その、他の誰かが言ったのならばそういうこともあるかと思い、砧川冥子が言ったのならば何故そんなことを言うのかと思う言葉から。とてもありがちで、それでも実際に聞くことは希少な言葉から。気が抜けるようでいて、同時に緊張を齎すような言葉から。
そんな、まったく普通であり、まったく普通ではない言葉から──
ぼくたちの現実が、始まる。
「キスを……して、ほしいん、です」
砧川の顔は真っ赤だった。おいおい大胆だな、とぼくは思う。
「……一緒じゃないか」
「ち、違い……ます」
「変なことを言う奴だな。好きな相手とそういうことしたいってのは、一般論としてわかる。でも付き合わなくていいってのは、どういうわけだ? 最初から諦めてるのか?」
「……そうですね、そうかもしれません……付き合うわけにはいかなくて、でも諦められなくて。わたし、まだそういうの……したことなくて。あの、変なのは、勿論わかってます。でも、最後の思い出になるなら、せめて勇気を出して言ってみるだけは、って」
「最後の思い出って」
砧川の顔は、あくまでも真摯。口下手ではあるが、彼女は必死に本音を伝えようとしているのだろう──そう思った。だから、ぼくとしては、それを真剣に受け取るわけにはいかない。
「どっかに行くのか? は、なんかこれから死ぬみたいな言い草じゃないか」
ぼくは肩を竦め、冗談めかして言った。だが。
うお。それは──それこそ、普通じゃない。予想外で、想定外で、異常な──反応、だった。
砧川冥子は、微笑んだのだ。
「そんな感じ、です……ありがとう」
理解できない感謝を発し、その瞳から、どこまでも透明な雫を、一つ、二つ。
暗く暗い体育館裏の地面に、染み込ませながら。
そのとき、ぼくは背後に発生する足音を聞く。複数の足音。
砧川の目がはっと見開かれるのを見て取り、ぼくは振り向いた。
三人。砧川をいつも苛めている、あの三人だ。名前など興味もない。髪を染め眉を剃り濃い化粧をした、ぼくの苦手な普通の奴ら。無意味なカテゴライズの奔流に飲み込まれたまま、それに気付かずに一人で悦に入っているオナニスト達だ。
髪の長いの、短いの、中ぐらいのとぼくはその三人を認識する。
わかったぞ。砧川のこれは苛めの一環だったのだ。何でも言うことを聞く奴隷的少女を玩具の一種と考えて、自分達のくだらない日常を(本当にくだらない、くそっ)打破するために誰かを思うさま笑ってストレス解消してやろうという腹立たしい遊びに違いない。で、それが一段落したから、ネタばらしのカタルシスを求めて姿を現したのだきっとそうだ。
しかし、なんで。あいつらは──生気のない、熱病に冒されたような虚ろな目で佇んでいるのだろう? にこりともせず、無表情なのだろう? 瞬きを一回たりともしていないのだろう? ゾンビのようにだらんと立っているのだろう?
虚無と虚無と虚無を見つめる彼女達は無言でこちらに動き出した。
なんだお前達、とぼくは言ったと思う。
彼女達は答えなかったと思う。
その代わりに、髪の長い奴がスカートのポケットに手を入れて、
「っ……宵本くん、逃げてっ!」
ぼくは突き飛ばされた。砧川冥子に突き飛ばされた。僅かに嗅いだ彼女の髪の匂いは、決して不快なものではなかった。どうしてそんなことを感じたのかというと、きっと本能が判断したのだろうと思う。周囲の全てが理解できなかったから、少しでも理解できる感覚で脳髄を満たしておこうと。子供じみた、自動的な欺瞞だ。
ぼくは地面に転んで、見た。
砧川冥子の腹に、深く深く、根元まで──
髪長が無表情に突き出した、果物ナイフが刺さっているのを。
砧川は制服の腹を真っ赤に染めて、
吐血して、
人形みたいに倒れた。
ぼくはそこで、誰かが舌打ちするような音を聞いたのだが──
とりあえず、そんなのはどうでもよかった。
3
「ん、の──くそ野郎どもがっ!」
下品な罵りが意識せず喉から漏れ、同時、身体が勝手に動いている。
起き上がるなり、巻き込むようなフック。髪長の鼻がべきりと嫌な音を立て、ぼくの拳に鼻水と鼻血が絡みついた。男女同権とはこういうことだろ? エセ平等主義者達め。ロングが地面に倒れ、ミドルとショートが左右から同時に飛びかかってくる。ミドルは鳩尾に前蹴りを入れて蹴り飛ばしたが、そのときにはショートがぼくの首を両手で絞めてきた。凄まじい握力だ。
「ふざ、けん、なよ……っ」
渾身の力でその手を引き剝がしながら、膝をショートの腹へ埋め込む。ああ、女の腹を蹴るな? それは女の腹にナイフをぶっ刺した奴にこそ言ってほしいもんだね。
手が僅かに緩み、ぼくは続けてショートの顔面に頭突きを入れた。ひどく香水臭く、鼻が曲がりそうだった。さらに乳房の隙間、心臓の真上に力任せの掌底を叩き込んで距離を離す。
無言且つ無表情でぼくらを襲ってきた奴らはとりあえずおいといて、ぼくは地面に倒れたままの砧川に駆け寄った。肩を摑んで、恐る恐る仰向けにさせてみる──
「……洒落にならんぞ」
うつ伏せに倒れたせいでさらに押し込まれてしまったのか、ナイフは柄の部分まで腹にめり込んでいる。砧川は目を閉じたまま、ひゅうひゅうと小さな呼気を喉から漏らしているだけだ。それは僅かな救いであり、同時に最悪の予兆でもある。
また、背中から音。見ると、手加減なしに吹き飛ばした三人がやはり無表情に起き上がるところだった。おいおい──今までのは間違いなく全員病院送りコースの手応えだったぞ。
背筋がぞくりとした。これは、おかしい。明らかにおかしい。
わからないことだらけだ。ああ頼む、神でも悪魔でもいい、誰かこの状況を説明してくれ。
「おのれ、油断しおって」
祈りは届いたようだ。しかしぼくはそこまでロマンティックが止まらない人間ではない。答えはわかっているぞ……これは幻聴だ。ぼくは落ち着いている。それよりも、一刻も早く救急車の血を止めて電話を砧川に連れて行って保健室を呼ばなくては──
「人の身を案ずる立場でもあるまいに。いつになったら戦獅子の如き気概を持ってくれるのか」
幻聴は口を閉じない。しかも幻聴というのは頭の中で聞こえたり、どこから聞こえるかわからないもののはずだろう? 残念ながらぼくはその声の発生源を特定してしまっていた。
それは傍の地面に転がっている、砧川が持っていた鞄だ。
ぼくはその鞄と、のろのろと近づいてくる三人を交互に見る。しゃがれた女の声はそれを認識しているのか、再び──そう、さっき聞こえたように──舌打ちをした。
「兎にも角にも、背に腹は変えられん……おい小僧!」
ははは。幻聴に呼びかけられたぞ。
「何をへらへらしておるか! 鞄を開けろ!」
開けたさ。ぼくはぼく自身の心理状態がよくわからない。多分、溺れる者は何とやらという格言は正しかったというだけだろう。つまるところ、単なる逃避行動だった可能性が高い。
生真面目に詰められた教科書類の上に、くしゃくしゃになった大きな布のようなものがあった。いや、ただの布ではない。黒い帽子だ。無地ではない……ぼくは初め、それを悪趣味なアップリケかと思った。たとえ一瞬前にはそれが帽子の表面には存在していなくても、だ。