(昼って言えば、あいつ大丈夫かなあ。一応置き手紙も残したし、弁当の残りも出しといてやったが……は。そういや日本語読めないかもしれん)
朝見たときは、用意してやった部屋で幸せそうに丸まって寝ていた。起こそうとしても起きなかったので放置してしまったのだが……ひょっとしたらまだ寝ているのだろうか。というか貸してやった布団を放り出してこの自分の布団を被っていたのはなぜだ。いつのまに部屋から持っていかれたのだろう。謎すぎる。
「おい春亮、なんで弁当開けて固まってんだ。そのおじいちゃん現象はいくらなんでも枯れすぎだぞ……やっぱお前は料理とか家事とかばっかしてないで何かスポーツするべきだな! 野球いいぞ野球!」
同じ机を囲んでいた仲間のうちの一人、短髪の伯途泰造が言うと、
「枯れてるのはいつも通りだけど、なんかちょっといつもとは違う憂い顔だねー。さては──妊娠でもしちゃったか? うはは」
「渦奈! 下品な冗談は止めろ!」
健康的な日焼け肌の実耶麻渦奈が追随し、それを真面目な顔で上野錐霞が諌める。
まったく、と呆れの息を吐いてから、錐霞がふと春亮に視線を向けた。
「渦奈の妄言はさておき……確かに、今日は集中力がないように見える。何か懸念事でも?」
「え? いや、ははは。特に何もないんだが。ちょっと寝冷えとかしたせいかな」
「聞きましたか泰造さん。今、錐霞ちゃんはこう言ったのですよ……『私は夜知君のことをいつも見てるの! だからわかるの! ああーん、慰めてあげたいっ』と」
「なんて奴だ。春亮、お前はいつのまに委員長の心を盗んだんだ。姫様を助けたのか、偽札工場を燃やしたのか、時計で挟み殺したのか!?」
「二人とも! わけのわからないことを、い、言わない! まったく馬鹿げている!」
泰造と渦奈は中学時代からの腐れ縁だったが、錐霞だけは高校からの友達だ。
成績優秀で冷静沈着な委員長オブ委員長。二世代ほど時代遅れな、太股以前に膝小僧すら隠れるほどの野暮ったいスカート丈が生真面目な性格をよく表している。加えて肌を見せること自体が好きではないらしく、体育は常にジャージ、夏でも長袖制服という姿だった。そんなところから、当初は男も女も何だか近寄り難い孤高の存在としてクラスで浮いていたのだが──人見知りしない渦奈が無理矢理に彼女を仲間に引き込んだのだ。
そして一緒に昼飯まで摂るようになった直接の理由は、
「くだらない馬鹿話はさておき、だ。二人とも、いつもの判定を頼むぞ。この『卵焼き』勝負は自信がある。今日こそは一矢を報いるのだ……!」
ずい、と錐霞が自分の弁当箱を向かいの泰造と渦奈に向けて滑らせる。
「錐霞ちゃん、今日は勝算ありげなのかにゃ?」
「何度も試食を繰り返した。加えてさっきの発言は朗報──夜知は寝冷えで、つまりは風邪気味なのかもしれない。すると味覚も正常ではないだろう。その僅かなズレが勝機と見た」
妙な気迫の篭った目がぎらりと春亮を射抜いた。
「うっ。毎日毎日、なぜそんな気合を……」
「ま、体調管理も勝負のうち。俺らは厳正なる審査員だから味しか見ないぜー。じゃ、いただきまーす」
「いただきー。おっ。錐霞ちゃんのこれは……中のベーコンがカリっとしてて、いいね!」
「そうか! いいか! フフフフ……!」
真剣な目で二人の咀嚼を眺めていた錐霞がにやりと笑う。だがすぐに油断は禁物という様子で顔を引き締めた。その視線の先で、今度は二人が春亮の弁当箱に手を伸ばし──
「あっきーのもうまーい! うまいぞーっ! ……でも何の味じゃこりゃ?」
「春亮、これ何だ? 中に入ってるの」
「アボカドだ。ふふ、昔の料理マンガを参考にしてやった」
顔を見合わせる泰造と渦奈。そして二人はウム! とばかりに頷いてから、それぞれ片手で勝者の弁当箱を高々と持ち上げる。何か変な彫像のような線対称のポーズを取りつつ、
「えー、味は同点ですが斬新さにて春亮氏の勝利ー」
瞬間、錐霞ががっくりと項垂れた。机に置いた両の拳をぷるぷる震わせながら、
「くっ……! 斬新さ……そうだ、味にかまけて私は先進性を考えることをしなかった……! 保守的な思考はいずれ廃れるのみということだったか……!」
「……いんちょーさん、毎度のことだがそんなにマジにならなくても」
春亮のフォローに、錐霞がばっと顔を上げて言った。
「お、男に料理で負けっぱなしというわけにはいかない! 次は勝つ!」
その台詞はもう何十回聞いたかわからないのだが、それを言ってもさらにこの委員長の機嫌を悪くするだけだった。お手柔らかに、と春亮は苦笑いを返すしかない。
それから普通に昼食を食べていると、不意に教室の入り口あたりから「夜知くーん。お客〜」という声がした。見ればこちらに手を振る女子生徒がいる。
「このはさんっ……相変わらず、なんていうか、なんていうかアレだな!? くそう春亮、『今日もべラドンナのようにお綺麗ですね』とこの泰造が言っていたとさりげなく伝え──」
「そこでなぜ伯途は毒草のイメージが強い花を選ぶのか。実に馬鹿げたチョイスだ」
背後の会話を無視して廊下に出る。このはと顔を合わせるのは今日これが初めてだ。
「どした?」
「特にどうもしないんですけど、何かちょっと気になったので……あの子、どうしました?」
「起こしても起きんから書き置きして放ってきたけど」
「え」
固まる。
「ひ、一人にしといて大丈夫なんですかね?」
「とりたてて悪い奴には見えなかったから、大丈夫のような気がしたんだが……むう、言われてみると怖くなってきたぞ。あんまり深く話もしなかったしな」
「春亮くんは、あの子の本性……見たんですか?」
「最初に少しだけ。変な箱だった。何なのかは知らんけど」
軽く何かを考えていたこのはだったが、わかんないですね、とすぐに首を横に振る。
「まぁ、春亮くんが大丈夫だって言うんなら大丈夫ですよ、多分。気にしないでください」
ぺこりと頭を下げ、このはは隣のクラスに帰っていった。
(気にしないで、と言われても……!)
気になり始めると止まらない。確信を持って書いたはずのテストの答えが、見直して不安になった途端に間違えているようにしか見えなくなるのと同じだ。授業が始まっても不安感が消えることはなく、春亮は動きの遅い時計の針をそわそわと眺め続けるしかなかった。
放課後、下駄箱でこのはと一緒になった。
「委員会がある日じゃあ?」
「休んじゃいました。なんとなく」
意思疎通はそれで完了。対外的には従兄妹ということになっているこのはと共に、なぜか早足で家路を辿る。慌ただしく門の鍵を開けて中に入り、とりあえず居間へ向かうと──
「なっ!?」
そこは惨憺たる有様になっていた。斜めにひっくり返って立つテーブル、その脚が突き刺さり破れた襖、畳にダイブしている戸棚、床に転がるのは押入れに仕舞っていたはずの不用品……憩いの場がたった半日でこのアナーキーっぷり、只事ではない。
心臓を跳ねさせながら、春亮は白銀の髪をした少女の姿を探す。すぐに見つかった。
縁側でうつ伏せになって倒れている。ぴくりとも動かない。急いで駆け寄り、声をかけながら激しく揺り動かすと、ややあってその瞼が開かれた。虚ろに目をしばたたかせている。
水を持ってきます、と慌てて居間を飛び出すこのはだったが、帰ってきたときにはさらに慌てており、
「大変ですよ、洗面所のあたりも何かすごいことに!」