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転校二日目の金曜日。
登校した瞬間、いきなり夢のようなイベントが起こった。
「こ、これは……!」
下駄箱を開いた姿勢のまま、浩介は固まる。眼前にあるのは自分の上履き。そしてその上にちょこんと載った便箋のようなもの。これはもしや、アレか。アレなのか。転校してたった一日で、まさか、そんな……
待て、何かおかしいぞと頭の片隅で警鐘が鳴ってはいるものの、興奮せずにはいられないのが男のサガ。ササッと周囲を見回し、人気がないのを確認。下駄箱の蓋で隠すようにして、もどかしく便箋を開けて中の文章に目を走らせる。
『好きです。それはともかくこれは私の匂いです。嗅いでね♪』
キター! と思ったのは一文目までだった。二文目で眉が寄り、三文目を読んだところで上履きの上に便箋以外のものも載っていることに気付く。四角く折り畳まれた、可愛らしいハンカチだった。
自分の匂いつきラブレター? つーか『好きです』の後に『それはともかく』って意味わかんなくね? とか思いつつ、そのハンカチを手に取ってみる──瞬間、
「クサッ!?」
別に猛烈な体臭が届いてきたとかそういうわけではない。鼻腔に入ったのは、もっとあからさまな……なんというか、そう、まるで薬品臭のような……?
「……はっ!?」
慌ててハンカチを手放すのと同時、不穏な視線を感じてばっと振り向く。下駄箱の列に姿を隠し、半身になってこちらを窺っていたのは──
白衣を着た、小柄な人影。
「ちっ。素直に眠ってればいいのに……」
舌打ちを残し、しゅっとその姿が消える。追いかける気力もなく、浩介は半眼でその場に立ち尽くしているしかなかった。
オイ。何を考えてるんだ、藍坂素敵……?
一時間目が終わった休み時間には、トイレに行く途中の廊下にエロ本が落ちていた。
「……」
しかも三冊。前門の虎、後門の狼などという言葉が頭に浮かんだ。
廊下の右端にある雑誌では、似合わないスクール水着を着込んだ巨乳の女性が「私、先生となら……いいよ?」などと満面の笑みを浮かべている。左端ではフリフリの服を着た小柄な女性が「お兄ちゃん、あそぼっ」などと上目遣いで縦笛を吹いている表紙。廊下の中央には喪服を着た妙齢の女性(最大限の婉曲表現だ)が「いけません、主人の十五回忌という日に……!」と涙目でしなをつくっている。
三匹の虎が猛烈な存在感を持って行く手に立ち塞がっていた。今すぐ回れ右をしたいところだったが、もし背後に無関係な女子生徒(狼役)がいればどうなるか。擦れ違った後で廊下のこれに気付き、「あの転校生、いきなりこんな多趣味な落とし物を!? フケツ!」となる可能性もゼロではない。新しい学校での生活は壊滅的なスタートを迎えることになるだろう。
となると、浩介の選択は決まっていた。
ごくり、と喉を鳴らしてから、浩介は三匹の虎(エロ本)へとまっすぐ歩を進め──そして普通に中央の雑誌を跨いで通り抜けた。勿論未亡人マニアではないので心は痛まない。
なんとなく予想はできていたが、さらに先にある廊下の曲がり角にはやはり白くちっこい影がある。家政婦は見た! みたいなポーズで角に張りついている女にジト目を向けると、
「ちっ……性癖調査にも引っ掛からない……」
などと呟いてその姿を消す。
性癖調査か。昨日言っていた「検査させてくれない?」の続きがコレ……なのだろう、多分。こんなものに引っ掛かると本気で思っているのかどうかは定かではないが。
素敵を捕まえて問い質したいところではあるものの、正直なところそれもまた面倒なことになりそうだ。だから浩介は溜め息一つで彼女を追うことを諦め、「誰だこんなものを持ってきたのは!」という教師の怒鳴り声を背後に聞きながら、疲れた足取りでトイレに向かった。
二時間目の終わり。次の体育の授業のため更衣室に移動していると、今度は廊下の隅に机とそこに載った段ボール箱の登場。横面に穴が開いており、「現金掴み取り(腕まくりしてね♪)」などという張り紙があった。当然のように無視して歩を進めた浩介の背後、甘言に釣られた長尾が腕を突っ込んで、
「おいおい那霧、なに自然にスルーしてんだよ!? こんなステキイベント見逃せねぇだろ、豊かな学生生活を送るにはまずカネからだぜ! もらったぁぁぁーっ! お……あれ……待て、なんか、締めつけられるーっ! 食われる、俺、食われる!?」
「……安心しろ。多分、血圧測定器かなんかが仕込んであるだけだ」
浩介はもう周囲に視線を巡らせることもしなかった。小さな舌打ちと、「もー。なんで血圧くらい測らせてくれないのよぅ……」という呟きが聞こえてきただけだった。無視。
だが、それがさらにヤツの何かに火をつけてしまったのだろうか。
次の体育の時間のこと。素敵はついに実力行使に出た。
「あぶなーい!」
「ん? ……ぶっ!?」
ミニサッカーに興じていた浩介がその声に振り返った瞬間、どこからか新たなボールが飛んできて浩介の顔面を直撃する。まぁ同じくミニサッカーをやっていた隣の女子のフィールドから以外にありえないのだったが。そして浩介が振り返るのを待ってボールを蹴ってきたその犯人も一人以外ありえず、
「まあ大変! もし当たればと思ってやってみただけなのに、ラッキー……じゃなくて、これはホントに不幸な事故だわ! ていうか鼻血出た? 出た?」
「……オイ」
今まで無視してきたが、さすがにそれはツッコまざるを得なかった。犯人は満面の笑顔で、しかも両手にスポイトを掲げながらダッシュで近寄ってきたのだ。
「なんだ。出てないのか……」
「なんだ、じゃねえ。朝から一体どういうつもりだよ!?」
「あ、朝? ええと、な、何のことー?」
挙動不審に視線を逸らす。頬を両手でがっしと掴んで視線を固定してやった。
「ほほう……クロロホルムで俺を眠らせようとしたことをもう忘れたと言うか、この女は」
「こ、こら、離ひなひゃいよ……違うわよ、そんなの使ってないわよ! クロロホルムとかエーテルですぐ人を眠らせることができるなんてのは映画の中だけの話で間違いで迷信で」
「んなこた心底どうでもいいっ。他にも随分特殊な趣味のエロ本で俺をトラップにかけようとしたな? それからアホな血圧測定ボックスを作ったな?」
「さ、さぁて。身に覚えがないわね! いやもう全然!」
目を泳がせながら言う素敵。どっと疲れが出てきた。浩介は肩を落としつつ、両手を離して素敵の頬を解放してやる。
「はぁ……」
「な、なにいきなり溜め息なんかついてんのよあんた。鼻血出そうなの?」
「スポイトを鼻に捻じ込もうとするな! まったく……なんでだ? なんでこんなことするんだよ」
「なんでって……それは、その」
「昨日も言っただろ。お前の話が本当だったとしよう。それで自分が病気になったとしても、俺は別にいいって言ってるんだ。俺の体質は俺の事情で、お前らの事情じゃない。はっきり言って、検査やら何やらに協力してやる義理はないぞ。あと当然だがシロウトの医療行為ほど怖いものはない。勘弁してくれ」
一息に言う。にゃによー! と鼻を膨らませて反論してくる……かと思いきや、素敵はその言葉に軽く俯いていた。そして数瞬の沈黙を形作った後、
「……そうね」
予想外の同意。僅かな驚きをもって、浩介は力ない笑みを浮かべた素敵の顔を見る。
「よく考えれば……そうかもしれないわ。これは私の、私達だけの、自分勝手な理屈だった……かも。あまりにあんたの体質が珍しかったから悪ノリしちゃったのかしらね。ごめん」
「お……おう」