉ぐ。
そして縫い留められた七堕を目掛け。碧落がそのまま落ちてきたかのような、星辰の光が織り成す霊威の巨大な鉄槌が瓦礫の戦場に撃ち落とされた。
《折天鍾》の霊威に撃たれるのは『邪悪』たる七堕だけだが、共に招かれ吹き下ろされた高空の風に、灰燼とコンクリートの粉塵は濛々と立ちこめる。
その灰色の煙幕の中、天茜は怒鳴った。
展開途中の霊術をキャンセルして精密動作の苦手な《駆動装甲》の制御に回し、七堕の攻撃レンジから引きさらって庇った祭花を抱えたまま。
来るなと言ったのに碧燈当人がのこのこ戻ってきたのは、どうせこのバカは自分の言うことなど一つだって聞きはしないのだからもう仕方ないが、──七堕に相対するだけでも命取りの、霊力が弱いから真っ先に狙われる一咲の祭花を!
「なぜ連れてきた、碧燈!」
「ついてくって本人が言ったからだよ!」「わたしが連れていってって言ったの!」
即座に碧燈が怒鳴り返し、腕の中の祭花も必死に言い募る。虚をつかれて祭花を見返した天茜を余所に、碧燈が顔をしかめて苦言を呈す。
「ただ祭花もやりすぎ! 一瞬気ィ引いてとは言ったけど、斬りつけろとは言ってねえ!」
碧燈が貸したのだろう真神の釼の外装も術師の誰かが着せてやったのだろう被衣も、あの一瞬の接触ですでにぼろぼろだ。それなのに祭花はむっと唇を尖らせて碧燈に言い返す。
「だって、牽制くらいはできるって!」
「牽! 制! だから! 率先して攻撃すんのは牽制って言わねえから! 祭花、実はけっこう凶暴だよな!?」
「きっ……凶暴!? なによ凶暴って! 他にもっと言い方あるでしょ勇敢とか果敢とか!」
「あんたは無謀とか蛮勇とかだ! ほら見ろやっぱ凶暴じゃねえか!」
「なんですってー!?」
一応仮にも七堕との戦闘の場で、ぎゃあぎゃあと二人は仲間割れを始める。
あげくそのままのノリで振り返った碧燈が、思いきり指など指してきやがった。
「だいたい、今のお前が偉そうなこと言えたザマかよ天茜! 〈凌霄〉も釼も全滅して片腕ぶっ飛ばされて脚だって壊されて! どう見ても一番バカやらかしてんのはお前じゃねえかこの馬鹿! バーカバーカバ───────────────────────────カ!!」
なんだかものすごくばかばかしくなってしまって、天茜は呻いた。
「ああ、そうだな……!」
いつでもどこでも騒がしくて落ちつきのないこの双子の弟が傍にいる間は、どうにも深刻に考えるのが馬鹿らしくなるのだ。
《折天鍾》の猛烈な打撃で粉々に擦り潰されていた〈沈ク花〉が骨格を再構成、性懲りもなく祭花を狙って迫ろうとするから《禁呪》で思いきり叩き伏せる。七堕に言うことでもないのだが場の空気を読め。今はお前にかまってる場合じゃないからすっこんでいろ。
そのまま碧燈が《禁呪》を重ねてがっちりと押さえつけ、腕の中から降りた祭花が片足で立つ天茜に寄り添って支えた。
逃げろ、といまさら言ったところで聞き入れもしないのだろう、光の強い瞳で。
光の強いその双眸に、まっすぐに見据えられるとどうにも敵わないような、逆らえないような気分になる眼差しで。
……無力を突きつけられて、それでもなお。こんな顔で進める強さは自分にはないから。
いかにも気が進まないように嘆息して、目を向けないまま言った。
「……来たのはもう仕方ないから、そのまま支えててくれるか」
ものすごく嬉しそうにうなずかれた。
「うんっ!」
その表情があんまり眩しくて直視できなくて、天茜は平静を装って目を逸らす。《駆動装甲》の分の霊力も七堕の滅却に回したいだけだ。喜ばれる筋合いじゃないのに。
「碧燈、そのまま時間を稼げ」
「おうよ」
応じる、碧燈はやたらニヤニヤしていて大変ムカつくので、足を治したらまず蹴飛ばそう。
やれやれと一息ついて、一度キャンセルした言霊をつい先ほどとは全く違う気分で紡いだ。
ばかばかしくて、うんざりしていて。少し情けないようでもあり、そしてどこか安堵している。自分でも理由のわからない、けれど決して不快ではないそんな気分で。
「《この声は 我がにはあらず》」
碧燈は七堕との戦闘は専門ではないが、これだけ弱っているのを押さえこむなら楽勝だ。