素敵は軽く目を細め、小さな息を吐く。浩介がちらりと陰子のほうを見やると、彼女は完全に目を閉じてただ素敵の声を聞いていた。
「原因が何なのかはわかっていない。この街の風土的要因なのか、住む人間達の雰囲気なのか、それとも全く別の要因なのか。それでも事実として──この街には昔から、ある特別な病気が流行っているの」
素敵の言葉も表情も、真剣そのものだった。だから余計に理解できない。
「病気ったって……みんな元気そうじゃないか。クラスでも休んでる奴なんていなかったし」
「心の病気だからよ」
一言。
「その病気を、私達は便宜上《耽溺症候群》と呼んでいるわ。単に症候群と呼ぶこともあるけど。で、その病状は……何かを病的に好きになり、その欲求の充足にたまらない興奮を覚えるようになる──という感じかしら。簡単に言ってしまえば、ある日突然、普通の人が特殊なフェティシズムに目覚める病気ということね。大人になってから罹患する人間もいないわけじゃないけど、確率的には思春期の若者が一番罹患しやすいというのがわかってるわ。ここまではいい?」
「いや、いきなり言われても信じられないんだが……フェティシズムっていうのはあれか、足フェチとか胸フェチとかの?」
「この街の症候群はそんな単純な対象だけじゃないけど……ま、そうね」
そこでふと浩介は気付いた。フェティシズム。何かを病的に好きになり、興奮する。そういう人間が、さっきからこの場にいることに。
「もしかして……お前は、傘フェチ、とか……?」
「黙秘しますわ」
そっと視線を向けて聞いてみるが、陰子は目を閉じたまま冷たく答えただけだった。
「まあ陰子さんのことはいいじゃない。今はもうちょっと一般的な話をするべきだわ……簡単に言えば、私達はその症候群を治療する活動をしてるの」
「その病気があるって信じた体で言うけどよ、なんでただの高校生がそんなことやってんだよ。本職の医者とかに任せればいいじゃねえか」
「それは……誰かが症候群に罹患しているかどうかは、私にしかわからないからよ。なぜわかるのかと言われても説明はできないけど、なんとなく、見てれば感じられることがある。他の医者は、ただのフェティシストにしか思えないものを治療することはできないわ」
なんとなく、か。胡散臭いにも程があるな。そんな浩介の内心が伝わったのか、素敵は話題を変えるように首を横に振り、
「で、次に言いたいのはその症候群とあんたの関係」
「関係って言われてもな。俺はそんなんじゃねーぞ。別に何にもフェチとか持ってないし」
「じゃあ聞くけど、あんた、何が好き?」
口ごもってしまった。長尾と伊万里を相手にした会話を思い出す……そういう質問が浩介には一番困るのだ。
「まぁ……なんでも、だよ」
「でしょうね。それが問題なのよ」
曖昧な浩介の言葉に、素敵はそれが当然といった態度で頷いた。それから立ち上がり、キャスターつきのホワイトボードをガラガラと部屋の隅から引っ張ってくる。そして素敵はペンでボードに歪な六角形を描き始めた。
「なんだそれ」
「わかりやすく図で説明してみるわ。これは一般人Aさんの《好みの資質》を表すグラフ。中心からの距離がその資質の強度ね。便宜上頂点は六つにしたけど、勿論、本当は無数にあるわ。今はわかりやすく……そうね、身体の部位の好み度合ということで」
素敵は歪な六角形の頂点それぞれに、顔、鎖骨、胸、手、尻、足、と文字を書き込んでいく。グラフが一番飛び出ているのは尻の部分だった。
「で、その尻好きなAさんがどうした」
「こんな感じに、人間は今までの育ちに教育水準に家庭環境に遺伝的要因、様々な理由でそれぞれの《好みの資質》を持ってる。症候群は一般的に、その一番強い好みの資質を、さらに伸ばす形で発病するわ」
ぐーい、と素敵は最も尖っていた「尻」の部分の頂点をさらに伸ばし、そこをより鋭角に飛び出させる。
「症候群でAさんは尻フェチになってしまいました、ってわけか」
「そういうこと。大事なのは、元々の資質に本人が気付いていない場合があるということ。まとめると『症候群は、自覚の有無に拘わらず、その人が持つ最も《好きになる資質》があるものを病的に増幅させる』ということになるわね。で、ここからが本題。あんたの《好みの資質》のグラフは……こうよ」
きゅっきゅ、と素敵がペンを動かす。描かれたのは──
「正六角形じゃねえか」
「さらに正確に描けば、こうね」
きゅー。
「円じゃねえか!」
「そして極限まで正確に描けば、こうなるわね」
きゅるきゅるきゅる。
「アフロ!? 図形ですらなくなったぞ!」
最終的に出来上がったのは、縁がぐちゃぐちゃの波線でなぞられた円。素敵はホワイトボードの前で胸を張り、ばしん、と自信たっぷりにそのアフロ図形を指差した。
「これがあんた。あんたは《好みの資質》がありえないくらい曖昧だわ。何もかもが同じくらいに好きだし、何もかもが同じくらいに好きじゃない。しかもミクロなレベルでは一日ごと、一瞬ごとにそれぞれの強度が上がったり下がったり変動してる。ありえないくらい変だわ。突出しているものが何一つない代わりに、何もかもが次の瞬間には突出している可能性がある……自分でも心当たりくらいあるでしょ?」
笑ってしまいそうになった。素敵の発言の荒唐無稽さと──同時に、その正しさに。
あらゆるものがそれなりに好きな自分。突然何かに熱中し、突然冷めてしまう多趣味癖。
「それはとても危険なことだわ。あんたは次の瞬間にも、そして、いかなる種類の症候群にも罹患する可能性がある。注意が必要よ」
実際に唇が歪んだ。素敵の目を見つめ、聞いてみる。
「はは……そりゃ面白い分析だ。なあ、何個か質問していいか」
「いいわよ」
「まず、なんで俺の体質……っていうかその《好みの資質》みたいなもんがお前にわかるんだよ。さっき聴診器で聞いたからか」
「そうね。細かい理屈が知りたいのなら、それはさっきの症候群罹患者の察知と同じで、なんとなく、と答えるしかないわ……聴診器で鼓動を聞くとより確実になる、みたいな感じ」
「ふぅん。で、症候群の治療っていうのは実際にどうするんだ。いや、そもそも俺はまだその症候群ってやつに罹ってるわけじゃないんだろ? 注意が必要と言われてもな」
浩介が言うと、素敵は指先で挟んだ聴診器の先端を自分の口元に押し当てた。それから、何かを誤魔化すかのように軽く視線を逸らしつつ、
「治療法は……その罹患者に応じて違うから一概には言えない。あんたのことに関しては、とりあえずあんたみたいな特殊な性質の人間を見るのは初めてだったから、放置しておくよりは先に説明しておくほうがいいと思ったのよ。具体的にどうするかはこれから考えるわ」
「これから考える、ね」
素敵の言葉を繰り返し、浩介は苦笑する。素敵は残った疑問を先読みしたのか、
「昨日はその、街で症候群罹患者を見かけて治療してて、そこであんたに会って、変な体質なのに気付いて、気絶したあんたの財布とか探ったらここの学生証が入ってたから──」
だから最初から名前を知っていたというわけか。そして街で見かけた罹患者というのはあの酒塗れだった兄ちゃんのことだろう。どういう症候群だったのか。いや、今更そんなことはどうでもいい。とにかくこれで昨日の出来事の謎は解けた。解けてないような気もするが解けたことにしておく。
「よっし、わかった。理解したぞ」
「わかってくれた? ならよかったわ。それでね……」