素敵が僅かに頬を緩め、何かを言おうとする。だがその続きを聞くこともなく、浩介はしゅた、と片手を上げて言った。
「それじゃ、俺は腹が減ったから帰るな。暇ならまた部活見学しに来るよ」
「ちょ、何よそのアッサリ具合は!? ホントにわかってるのあんた!?」
勿論だ。この変な白衣女の言うことも、医術部なんていう変な部活も、全てが胡散臭いということがもうはっきりとわかっている。今の話をはいそうですかと信じられる奴はそれこそ何かの病気だ。
「お前の話を信じようが信じまいが、俺には関係ない話だろ。これから考えるってんならもう俺がここにいてもやることはねーし。それともまだ何か用事があるのか?」
素敵は大きく頷き、再び机の中をごそごそとやり始めた。まだ何かを取り出すつもりなのか。
「あ、あるわよ。えとね、とにかくあんたの体質はレアなの。ひょっとしたら症候群のメカニズムに深く関わってるかもしれないから」
「ふむふむ」
「だからさ、ええと、率直に言えば──」
くるり。椅子を回して振り返った素敵の手にあったのは、やたらぶっとい注射器。
そして彼女はにこりと笑みを浮かべて言った。
「──ちょっと検査させてくれない?」
「No thank you」
両手を胸の前に上げつつ、浩介もにこりと返す。いやー、よかった、これで心置きなく帰ることができるぞ。
「ちょ、なんで外国人風なのよ! しかもちょっと発音がいいのがむかつくわ!?」
素敵の言葉を無視して立ち上がる。今度は陰子も実力行使で止めようとはしてこなかった。手元の傘を白い指で撫でながら、何かつまらないものを見るような視線を投げかけてくるだけ。
「ああ──最後に一つ言っとくか。もし、お前の話が全部本当のことだったとしてもだ。確かに俺はなんでもそれなりに好きで、ちょくちょく好みとかが変わる。でも、だからこそ、《何か一つのものを心から好きになる》ってことにわりと憧れてたりするんだよ。そんな変なフェチ病になるのも別にいいっつーか、むしろ症候群どんとこい、だ」
「な……」
絶句する素敵の顔を背後に残し、浩介は踵を返す。
暇ならまた部活見学しに来る、とは言ったが。
自分がもうここを訪れる気がないことは、彼女達にも充分伝わったはずだった。
+
那霧浩介が部室を出て行き、そして数秒の沈黙の後。
「……腹立たしいですわ。あの男は症候群の恐ろしさがわかっていません。重度罹患した症候群の恐ろしさを」
「説明してないもの。仕方ないわよ」
嘆息のような吐息を漏らしながら、素敵は陰子の言葉に答える。ぼんやりと部室の天井を見上げていると、さらに陰子の声が届いた。
「それにしても、面倒なことになりましたわね。聞けば事の発端は、昨日素敵さんが見つけた重度罹患者を取り逃がしかけたこと──つまりは見張りの持ち場を勝手に離れた黒崎さんのせいではありませんか。責任感がなさすぎです。素敵さんがビシッと言ってやるべきですわ」
「くーがあんな感じなのはいつものことよ。それに、言うほど困ったことにはなってないと思うわ。あいつが何も聞いてこなかったってことは──あのことについては、見てなかったか、見間違いかと思ったかのどちらかだもの。そこだけは素敵な幸運」
「ああ。あの男をここに呼んだのはその確認のためでしたか」
「あいつ自体の性質が変すぎるから、注意しておこうと思ったのも事実だけどね。ホントに検査もしたかったのに……罹患メカニズムの判明が治療法の発展の第一歩だって知らないのかしら!」
僅かに苛立たしさを含んだ素敵の声。数秒の間を置いてから、陰子は小さく頷いた。
「ならば──まだ諦めるべきではありません。わたくしにできることがあれば協力いたします」
「そうねぇ……でも、陰子さんがそんなに乗り気なのって珍しくない? 助かるけど」
返答は、ひどく優しい声で。
「理由はおわかりでしょう?」
「……ありがと」
それに素敵も、優しく返した。そして再びの沈黙。次に口を開いたのはまたも陰子だった。タイミングを窺っていたかのように、密やかに、声に僅かな緊張を滲ませて、
「それで──話は戻りますが。昨日の重度罹患者はいかがでしたの」
「不自然に感じたわ。自然に、偶然に、症候群が重度化したものとは思えない」
同じように声を潜めて言いつつ、素敵は天井に向けていた視線を戻す。陰子は目を細めて彼女を見つめていた。
「では。やはり、いる可能性が高いと?」
「そう考えないと説明がつかない。これからも街に出て捜す必要があるわ……そう言えば確かこないだ名前つけたわよね。何だったっけ」
「《周旋体》ですわ……正直、わたくしにはまだそんな人間がいるなんて信じられませんが。そう──」
布が擦れる音。陰子が傘を開き、それを頭上に掲げてくるくると回す。だからその顔は傘の縁に隠れて、素敵には彼女がどんな表情でそれを呟いたのかはわからなかった。
無表情だったのか、呆れた顔だったのか、ただ疑念を浮かべていたのか、それとも──
不安に満ちた表情を、していたのか。
「《他人の症候群を重度化させる症候群》の持ち主がいる、なんて」
+
……千導賢慈は《おはなしやさん》と呼ばれている。
自分で名乗ったわけではない。困っている人の悩み相談に乗っているうちに、それが口コミで広がってこう呼ばれるようになったのだ。
彼がやっているのはその名の通り、誰かの話を聞いてその相談に乗ることだけ。それをしようと思ったことに特に理由はない。自分が話を聞くことで誰かの気分が晴れるならそれはきっといいことだろう、という当たり前の気持ちで始めてみただけなのだが、それを説明してもあまりピンと来ない顔をされるのが常だった。なので最近は誰かが勝手に言い出した「自分は心理療法士を目指していて、その練習のためにやっている」という話をあえて否定しないようにしている。正直、自分は人助けのためにやっているだけなのだから、他人がどう思っているかなどはどうでもよかった。
《おはなしやさん》は今日も営業している。勿論代金など取らないが、店舗のような場所はあった。とある古びた雑居ビルの一室だ。しばらく前に賢慈のもとを訪れた相談相手がこのビルの持ち主の息子で、悩みを聞いてくれたお礼としてそれ以来ここを自由に使わせてくれるようになったのである。
こぢんまりとしたオフィスのように最低限の家具が配置されたその部屋で、賢慈は学校の制服のままコーヒーを淹れていた。壁の時計を見上げて時刻を確認。それからほどなくして、約束していた時間である午後七時丁度に今日の客がやってきた。
「お久しぶりです、真中さん。調子はいかがですか?」
「はい。千導さんのおかげで、最近は部活も楽しいです」
今日の相談者は真中洋平。賢慈と話をしに来る相手はほとんどが十代の人間で、その例に漏れず彼も市立高校の生徒だ。気真面目な少年で、体育会系の部活に入ったはいいがそのいじめのようなシゴキのストレスで心を病み、辞めると言ったら先輩に殴られた、もう死にたい、というのが最初の相談内容だった。
「そうですか、それはよかった。しかし……こうしてまた僕のところに来ていただいたということは、何か新しい悩み事でも?」
「はぁ。それなんですけど……悩み事っていうか、凄くくだらないことなのかもしれませんけど、よく考えれば自分はおかしいんじゃないかと最近思うことがあって、ですね」