嫣然と笑う、黒龍御前は侍らせる部下に反して人の姿のままだ。傾国とはかくあらん、という凄艶の美貌に、高く結いあげてなお膝下まで達する艶めく髪、紅を差して笑み裂ける唇。玄妙な曲線をくっきりと浮きたたせる闇色の単衣の上から、宵闇めいた濃藍の表衣を妖艶に纏いつかせるように羽織る。
「そう、動くでないぞ、術師ども。……いまさら推参しおった雑兵ばらも」
七堕殲滅の報を聞いてだろう、なだれこんだ衛士たちが鋭い一瞥を向けられて歯嚙みする。
それでも隙を窺う斑牙から目を戻して、黒龍御前は傲然と八重の術師を睥睨した。
「人がお役目を果たそうとしたに、余計な手出しをしてくれたの、ヤエブキ機関。……報いはいずれ、受けてもらうぞ」
そして黒龍御前は、配下の黒衣の竜人たちは。出現した時と同様に忽然と消えた。
なにしろ同じ歌流街での騒動だ。客と遊女らの避難誘導に働いたこともあり、〈製薬〉摘発と七堕出現のあらましは『親』である〈寒卑の澗底〉も把握している。豪奢を極めた揚屋ビルの、贅沢なバックルームに戻ったところで太夫あがりの刀首は艶やかに嘆息する。
「〈製薬〉も亜人工場も、その奥の戦闘用違法生体の研究施設も潰されんした。親のわっちらにはなァんの断りもござりんせんに」
断りもなく。つまり情報提供の命令もなく、犯罪結社の情報網も人員も何一つ使わずに、朝廷は〈製薬〉の叛逆計画に行きつき、そして殲滅した。
亜人工場を隠れ蓑に、〈澗底〉が〈製薬〉に行わせていた生体兵器研究さえ、その裏で。
老ブッキリは姉分のその言葉に苦くうなずく。
先日、直剣に言ったとおり、犯罪結社の稼業は皇家の目溢しで成り立っている。今や朝廷の完全管理下であるこの社会で、見せかけの管理外を商う使い走りが犯罪結社だ。
いかに皇家を敬愛しているといっても、そんな無様に甘んじたくはない。けれど暴力装置を独占する九重の皇家の、支配を脱するには相応の戦力が必要だ。それゆえの戦闘用違法生体の研究、朝廷も見逃してはくれない本当の大罪だったのだが。
「……お見通しだぞ、ってことだよな。姉御」
気づいているし、過ぎたおいたは許さない。そう〈澗底〉に、似たような企みを抱える他の犯罪結社にも、釘を刺したのがこの捕り物の一面だ。九重の皇家は──ココノエ機関の化物たちは、一つの行動で一つの目的だけを叶えるほど暇ではない。
「あい。ほんに九重さまは〈大粛清〉から千年、あんまりにもおっかのぅあらしゃる」
〈大粛清〉。千万丈塔の元となった大建築が各国総出で行われたという少し前にこの国で、世界中で吹き荒れた各国王家による粛清の嵐。
反対勢力や下法士と同様に、当時跋扈していたマガイモノと、ホンモノでも扱いづらい組織はのきなみ壊滅させられた。伝え聞くところではイルチャリガなる赤道直下の小国さえもが、件の大建築の建築用地として各国連合軍に殲滅されたそうだ。以来、この国の全ては朝廷の、九重の皇家の支配下に引き据えられ──その鎖は千年、一度たりとも切れずにいる。
〈大粛清〉より実に千年。千年もの長きに亘り、九重の皇家は千年前の苛烈を失っていない。粛清により得た強権を、〈大粛清〉に至った目的を、腐敗も変質もさせていないのだ。
千年、揺るがぬ意志と使命。それは最早人外の思考、上位存在の在り方だ。
神意を以て稼働する、ココノエ機関という狂神装置に──直剣は擦り潰された。
〈ヘキホウトウ製薬〉。犯罪結社のように罪を犯したわけでも下法士のように逆らったわけでもなく、ただ技術接収のために〈大粛清〉にて取り潰された当時の最先端企業の一つ。
嘆息して老ブッキリは独りごちる。それでも直剣は、この決起の最低限の目的だけは遂げていけただけマシだったろう。
朝廷が本当に禁じる竜化精の、より危険と発覚した羽化精の材料となっていたのだから。
「今後は亜人売買は、法律どおり厳重に取り締まられる。商売一つ潰しやがって……」
落とし前をつけてくれ。そのためにまずは帰ってきてくれよ。なあ。
スグ坊。
竜化の変化を解いた配下と別れ、黒龍御前を名乗る竜の姫は独り闇の廊を歩く。
虚ノ刻もほど近い深夜の、彼女の私邸だ。女主人の帰宅を待って鋼蔀は下ろさず、けれど灯は落とした寝殿と東西の対。
広大な南庭は、敷きつめた白砂が淡い月明かりに霜のように照り映える。悠々と広がる苑池はこの時刻には闇を湛えたようで、甘く香る前栽の梔子、夜空を切りとる古木の巨影。
東西の対の南端から釣殿まで延びる中門廊が南庭を完全に囲い、敷地外に繫がる正門はその中門廊の外にあるから、夜の闇の邸第の南庭はまるで切りとられた小宇宙だ。
渡り廊下の下を流れる遣水のせせらぎを足下に聞きつつ、ふと独りごちた。
「《軽んずること勿れ直折の剣 猶ほ曲全の鉤に勝れり》──であったかの」
剛直の剣は折れてもなお、曲がって己を保つ釣針に勝る。古い詩の一節だ。おそらくは直剣の字名の由来。
暴虐の鯨鯢を斬らんとし、専横の蛟虯を刺さんとして折れた直身の剣は、それでも本望だったのだろう。たとえ鯨鯢や蛟虯はそれで、毛ほどの傷も負わなかったとしても。
「……哀れなことよの」
水晶の燈籠に飼われた燭火種の星金魚の、橙色をした灯がぼうと照らす階隠しの下で、階段に腰を掛けていた人影が立ちあがるのに口の端を吊りあげた。
「おお、そなたかえ。今更だが無事でなによりであったの」
笑みかけた先、相手は黒龍御前の軽口に応えない。
「……遅い」
短い言葉に含まれるのは明確な非難の響きだ。暗い簀子縁の闇に炯と光る、こちらを睨み据えて逸らされぬ瞳。
けれど黒龍御前は意にも介さず短く嗤う。
「なにしろ邪魔が入ったからのう。嗅ぎまわる仔鼠ばらに、我らの手の内を見せるわけにもいかぬであろ」
人影は答えず、傲然と顎をあげて黒龍御前は続ける。艶麗に嗤う唇、相反して冷ややかな双眸は、無情のけものの無機質なそれ。
「本番は〈野辺ノ墨染〉出現の夜じゃ。あと二日、せいぜい英気を養うがよいぞ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「碧燈は」「まだですぅうう……」
いつものやりとりを、今日は碧燈の近侍の気弱な松鷺と交わして、いつものとおり天茜は碧燈の部屋の明障子を引き開ける。換装したばかりの右手でスパーンと。
面倒だからせめてこの音で起きてくれないかなと実は毎日思っているのだが、残念ながら今日もやっぱり碧燈は起きない。
ので、これはいつもと違い、今日初めて用意したものを取りだした。
なにも毎朝自分が起こさなくても、世の中には目覚まし時計というものもあるのだし似た機能のそれで代替すればいいだけじゃないか、と気づいたのだ。元々朝を告げる役目のために、人に飼われていた生き物なのだし。
碧燈がぐーすか寝こける帳台に放りこんで、明障子を閉めてきっちり聴覚も遮断して、念のために両手で耳を塞いで。直後。