同年代だし、別に自分は精神科の先生ではないのだから敬語など使わなくていいですよ、といつも言っているのだが、なぜだか悩みを相談しに来る相手は基本的にこんな丁寧な態度を取ってくれるのだった。悩みを聞いてもらっているという負い目が向こうにあるからだろうか……そんなに畏まらなくてもいいのに、と賢慈のほうが申し訳なく思う。むしろ、からかい半分で来てやったんだぜ、という態度でたまに訪れるヤンキー系の人達のほうがそういう意味では話しやすいとも言えた。
「くだらないなんてことはありませんよ。どうぞ気兼ねせずお話しになってください」
「じゃあ──実はですね、自転車のことなんです」
「自転車? そう言えば真中さんは自転車通学されているんでしたね」
以前、話を終えて彼を送り出したときに見たことがある。お洒落な赤色をした外国製のマウンテンバイク。知識がないので詳しくはわからなかったが、かなりの高級品だろう。
「はい、昔からの趣味で。部活が上手くいくようになってからは、おこづかいやバイト代で愛車をカスタマイズするのもますます楽しくなってきて、まるで家族みたいに思えてきて──でも、最近友達に言われたんです。ただの自転車にそんなに金と手間暇をかけるのはおかしい。理解できない。乗れればなんでもいいじゃないか。お前は異常だ、って……ねえ千導さん、僕は異常なんですかね?」
ああ、と賢慈は心を震わせた。なんて気真面目で、なんて実直な男なのだろう。そんなことを気に病むなんて。そんなことを気にするなんて。
だから賢慈は心のままに、
「そんなことはありません!」
座っていた椅子から身を乗り出し、彼の手を握る。彼の目を見据える。
「せ……千導さん……?」
「いいですか、あなたはどこもおかしくなんてありません。それはとても素晴らしいことです」
「そ、そうですか……?」
「そうですとも」
力強く頷いて、微笑む。
ああ、愛しい。この人が、弱くて強い人間というものが、心から愛しい。
だから──だから自分は、こうしているのだ。惑う人間の背中を押してやるのだ。人間らしく、真っ直ぐに、自由に、心健やかに生きていけるよう、言葉をかけてやるのだ。
彼の目をさらに覗き込む。その奥底まで、奥底の奥底まで。
「気にすることはありません。何も気にすることはありません。あなたはもっとあなたらしくなっていいんです。あなたはあなたになっていいんです」
「あ、ああ……」
感激したように、彼が息を呑む。そして笑う。だから勿論、賢慈もさらに笑って、
「さあ、もっとお話ししましょう。僕にいろいろと教えてください。あなたが何を好きなのか。どう好きなのか。何かを好きになるということは、人間が人間らしく生きているのだという何よりの証左なのですからね……」
気分が軽い。やっぱりあの人のところに行って正解だった。
鼻歌を歌いながら、真中洋平は愛車のペダルを漕いで家路を辿る。一踏み一踏みをしっかりと受け止めて脈動する車輪。歓喜するように加速する車体。なんて素晴らしい存在なのだろう。ああ、もう家はすぐそこだ。今日は遠回りして帰ってしまおうか。いや、いっそ今夜はこのまま街を走り続けてしまおうか。とても魅力的な思いつき。こいつはどこまでも自分についてきてくれる。勉強しろとうるさい親とも、些細なことで叱責してくる部活の顧問とも、それをにやにやした目で眺めているだけの先輩や同級生達とも違う。最高の相棒であり伴侶。
大通りから一本入った、一車線の道路を疾走する。この道はほとんど自動車が通らない。ましてやこちらを邪魔者扱いしてクラクションを鳴らしてくる大型トラックなど皆無だ。あんなもの世界から滅びてしまえ。日本は全ての交通手段を自転車に一本化すべきだ。首相は本当に馬鹿だ。
調子良くペダルを漕いでいたとき、ふと、道端に何人かの若者がたむろしているのが目に留まった。場所は小さなライブハウスの前。金髪にセンスの悪いシャツにだらしなく腰穿きしたズボンにうんこ座りに咥え煙草、全身全霊をもって「僕達は・頭が悪い・でェース!」とアピールしている。きっと自転車の乗り方も知らないに違いない。可哀想な奴らだ。
道端に捨てられている空き缶に等しい若者達の横を、洋平は愛車と共に通り過ぎようとする。が──そのとき、見えた。
近くに止めてあった自転車の前篭に、若者の一人が吸っていた煙草を押しつけて灰を落とし、そしてあろうことかそのまま篭の中に煙草の吸殻を投げ入れてゲハハハと笑ってこいつ何してやがるアホかバカかその自転車は俺のじゃないけど俺の自転車の同類の自転車であって素晴らしい存在で畜生コラ畜生畜生がッ!!
急ブレーキ。愛車を降りる。若者達が洋平に気付く。洋平は自転車を押して近付いていく。
「なあ」
「あ? あんだテメェ?」
「謝れ」
「ハァ? なに、マジわけわかんねーんだけどー」
一人が唾を吐いた。さっきの、煙草を押しつけた自転車の、サドルの上に! 凌辱! 凌辱以上の凌辱だ! 強姦して殺人してさらに死姦するようなものだ! 許せない!
「謝れって言ってんだよォォォ!」
だから洋平は、片手で愛車のグリップを掴み、さらにそのままぐいんと愛車を持ち上げて、ハンマーのようにその車体を若者の頭に叩きつけた。ぐしゃりという手応え。飛び散る何か。ざまあみろ。
「な……」
今度は横薙ぎに愛車を振るう。後部車輪がもう一人の口にめり込んでヤニに塗れた黄色い歯が何本も飛び散った。最後の一人には腹に正義の鉄鎚を下してやる。赤色の混じった胃液。まだ許さない。ピクピクしている男の身体をさらに打ち据える。
「謝れ! 謝れ! 謝れ!」
「ぎ、げっ、うぇっ……わ、わかった、悪かった、許して……」
「謝る相手は、俺じゃ、ないだろがッ! そんなこともわかんないのかお前は!? 本当に馬鹿だな、救いようがない馬鹿だな! この世で一番素晴らしいものがわからないなんて!」
愛車の力を借りて、殴る。殴る。殴る殴る殴る。
その最中にも、洋平の意識のほとんどは自転車にある。縦横無尽に躍動する彼女の姿はやはり素晴らしい。惚れ惚れする姿態だ。スレンダーで、カッコよく、可愛く、セクシー……
(ああ……好きだ。好きだよ……)
顔に温かな飛沫がかかった。ああ、これはきっと彼女の涙だ。二人の心が通じ合ったことを嬉しがっている喜びの涙だ。可愛い奴だな。
洋平は幸せな笑みで思った。
涙も流せるなんて、やっぱりこいつは生きてるんだ。凄いぞ。
今日は一緒に寝よう。