砧川の手招きに従って、ぼくは最後尾の机の陰にしゃがみ込んで隠れた。校舎に入るところを見られていたのだから見つかるのも時間の問題かもしれないが、気分だ。
それから数分は経っただろうか。思ったより時間がかかって、がらりと扉の開く音。
中に入ってきた三人組の進路は──くそったれだ、こちらに向かっているぞ。ぼくはちらりと砧川の包丁を眺めてから立ち上がった。殺人犯を一人増やしてしまうわけにもいくまい。
「砧川。それ、使わなくていいからな。この際だ、ぼくがなんとかしよう」
「駄目です……」
背後から、震える声が聞こえた。衣擦れ。彼女も隠れるのを止めて立ち上がったのだろう。
「駄目、なん、です。あの人達は普通じゃなくて──だからきっと、宵本くんが強くても、きっと、駄目。普通のひとにはどうにもできない、ことだから……」
ぼくは近付いてくる三人組から目を離さないまま、肩を竦めた。
「お前にはどうにかできるって?」
それは緊張を紛らわせるための冗談のようなものだったのだが──砧川ははっきりと答えた。
「──はい」
そして、震える声をさらに震わせて。
「あ、あの、だから、今からわたし、変なことしますけど……どうか、お願いです。勝手なこといいますけど、どうか」
変なこと? いきなりストリップショーでも始めるのか? そいつは素敵な奇行だな。
ぼくの皮肉めいた思考を止めたのは、不意に聞こえ始めた、ぼとぼとと何かが床を打つ音。
生臭い。
「どうか、嫌わないでください」
血の臭い。
振り向く。三人組のことがその瞬間、頭から飛んだ。
「ああ……ぁぁぁああああああああああああああああああああああああ!」
彼女は大粒の涙を零しながら、顔を苦痛でくしゃくしゃに歪め、
手に持った包丁で、自分の人差し指を切り落としていた。
4
順手に持った包丁の先端が、ゴリゴリゴリゴリと前後に動いている。生物のように飛び散る血が、机を一瞬で派手な色に染めた。彼女は肉を裂き、筋を切り、関節に達すると刃先を捻って白骨同士の結合を断つ。悲鳴は止まらない。ぼくは胸中の吐き気を他人事のように感じながら、ただその光景から目を離せない。彼女が大きく頭を前に振ると、それに合わせて何かが机の上に落ちた。何か。わかっている。人差し指だ。ひどく現実感がない。マネキンの指にも見えるそれは、錯覚かもしれないが、机の血溜まりの中でぴくんと動いたような気がした。
砧川は荒い息を吐きながら、それを四本の指で拾い上げる。ありえない位置──左手の人差し指を、同じ左の手の平に乗せたのだ。人差し指自身も驚きだろう。
「伏せて……」
涙に濡れた砧川の瞳が、それでも意志を持って前を向く。ぼくはその言葉に従うしかない。
砧川は左手を掲げるように伸ばし、切り離された指に息を吹きかけつつ囁く。
「──《第七指は銀糸の庭へと捧ぐ》──」
瞬間、その指が弾けた。そう見えた。
肉が脂を散らすような小気味良い音と共に、彼女の手の平から閃光が生じる。光輝は瞬時に線と化し、仲間たる四指の誘惑を振り切って疾走した。それは奇妙に枝分かれしつつ、凄まじい速度で、机の間を擦り抜けて突進しようとしていた三人組に吶喊を敢行──そして完遂。
何かが焦げるような臭いが、つい五分前までは安寧の空気に満ちていた調理実習室に広がっていた。ような、というか、実際焦げている──机の上にある折れ曲がった水道の蛇口、食器を置くためのプラスチック台。きっと焦げているだろう、というものなら他にもある。
ぼくの視界から消えた、あの三人組だ。電光の直撃を受けた三人組は、今は机の下でぴくりともしていないだろう。それを容易く想像させるほど、先刻砧川が放った攻撃は圧倒的だった。
砧川は包丁を机の上に置き、俯きながら荒い息を吐いている。帽子は哂っている。
ぼくはその様子を後ろから眺めて、言っていた。呆然と。
「ああ……何だそれ。指をぶった切って、ああ、何だそれ。わからん。わからん。大丈夫なの、か──いや、大丈夫なわけがねぇだろ! くそ、包帯くらいこの教室にも」
「かかかかかかか! 小僧、小僧、ほんに愚かよな。その役立たずな節穴をようく見開け!」
帽子の言葉に従い、ぼくは砧川のさらなる異常を目にした。
彼女の、かつて人差し指があった場所……そこで肉が蠢いている。切り離されて光に変わってしまった指が、その付け根から再び生えてこようとしているのだ。ソーセージのように細長い肉が体積を増し、表面に薄い皺を作り、血管を這わせ、薄い桜色の爪までも形成する──
「なん……だ。なんなんだ……砧川、お前は」
彼女は何かを堪えるように瞼をきつく閉じているだけ。代わりに答えたのはやはり、帽子。
「何。何、と聞くか。一言で言えよう──《魔女》! それ以外に何があるか? ない!」
「魔女……? くそ。んな、ことは、見ればわかる! わからんけどな! だから、そんなのはどうでもいいんだよ! ぼくは、ただ」
「なるほど小僧、貴様が憂えているのはメイコの身体のことじゃな? 心配せずともメイコは代替魔術師。その肉体的性質は、もともと半人半魔の魔女のものと似通っている」
帽子は二つ離れた目を奇妙に歪め、唾を散らして哄笑した。
「単純明快! 明快単純! こやつは不死なのだよ! 不死で! 不滅で! 不朽で! 死なず! 滅ばず! 殺されぬ! 理由を知りたいか? ならば教えよう──」
「アヴェイラーズ!」
砧川の絶叫は、帽子の口をぴたりと閉じさせる効果を持っていた。
彼女が顔を上げて、ゆっくりとこちらに身体を向ける。もう、指は完全に生え揃っていた。
奇怪な。魔女。
けれども彼女の顔は、さっきまで見ていたものと同じだった。気弱なクラスメイトの顔。浮かんでいるのは愛想笑いにもなり切れない薄い微笑だ。困ったように歪んでいて、どことなく無理がある──つまりは他の感情を無理矢理に微笑に置き換えただけなのだろう。
ぼくは何を言えばいいのか。部外者であり、傍観者であるぼくは。
なんとなく彼女の顔の横、平穏を取り戻した教室を眺める。変異を内包した教室を眺める。
「……あいつらは」
「死んだかも、しれません」
ぼくの目を真っ直ぐに見据えながら、砧川は言った。平静だったのはその言葉だけ。
手は震えていた。唇は嚙み締められていた。瞳は濡れていた。それが言葉の内容のせいなのか、人差し指を切り落とした痛苦を引き摺っているせいなのかは、ぼくには判断できない。
口が開かれる。ぼくは理由なく、次の言葉が少なくとも言い訳ではないことを確信していた。
だがそれを確かめる機会は永遠に訪れない。砧川の声帯が空気を震わせる一瞬前に、彼女が先刻口にした言葉の裏面が正当に具現化する。死んだかも。
砧川の背後で、ショートの髪の女がコメツキムシのように跳ねていた。そいつは一瞬で天井スレスレまで飛び上がり、放物線を描いて落ちてくる。四肢は弛緩しており、宙に放り投げられたダミー人形のようだ。相変わらず無表情の口だけが開いている──くそ、嚙みつき攻撃か?
帽子の叫びとぼくの表情で、砧川が背後を振り向く。遅い。ぼくが足を踏み出すのも遅い。間に合うわけがない。女の口から唾液が垂れ、それでも砧川が無駄な何かをしようとして──