無骨な傘の柄を幸せそうに撫でていた彼女の目が、恍惚としたものから一瞬でムシケラを見るようなものへ。ここが屋外なら唾の一つでも吐かれていたかもしれない。
「い、いきなりそんな視線を向けられる理由が微塵もわからんのだが……! とりあえず藍坂、この紛らわしいお嬢様を紹介してくれると嬉しい。あるいは今すぐ帰らせてくれるとさらに嬉しい」
「宵闇ヶ原陰子。医術部の部員よ……二年は二組になったんだっけ?」
「ええ、お隣さんですわね。素敵さんとクラスが分かれてしまったのは本当に残念です……でも体育の授業は一緒なのでそれでよしといたしましょう」
陰子は楚々とした微笑を素敵に返し、
「へーそうなんだなるほどわかった理解したお隣さんね。じゃあ俺はこれで」
「お待ちなさい」
「ぐえっ!」
どさくさに紛れて帰ろうとした浩介にはあの冷徹な視線。おまけに傘の柄を浩介の首筋に引っ掛けてグイと引っ張る悪魔の所業つき。
「話が始まってもいないのに帰るとは何事でしょうか。貴方には聞きたいことがたくさんありますのよ……ウフフフフ!」
「わ、わかった、わかったから離し……息がッ……!」
とりあえず逃げるのは諦めた。転校初日に窒息死するつもりはなかったからだ。
素敵が勧めてきた丸椅子に座り、医術部の部室を見渡してみる。
全体的には普通の教室を流用した空間だ。なのでそれなりに広いのだが、教室の後部三分の一ほどは衝立とカーテンで仕切られた別スペースになっている。向こうのスペースには何があるのだろう。
浩介がいるこちら側の空間は、単純に言えばエセ診察室だった。部屋の隅には大きなスチール机と椅子があり、その近くに幾つかの丸椅子、壁際にはファイルやら本やらが詰まった本棚、そして診察台のような脚の長い簡易ベッド。まがりなりにも《診察室っぽい》という枠で括られるのはそこまでで、その他はかなり雑然としている。オセロやら人生ゲームやらが積まれたテーブル、なぜかセーラー服一式を着せられているマネキン、大きな白い動物……アルパカ? のぬいぐるみ、体重計、ホワイトボード、一昔前に流行ったみょんみょんするブレード型健康器具、何かが一杯に詰まった段ボール箱……まったくもって統一感がない。
「陰子さん、くーは?」
「さあ。招集をかけたわけでもありませんし、今日は顔を出さないかもしれませんわね」
「ふーん……終は相変わらず入院中だし、新年度初日だっていうのにちょっと寂しいわね。ま、いいか。ええと、昨日作ったやつどこに仕舞ったっけ……あ、あった」
がさごそスチール机を引っ掻き回していた素敵が、そこでようやく引き出しの中から小冊子のようなものを引っ張り出した。椅子を回して浩介に向き直ってくる。そして、
「さて。まずはもう一回確認ね」
などと呟きながら、素敵は首に引っ掛けていた聴診器を耳に当ててこちらに上半身を寄せてきた。
「お、おい」
「動かないでよ。集中しないとわからないんだから」
首筋にぺたりと冷たい感触。けれどそれはすぐに気にならなくなった。素敵の整った顔がすぐそこにある。小さな口元からの吐息が胸元に触れていて、鼻孔に感じるのはその髪から漂う微かなシャンプーの匂い。表情は妙に真剣だったが、やはりその肌は白く柔らかそうだ。触ったらどんな感じなのだろうか──いや待てまずいこんなことを考えるのはまずい。少し離れた椅子に座ってこちらを見ている傘女から殺気が届いてきているような気もするし。
「……やっぱりね」
浩介が硬直していると、そのうちに素敵は一つ頷いて聴診器を外した。乗り出していた身を戻し、自分の椅子に座り直す。微妙な名残惜しさと安堵感。
それから素敵は先刻見つけ出した小冊子をぺらりと捲り、
「じゃあ次にいくつか質問をするから答えて。心理テストみたいなものだから気楽に答えてくれていいわよ」
「おい……その冊子の表紙に《那霧浩介にする質問のしおり》と書いてあるように見えるのは俺の気のせいか」
「気のせいじゃないわよ。目が悪いの? 昨日あんたと会ってから作ったの。何もおかしなことはないじゃない」
「いや、わざわざしおりとか作らないだろ普通。何聞くつもりなのかは知らんが」
「うるさいわね、質問を明文化するのは思考の整理にも有益なのよ。いいから聞きなさい」
こほん、と素敵は咳払いを一つ。それから再びしおりに視線を落とし、
「では第一問。『自分はスカートの中に顔を押し込めることが三度の飯より好きだ』」
「なんだその設問!?」
「無回答はイエスとみなすわ」
「ノーに決まってるだろ!」
「第二問。『自分は女子の下着の匂いにたまらない興奮を覚える』」
「ノー! 待てお前、これのどこが心理テストだ!?」
そのときカリカリという異音が聞こえたので首を回せば、そこには陰子が向けてくるデンジャラスな視線。しかも彼女はあの買ったばかりだという傘の柄を苛立ったようにがじがじと噛んでいた。異音の原因判明。ついでに言えば「素敵さんの……スカートの下に……下着……ここで殺しておいたほうが世のため人のため……」などという物騒な呟きも聞こえる。
「続いて第三問。『女子の太股で顔を挟まれたときには、まるで母親の胎内にいるような安らぎを覚える』……」
わかった。単純に、これは昨日の自分に対する糾弾なのだ。
理解した瞬間、怒りを通り越して呆れてきた。昨日の出来事について何か説明してくれるかと思えば、とんだ期待外れだ。ならばこんな回りくどいことをしなくてもいいではないか。自分があそこに行ったのは純然たる善意からなのだし、その後素敵との間にあったなんやかやも、けっして自分がしようと思ってしたことではないのだ。
浩介は徒労感に満ちた息を吐き、
「……はいはい、もうわかったよ。昨日は落ちてきたお前の下にいてすいませんでした、と。これに懲りたらもう人の上に降ってこないでくれると助かるぞ。それじゃ俺は帰る」
「ち、ちょー!」
慌てると舌足らずになってしまうのだろうか、おかしな声と共に袖が引っ張られる。素敵は子供っぽく頬を膨らませてこちらを見上げていたが、やがてぷいと視線を逸らし、
「わ、わかったわよ……今のはあんまり本筋とは関係ない質問だったわ。あの後帰ってすぐこれ作ったから、三十問目くらいまではわりと感情が剥き出しになってたっていうか、その……ああもう! いいわよ、あのことは私も悪かったし忘れるわよ! ほら、本筋に入るから座りなさい!」
ぐいぐいとさらに袖を引っ張られる。力ずくで逃げることもできなくはなさそうだったが、
「ったく……最初からそう言えよ。次におかしな質問したらマジで帰るからな」
とりあえず椅子に座り直す。
「で、本筋ってのは何だよ。昨日、なんであんなところにいたのかって話か?」
「それもあるけど、ちょっと違うわね。その前に基本的なところから話していかなくちゃ」
聴診器を指先で弄りつつ、素敵はもう一度しおりに目をやった。その後半のページに書かれている文を流し読みして確かめてから、最後に一つ頷いてしおりを机の上に置く。
「あんた、最近この街に来たのよね。この街についてどう思った?」
「どうって……まあ、わりと栄えてるな、とか。あと、なんだか解放感があって明るい感じがしたかな。自由で元気な街っつーか。前住んでたところがここより小さかったせいかもしれんけど……いいところなんじゃねぇの?」
「そうね──素敵なところよ、この街は。そこは私も誇りたく思う。でも──自由だということは、箍が外れやすいということでもあるわ」
「何の話だ?」