あまりのアッサリさに、何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう。すると素敵はこちらの表情を見て、さらに頬を緩めた。
どこか──寂しそうに。
「警戒しなくてもいいわよ。あんたの言う通りだな、って今更気付いただけ。いくら前に進める可能性があっても、無関係なあんたを巻き込んでまですることじゃなかった……ううん、そもそも前に進めるかも、っていうレベルの思いつきだったんだから。実際、冷静になればこんなに本気になって検査しようとしても意味なんてないのよね。陰子さんに乗せられちゃったのかしら」
スポイトを体操服のポケットに仕舞いつつ、素敵は肩を竦めた。グラウンドの中央で顔面セーブを果たした男とそれを演出した女、その立ち話姿にはさっきから周囲の注目が集まっている。よく考えれば、さっきはみんなの前でこいつの頬を挟んでグリグリとかやってしまったのか。急に恥ずかしくなってきた。
素敵は足元のボールを拾い、くるりと身を翻しながら──自分の鼻の頭に指を当て、「ホントに鼻血出そうなら、保健室行ったほうがいいよ?」とおどけたように言った。
そして授業に戻っていく。
浩介は何も言葉を返さない。返せない。
さらに、何もわからなくなった。
藍坂素敵は、いったい、何を考えているのだろう?
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学校が変わったとはいえ、授業の退屈さは同じだった。五時間目の授業を終えた休み時間、浩介が眠気覚ましに伸びをしていると、不意に前の席の長尾が振り向いてくる。
「ん、どうした?」
「いやー、ちょっと気になってさ。お前昨日、藍坂素敵に連行されてたろ? で、体育のときは何やら二人でニコニコ内緒話だ。何があったのかなって」
連行とは実に正しい表現だ。だが体育のときのことについては全力で否定したい。もしあれがニコニコ笑い合っているように見えたのなら、長尾は率先してレーシック手術を受けるべきだろう。
ふと視線を動かすと、制服の上に白衣を羽織った人影は今まさにふらりと教室を出て行ったところだった。トイレにでも行ったのだろう……彼女とは体育の後から一言も会話をしていない。する用事がなかったから当然だ。
「いや……別に何も。昨日のはたいしたことじゃない。体育のときは、ボールをぶつけられたから文句言ってただけで」
「何もってわけねぇだろ。気になるなー……なあ、塚原さんも気になるだろ?」
「え?」
急に話を振られ、隣の席の伊万里が僅かに驚いたように顔を上げる。優等生オーラ漂う彼女もやはり昼休み直後の催眠古文はそれなりに辛かったらしく、今までは机の上に立てた消しゴムやらシャーペンやらを指先で押して倒してはまた立てて、というようなことを繰り返してぼーっとしていた。子供じみたその暇潰しに、なんとなく親近感が湧く……授業中にも何度かそんなことをやっているのが見えたから、ただの癖なのかもしれないが。
「だから、昨日の拉致。気になるよなー」
「えと……そうだね。藍坂さんとなにお話ししたの?」
驚いたのは一瞬、伊万里も興味を示した様子で身体をこちらに向けてきた。
「まあ、いろいろ変な話をされたっつーか……ええと……」
口ごもる。昨日聞いた荒唐無稽な話をそのままこの二人に伝えるのは憚られた。転校二日目にしてデンパ系のレッテルを貼られてはたまらない。話を逸らすついでに、逆に二人に聞いてみることにした。大っぴらに部室があるのだ、質問しても別におかしくはないだろう。
「そうだ、勧誘。部活の勧誘されたんだ。医術部っていう変な部活、俺は今まで聞いたことがなかったんだけど……どういう部活なのか、二人は知ってるのか?」
あー、と長尾は合点がいったように頷き、どこかもごもごと、
「知ってるっちゃ知ってるけど……ぶっちゃけ、変わり者が多いこの学校の中でもぶっちぎりの変人集団だな。あんまり好き好んで近付く奴はいないと思うぜ」
「私は、あんまり知らない、かな。でもね、藍坂さんも他の人も、悪い人達じゃないと思うよ?」
伊万里は微笑みながら、けれどこちらも何か言葉を選ぶように。
「ふーん……そっか……ま、勧誘は断ったから別にもういいんだけどな」
そんな感じで曖昧に誤魔化して話を打ち切ろうとしたとき、何かを思案するような顔つきになっていた長尾ががっしと浩介の頭をヘッドロックしてきた。
「ぐお、何だ」
「悪い塚原さん、ちょっと俺、こいつと男同士の話するから。びっくりするほどエロいやつ。とても学年のアイドルには聞かせられないから勘弁な!」
「しねぇよ!」
「私、アイドルなんかじゃないけど、え、えっちなお話……? う、うん、わかった」
顔をぽっと赤くして、伊万里はそそくさと身を退いた。どこかぎくしゃくとした仕草で次の授業の準備を始める。
「しねえって言ってるのに……なんだよ長尾」
「まあ聞け。小声で話せ。んで心当たりがなかったら聞き流してくれな。お前……藍坂素敵に変な病気の話されなかったか?」
心臓が跳ねる。ヘッドロックされながら、ぎょっとした視線を長尾に向けると、
「……やっぱりそうか」
「お前、知ってるのか……? あの、フェチがどうこうみたいな話」
「俺の他にも知ってる奴は知ってると思うぜ。誰もぺらぺら人前で喋ったりはしないけど、公然の秘密ってやつだ。医術部は急に変なフェチになるような病気を治してくれるってのは。でもまぁ、基本的には与太話だよ。本当に信じてる奴は一握りだ」
「そ、そうか。だよな。あんな話……」
そろそろ息苦しくなってきたので、浩介は長尾の腕をタップする。だが離してくれない。もう一度首を捻って長尾の顔を見上げると、彼のほうも浩介の顔を見下ろしてきた。それからやはり小声で、
「なあ那霧。こうやって友達になったのも何かの縁だ。他の奴に言ったことなんてないんだが、お前にだけ教えてやる。友達記念・二人だけの秘密だぞ」
「男同士で二人だけの秘密とか言われても、あんまり嬉しくはないんだが……何だよ」
数瞬の間があり、そして聞こえてきたのは、小声よりもさらに小さな囁き声。
「──簡単に言えば、俺は医術部の話を信じてる」
驚愕の一言だった。浩介は眉を寄せ、
「何でだ?」
長尾は何かを恥じるように笑った。
「決まってるだろ。俺が実際に治してもらったからだよ」
「な」
「俺だけじゃなくて、他にもそれなりにいると思うぜ。誰も他人に話さないだけで……あー、でも実際に何があったのかは勘弁な。恥ずかしいから。知りたきゃあいつから聞けよ」
「本当、なのかよ」
腕のロックが解ける。長尾は自分の椅子の背もたれに身を預けながら言葉を続けた。
「まぁな。詳しい理屈なんてのは全然わかんねーけど、自分がなんだかおかしな感じになって、それがあいつらのとこに行ったら治ったのは事実だ。だから一概に与太話として切り捨てるのはどうかと思うぞ、みたいなことを言いたかっただけ。転校初日に医術部部長殿本人がわざわざお前を連行していったんだ、俺的には何か非常事態のニオイがプンプンした」
「……そんなんじゃねぇよ」
「そうか? ならいいんだ。あ、もし何かのフェチになってもボーイズラブ系のだけは勘弁な。前の席に座ってる美少年のオシリを狙われたら困る」
「安心しろ、その可能性だけはありえない。なぜならそんな美少年は存在しないからだ」
呆れの息を一つ吐き、それで長尾との会話は終了。馬鹿な会話で受けたダメージを癒すべく隣の伊万里を見るが、彼女はまた、消しゴムを立てては倒しをぼんやりと繰り返しているだけだった。
その眼差しがどこか苦しげなものに見えたのは、多分、浩介の気のせいだったのだろう。
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「くそ、結局来ちまったぞ。もう来ないって決意が一日しか持たないとは……!」