あの夏に捧ぐ逢いことば

chapter.1 電子の訪客、白昼夢のインストール ④

「わたしは、逃げ出したんです」


 ただならぬ単語の二重唱に、背中を冷たいものが駆け抜けた。

 頭の中に一気に湧き出した疑問や焦燥をみ込み、とりあえず自室の扉を少しだけ開ける。玄関口の声がよく通るようになった。


「夜分遅くに申し訳ありません。お時間はよろしいでしょうか?」


 若い男の声。警察のものだろうか。


「はい、はい。すみません、開口一番ひどい対応で」

「いえ、こちらこそ突然お邪魔して驚かせてしまい、申し訳ございません」

「いえ……えっと、そちらのお嬢さんも警察の方なのかしら?」

「不服か?」


 今度はとげがあるが幼い声。少女みたいだ。


「いえいえ。それで、警察の方がどのようなご用でしょうか?」

「手短にお話しします。このつばめ園が契約されているスマホに、不正アクセスの疑いがかかっております」


 ドキッ、と心臓が跳ねた。

 手元のスマホからは「特定が早い。さすがですね」とごとのようなつぶやきが聞こえた。


「ちょっと待ってよ! もしかしてこれ、ユウのせい!?」


 小声で彼女を糾弾するも、当の本人は困り顔でほほむだけだった。


「この番号は……確かに、ウチのこうさかしゆうに持たせているスマホです。まさか、変なことをするような子ではないのですが……」

「今、彼はどちらに?」

「ついさっき、帰宅しました。部屋は、こちらです」


 おんさんの声に、急いで扉を閉める。だけど、年季が入った廊下は歩くたびにギシギシと音を鳴らし、その人物が近づいてきていることを僕に主張してきた。


「ど、どうするんだよ!」

「落ち着いてください。彼らは警察ではありません。研究所の人間です」

「け、研究所? なにそれ、どっちでもいいよ!」


 思わず頭をく。

 僕に用意された選択肢は、二つ。

 彼らに事情を話してユウを差し出すか──


しゆうくん。……わたしを、連れて行ってくれませんか」


 切実な声が、鼓膜の奥に響く。


「誰もいない、どこか遠くへ」


 ──ここから彼女と共に逃げ出すか、だ。



まくあい 一


 つばめ園は、アンバランスな児童養護施設だというのが第一印象だった。

 データによると築年数は三〇年を超えており、至る所に修繕の跡が見られる古い園舎にだまだまし住んでいるようだ。一方で、園庭と遊具はやけに傷みが少ない。丁寧に遊んでいるというよりは、単純にできて日が浅いと思われるれいさだ。

 芝生や遊具は、環境を整えると数百万はかかるだろう。こんな閉園寸前の赤字施設のどこにそんな金があったというのだろう。

 心当たりがないでもないが……まぁ、そんなことはどうでもいいか。

 ワタシは、同伴させた名前も知らない男にやりとりを全て放り投げた。

 ……おかげで、また『お嬢さん』などと言われてしまったが。


「ついさっき、帰宅しました。部屋は、こちらです」


 つばめ園の園長らしき婦人に、くだんの少年の元へ案内されることになった。

 音が鳴る腐りかけた廊下を通り、奥から二番目の部屋。婦人がノックをする。


しゆうー? ちょっとお話があります。開けますよ」


 中から返事はない。ワタシは、袖の中からそっと小さな端末を取り出して確認する。

 ……あぁ、やっぱりか。


「あら? しゆう?」


 部屋に入った婦人は、いぶかしげに周囲を見回す。


「変ねぇ。トイレかしら」

「もう、ここにはいないな」


 ワタシは、フードをかぶる。もう、ここに用はなくなった。


「すでに逃げ出しているよ。窓からだろう。会話を聞かれていたな」


 部屋の窓では、夏の湿った空気がカーテンを揺らしている。外に人員を配置しておかなかったワタシの落ち度だ。

 同伴した男が、くちしそうに窓の外をにらみつける。


「靴も履かずにか……」

「どうだろうな。学校には室内履きが入り用だろう。持ち帰っていても不思議じゃない」

きさらぎあり、次はどうする?」


 同伴の男が指示を仰いでくる。自分でも考えろ。


こうさかしゆうの行動にユウが干渉しているのは間違いない。であれば、ユウは必ずこうさか少年と共にいる。もうユウは追えないんだ。であれば、少年の方から捜し出すしかない」


 男はうなずくと、どこかへ電話をかけ始めた。ワタシの命令を、彼の部下にでもCDみたいに再生しているのだろう。

 ワタシは軽く部屋を見回す。

 使い古されたスクールバッグ。何度も着回されたであろうクタクタの衣類。タンスは、いろせたシールやそれを剝がした痕で元の模様がわからないほどだ。

 この狭い部屋で生きてきたごく普通の少年は、突然の事態に何を考え、何を感じ、何を決意してユウとの逃避行に臨んだのだろう。


「……お二人には、ひどく申し訳ないことを言いますけれど」


 そんな中、園長婦人が言葉を選ぶように口を開いた。


「もししゆうが、我を出して、この場から逃げ出したのであれば、それは喜ばしいことです」

「何を能天気なことを。犯罪に手を染めてしまったのかもしれないとは考えないか?」

「その時は、後からしかるべき罰を与えれば良いのです。我を通して間違っていくからこそ、あの年頃の子どもは成長していくものなんですよ」

「随分と達観したことを。身をもって体感したことがあるような口ぶりだな」

「……こんな仕事をしていますから」


 婦人は、タンスの上に飾られていた写真立てを手に取る。そこには、白い歯を見せつけるような幼い少年少女たちが収められていた。


「少し前。我が強くて、自分を磨き続けて、そして日本の頂点に立った子がいました」


 写真に視線を落として、婦人は穏やかな声色で続ける。


「建物に比べて遊具がれいなのも、その子がお金を出して建ててくれたからなんですよ」


 その目尻に、うっすらと涙がたまり始めた。

 婦人の感情は全くわからないが、『その子』とやらの正体には心当たりがある。

 つばめ園に寄付し続けていた話は、あまりに有名だ。


ほしみやゆき、か。先日くなったな」


 婦人は指で涙を拭い、写真立てを戻した。


「子どもは純粋で、わがままで、だからこそ尊いんです」

「理解ができないな」

「あら、あなたにも言っているのよ、小さな警察さん」

「小さな、ね……」


 婦人から視線を剝がし、窓枠に切り取られた夏の空を見上げる。

 月と星がまぶしく感じられるほどの、澄んだ夜空だった。


「──あぁ、やっぱり理解できないな」


 どれだけ手を伸ばしても、その輝きには届き得ない。

 それどころか、また置いていかれているのだ。

 この、不思議な世界から。