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「こぼしてるこぼしてる。ちゃんと皿を見て食え」
ああ、と今朝何度目かの生返事をして、フィアは目玉焼きの黄身にフォークを突き刺す。だがその視線は部屋の隅にある四角形に固定されたままだった。
「んー。さすがに『この小さな奴らは箱の中で何をやっているのだ!?』とかいうベタな台詞は聞けなかったか」
「ば、馬鹿にするな。知っておる。これは遠い場所の光景が見えているだけ。電気の力で過去をキロクすることもできる……とな。初めて見たが、その──想像通りだ。さしたる驚きはないな、は、は、は」
変な真顔のまま噓笑い。食べ終えているのにフォークが皿の上を彷徨っている。ニュースキャスターがカメラ目線で「おはようございます。今日も一日、元気に頑張りましょう!」と言うと、「うむ。誰か知らんがお前もせいぜい頑張れ」と律儀に返答した。
「おいフィア、ちょっとこれを持ってみろ。テレビの使い方を教えてやる」
「何だこれは」
「とりあえず一番目立つ赤いボタンを押してみろ。テレビに向けてな」
リモコンを受け取り、フィアはいささか緊張した面持ちでボタンを押す。と、
「き──消えたぞ!?」
ばっ、と驚愕の表情で首を回し、春亮に報告。もう一度押してみろ、と言うと、
「つ──点いたぞ!?」
全く同じ動作で再報告。
「それが電源ボタン。見ないときには必ず消しておくこと。他に色々ボタンがあるけど、基本的には触るな。触っていいのは下にある数字のボタンだけだ。それは色々押していい」
「いいのか。押すぞ……押すぞ?」
チャンネルが切り替わり、別のニュースのスポーツコーナーへ変わる。いきなりF1のレース風景になったため、春亮の期待に違わず「よけろ!」とフィアは身体を斜めにした。
「というわけで、それを押せば番組が色々変わる。ちなみにいかなる番組でも中身が飛び出してくることはないので安心しろ」
「わ、わかってはいた。が、万一ということがある。危機管理は重要だ」
などと微かに頰を赤くした顔で言いつつ、フィアはさらにポチポチとチャンネルを押した。その動きが止まったのは、波の高い海でリポーターが低気圧の接近をリポートしている番組。指を止め、呆けたように、フィアはその光景を見つめる──
「これが……海、か?」
春亮が肯定すると、彼女は視線を画面の海に釘付けにしたまま呟いた。
「……見たことがなかった。そうか、こんなにも広いものなのか」
瞳には複雑な色が湛えられている。子供のような憧憬と──そして、僅かな失望と。
「思っていたよりも、ずっと冷たそうで……暗そうだ、な」
「そりゃ雨雲来てるからだよ。夏は全然違う」
「そういうものか」
「近くにもあるぞ。街の反対側だけどな。行きたきゃいつか行ってみればいい」
フィアは曖昧に首を揺らした。それが肯定の動作だったのか、それとも否定の動作だったのかは、春亮には判断できなかった。
チャイムが鳴り、春亮は鞄を持って玄関に向かう。笑顔で待っていたのは制服姿のこのはだ。彼女に委員会や部活の用事がないときは、こうして一緒に登校することが多い。
「おはようございますー」
「ん、じゃあ行くか」
「ぬぬう。どういうことだっ?」
「どういうことって、学校だよ。言ったろ、平日は学校があるって」
「そいつと一緒にか」
「まぁ、同級生ってことになってるしな」
靴を履き終え、春亮はなぜか不満そうな顔をしているフィアに指を突きつける。
「今日はお前に指令を与える。俺が帰ってくるまでの仕事だ」
「……言ってみろ」
「まず、さっき教えた通りにテレビを点けろ。そして好きな番組を見ろ。腹が減れば台所に飯が用意してある。眠かったら寝ろ。以上、健闘を祈る」
「それだけかっ?」
「それだけ。おいおい家事とか教えてくから、今日は大人しくしてろ」
むぅううー、とフィアは頰を膨らませている。はて何が納得いかないのだろう、と春亮が首を傾げたとき、玄関からこのはが聖母のような笑みを覗かせて言った。
「まさか、寂しくて一人じゃお留守番できないなんて言いませんよねー?」
「な、なにおう!? 誰が寂しい、などと言ったか! 余計な奴らがいなくなってせいせいするわ! ああ楽しみだ、テレビの世界が私を待っている!」
「なら大丈夫ですねー。重畳重畳。じゃあ春亮くん、行きましょう。二人で楽しい学校に」
「楽しい、だと……ふん! どうせそのチチをチチらしく使って二人で楽しくチチクリ合うのだろう……! まったく、ハレンチな! ええい、ほら行け今行けさっさと行け! 私は早く一人になりたくてうずうずしておるのだ!」
「んー、なんか不安だが……遅刻しそうだし仕方ない。このは、行こうぜ」
このはは軽い足取りで、春亮は頭を搔きつつ門を出る。フィアは鼻息荒くその背中を見送っていたが、彼らの気配が完全になくなると深い息を吐いた。ぺたん、と玄関に腰を下ろす。
静かだった。下駄箱の上に置いてある木彫りの熊、天井の粗い木目、壁に掛けられた鏡、その横のカレンダー。全てが止まっている。動きのない調度品の数々が、無言の冷たさが、彼女を受け入れていた──無機の仲間意識を持って。
膝を抱え、目を細める。それからフィアは顔を微かに傾け、白銀の髪が滑るのを横目で見ながら囁いた。
「あほ……本当に置いていかんでもよかろ……?」
◆
奇妙な客を乗せることには慣れていた。空港前という人間交差点を仕事場にしているのだから当然だ。FUCKの四文字を延々繰り返す黒人達、同じゲーム機ばかりを抱えた中国人、生気のない顔でこう言う日本人家族……「誰も来ない森か沼へ」。思い返せばきりがない。
しかし──この客は、その中でもとびきりに、変だ。
タクシーの運転手は視線だけを動かし、数分前に空港から乗ってきた客の姿をバックミラーで確認した。金髪に瀟洒なドレスを纏った白色人種の美女一人。そこまではいい。それ以外が全て変だ。変すぎる。そもそも、あんな姿で飛行機に乗れるものなのだろうか──?
「見られているような気がいたしますわね」
鏡の世界の中、ノー・スモーキングの文字を(おそらく意図的に)無視して細い煙草を咥えていた女が、煙と流暢な日本語を同時に吐き出した──軽い金属音と共に肩を竦めながら。
「あ……その、すみません」
「おや。貴方もでしたか」
自分でなければ誰なのだ。車中には二人しかいないというのに。運転手はますます不気味に思って背筋を震わせる。だが客は客、彼女が言いつけた街のホテルまでは結構な距離がある──少しでもこの空間を居心地のよいものにしようと、運転手は口を開いた。
「に、日本語がお上手ですね。私は外国の方々も多く乗せますが、その中でも一番──」
「一番、変な客だと?」
喉元から肛門まで、一気に氷柱が滑り抜けるような気分を味わった。なんとか平静を装い、
「日本語が上手い以外のことで言えば、一番──その、お綺麗です」
「まあ。この国のタクシードライバーはお世辞の訓練も受けているのでしょうかね? さすがは礼節の国日本、最高ですわ。くすくす」
上手く答えられたようだ。笑い声が少女のように軽やかなことに、少しだけほっとする。
「いえ、お世辞なんかじゃありませんよ、本当に」
「ふふふ、まぁ噓だとしてもわたくしは気にしませんがね。『噓こそ、あらゆる幸福、あらゆる恩恵、あらゆる名声、あらゆる富の鍵だと思わなければいけない』──とわたくしの好きな作家様も仰ってますし。反社会的な言葉ですがね」
「はぁ……聞いたことありませんが、やっぱり、外国の作家さんで?」