鞄を開けた途端に染み出すようにして帽子の表面に現れたのは、リアルな人の顔だった。いや、その部位と言ったほうが正しい。つまりバラバラなのだ。目と鼻と口と耳、パーツは揃っているが場所は完全に間違っている。完全なる混沌を体現した、奇怪な福笑い。さらに気づけば……いつのまにか帽子のツバの部分から二本の突起が生えている。それは非対称で歪に捻れた、角だ。不安定で危うい魔性を漂わせる人外器官。
前触れもなく生誕した二つの異常、角と顔を持つ帽子がそこにあり──
そして、バラバラについていた二つの目がぎょろりと開いて、ぼくを見据えた。
「言うことを聞け、小僧。いいか──儂をメイコの頭に乗せるのだ。早くしろ」
目の斜め上にある口が動いて、そう急かした。ちょっと待て……理解する時間をくれ!
「──早くせんか! この腰抜け、青二才の童貞小僧めが!」
「ああくそ、なんなんだ、なんなんだ!? 待て、待てよ! ぼくは、ぼくがすべきことは……そう……砧川、だ。こいつを助ける、ために、は」
「だからそのためじゃ! メイコは死なぬ! だがこのままでは消されるかもしれぬ!」
怒気と苛立ちを纏う帽子から唾が飛んできた。何のファンタジーだ、畜生。
「見よ、腹を刺された人間の血はあの程度か? 死なぬ。奴は死なぬ。だが敵がおる。だから目覚めさせなくてはならぬ! このときばかりは儂が手を貸して引き戻さねばならんのだ! さあ、早くしろ戯け! 首尾よく行けば後で貴様の一物をしゃぶるくらいしてやるわ!」
「わけのわからんことばかり言うな!」
しかし、よく観察すると、帽子の言う通りだ。砧川の出血が……止まっている? 馬鹿な。
問答も驚愕もしている暇はない──三人組はもうそこだ! ぼくは思考停止しつつ、鞄の中の帽子を引っ摑んだ。それは奇妙に縦長で尖っている。つまり──魔女が被る、帽子のように。
要求通り、砧川の頭に被せる。何をやってるんだぼくは、という思いが一瞬だけ頭を掠めた。
だが理性の警告は杞憂だった。帽子を乗せた瞬間、砧川はぱちりと目を開いたのだ。
「メイコ!」
「──わかってます!」
跳ね起きた彼女の姿が変わる。
ぼくは笑い出しそうになった。実際、これをテレビ画面で見ていれば腹を抱えていたかもしれない。なんと言うか、古い。時代錯誤で使い古された激変の代名詞。もう一度言う。砧川の姿が変わったのだ。この際だからあの言葉を使ってしまうぞ──『変身』したのだ。
顔の浮いた帽子はそのまま。コマが途中で飛ばされたように、気づけば衣服だけが変わっていた。柔らかそうな布地の黒衣に、足下はとんがりブーツ。袖口は漏斗のように広がっており、全体的に円錐形のイメージがある。さらにはベルト代わりなのか、腰と肩を繫ぐようにして太い鎖が巻かれていた。微妙に錆びており、退廃的というかひたすら邪悪な印象だ。
「お、おい……」
声をかけたが無視された。三人組は砧川の変化に注意を向けているようで、とりあえず足を止めている。今まで泣いていた目で油断なく周囲を睥睨しながら、砧川は帽子に問い掛けた。
「アヴェイラーズ、どういうことですか……?」
「さてな。だが代替魔術師ではない。闇滓の量が少なすぎる」
「操られてる、のですね」
「おーい」
砧川はぼくの存在を忘れ、自分の腹からナイフを引き抜いていた。軽く血が地面に垂れるが、それだけだ。
「だが倒すしかないぞ。お前は覚悟を決めているはずであるな?」
「はい……わかっています。やらなきゃ、やられる」
「そこの古くて格好いい台詞を言っている奴。事態の説明を求めている一般人がここにいるぞ」
「あの、何だか幻聴が聞こえるんですけど……宵本くんの。あは、変になっちゃったの、かな」
「……お前……何を勘違いしているのか知らぬが、とりあえず後ろを見てみろ」
「後ろ?」
目が合う。やあ、とぼくは片手を上げて挨拶した。
「……ひょえええっ!? な、何で宵本くんがいるんですかぁっ?」
「ずっとここにいるわい! て言うかそもそもお前が呼び出したんだろうが!」
合図は砧川の絶叫か、それともぼくの反駁か──三人組が一斉に飛びかかってきた。ついでに言えば砧川も飛びかかってきた。正確には、ぼくの手を引いて走り出したわけだが。
「何をしておる、戦え!」
「む、無茶言わないでください! 宵本くんがいるのに戦えるわけないでしょう!?」
体育館に沿って南下するコースだ。この先は普段から人気がない特別校舎棟の裏に続いている。しかも今は放課後、この妙な逃亡劇が人目につくことはないだろう。
三人組の足音を背中に聞きながら、砧川は泣きそうに顔を歪ませて言ってきた。
「ど、どうして? なんで逃げてないんです? わたし、てっきり」
「あのな、目の前で腹を刺された奴を放っとけるか! ぼくこそ、てっきり、だ!」
砧川の目が驚きの色に染まる。
「ま、まさか、助けてくれたんです……か? 関係ないのに」
「どうなってんだよ、まったく。おもくそ殴って蹴ったのにあいつらは立ち上がってくるし、お前はんな変な格好になるし、刺されたのもなかったことになってるみたいだし……」
「あ、アヴェイラーズ……」
「お前が不意打ちで意識を失ってしまえば、こやつの手を借りるしか方法はなかろうが。儂とて無関係な人間を巻き込みたいと思っていたわけではない。お前のせいじゃぞ、猛省しろ」
帽子の答えにしゅんとする砧川。
「宵本くん、ごめんなさい……その、説明は後でしますから、今は」
「そう、今は、だ。どうするんだよ。このまま学校を逃げ回るのか?」
「えと、鞄……は置いてきちゃったし、あ、さっきのナイフ……は、捨てちゃった!?」
「戯け!」
帽子の罵倒にあうあうと視線を彷徨わせていた砧川だったが、やおら横を見て足を止めた。現在地は人気のない特別校舎棟の裏で、ここからはがらんとした校舎一階の内部が見える。
「そうだ……中に入ります!」
砧川は一跳びで窓枠の上に乗り、拳で窓を叩き割った。むう、予想外にバイオレンスだ。
割れた箇所から鍵を外し、彼女は窓を開ける。ちらと来た方向を振り返ると、あの三人組の姿は三十メートルほど向こうにあった。
「小僧とはここで別れたほうがいい、と儂は提案するが」
「駄目、もし宵本くんのほうを追っかけていったら大変」
「その可能性は低いと思うがな」
帽子と軽く会話し、窓枠に乗ったまま砧川はぼくに向けておずおずと手を伸ばした。
「あの、一緒に……」
三人組から一人で逃げ切れる程度の自信はあるが──砧川のこと、変な帽子のこと、襲われたこと。知りたいことが多すぎる。このまま帰ったら夜も眠れないぞ。
ぼくは砧川の細い手を摑んだ。その瞬間、窓枠の上──ひいては特別校舎の中に引っ張り込まれる。半分がた宙を飛んだような感じだ。砧川はそれから廊下の突き当たりまで走り、そこにある教室のプレートを見上げた。『調理実習室』とある。
扉には鍵がかかっているようだった。砧川は一つ嘆息し、取っ手に両手をかけ、
「……ぇぃっ!」
べきょ、と音がしましたが……ああもう、考えないようにしようそうしよう。
通常教室二つぶんの広さを持った調理実習室には、流しとコンロがセットされた机が八つ、等間隔に並んでいた。あまり使われない教室独特の乾燥した薬品臭が空間に満ちている。
砧川は奥に進み、教室の後ろにある棚を開いて何かを探していた。ややあって取り出されたのは、まぁ即席の武器としてはありがちだな……包丁だ。実際に使えるかどうかは別問題だが。