明けの空のカフカ

第1章 空のない空の上で ⑤

 ハヤテは口元をゆるませて熱弁をふるいだした。


「やることなすこと無茶苦茶だけど、最高にカッコイイ冒険家だ! 俺、子どものころにシア・アリムスの冒険録を読んで以来ずっとあこがれてたんだよ。終戦ぎわに消息を絶ったらしいけど、生きてたんだ……!」

「冒険録?」

「孫なのに読んだことないのか? トリエ社刊、全五巻でつづられる、シア・アリムス十七歳から二十六歳までのぼうけんたん! 十代男子にとっては聖典と言ってもいいな。学校の図書室にも置いてあったけど常にだれかに借りられてたぜ」

「へー……そんなの家には置いてなかったよ」


 なんか、変な気持ち。おじいちゃんが有名人だってことが分かってうれしいのに、いまいち実感がかない。でも胸のずっとおくのほうがじんわりと熱い。

 むずむずする気持ちをごまかすみたいにガレージのほうを指さして、わたしは胸を張る。


「見る? 愛機」



「あー! これダウイガーナ島で子どもに落書きされたとこじゃん! うっすら残ってる」


 案内したとたんに満面のみであちこちながまわしたり、そうじゅうかんにぎってじーんとした顔でだまんだり。楽しそうなハヤテを見てなんだかほこらしい気分。

 でも、ちょっとくやしくもある。おじいちゃんはどうして自分が書いた本をわたしに読ませてくれなかったの? わいい孫には知られたくない秘密の話がたくさん書いてあったりするのかな。

 ハヤテはわたしのおもいなんて知るよしもなく、にやけた顔で操縦席から降りた。


「さっきは全然気づかなかった……サンキューカフカ。今度地元に帰ったら友達にまんする。信じてもらえなそうだけど」

「なんか子どもっぽい」


 くすくす笑うわたしに向けて親指を立てる。


「男はなんさいになっても少年の心を忘れないもんなんだぜ。Byシア・アリムス」


 なにそれ! またわたしの知らないおじいちゃん情報だ。


「そういえばハヤテってなんさい?」

「ん? 十九歳」

「えーっもう立派な大人だ! 子どもっぽいね」

「うるせー」


 かみをぐしゃぐしゃかき回されて、きゃーって笑いながらまわった。お兄ちゃんがいたらこんな感じ? 胸がほかほかする。


「ってやばいもうこんな時間だ。老人って朝早いだろ? 帰らないと」


 こしベルトから下げたかいちゅうけいを見て、ハヤテはあわてて出口へ向かう。そんなに急がなくても、もう一日くらいゆっくりしていったら? わたしの家にかくれてたらだれにも見つからないって。おじいちゃんの部屋も空いてるし……出かかった言葉をんで、いっしょにガレージを出た。

 時計はもう四時。すきの空はまだ暗かったけど、太陽は準備体操を始めているころだと思う。ハヤテの言う通り、空が白くなってくると村のみんなも起き出すの。

 いわはだに生えたきのこの明かりが二人分のかげをかたち作っている。ハヤテのかげはぴょんと立った三角耳がトレードマーク。わたしのかげは……とくちょうがないや。布をかぶったおばけみたいな形。

 すぅ、とシャッターのすきをすりけた風が、わたしの長いかみをゆらした。白いかみの一本一本が身軽にって、ゆっくりと落ち着く。


「キレーな毛並みだなぁ」


 頭一つぶん上から聞こえてきた言葉に、わたしはぱちぱちとまばたきをする。


「そう? そろそろ短くしようと思ってたの」

「もったいね。ヒト類のかみってびるのに時間かかんだろ?」

「うん。おじいちゃんがめてくれたからばしてたんだけど、でももうおじいちゃんいないし。かみを洗うお水だってもったいないから」

「ああ、川も水道もなさそうだもんな、ここ」


 川って、たしか地面の上をずっと水が流れてるところでしょ? そんなのが近所にあったら確かにかみなんて洗い放題だね。いいなぁ。

 分かってはいたけど、やっぱりわたし、知らないことばっかり。空の上で暮らしてるのに広い空を見たことがないし、ヒト以外に二足歩行の生き物がいることさえ知らなかった。

 地上にはもっとたくさんの『知らない』があふれているのかな。本やラジオから得た知識じゃかなわないほどのドキドキが、そこらじゅういっぱいに……。

 シャッターの向こうにある夜空にくぎけになっていた目のおくが熱くなって、しきりにまばたきをする。それでも全然熱は引かなくて、ぬるい夜の空気を思い切り吸い込んで数秒息を止めて、した。熱いエンジンを冷やすみたいに。だけどそれを何度かかえしても、体の熱は冷めない。


「外に出てみたいか?」


 わたしの考えをかしたような言葉に、思わずへなちょこな顔をしちゃった。


「俺も田舎いなかで育ったからよく分かるよ。海の向こうとか、山の裏側とか、道の先とか……見えそうで見えないものほどあこがれるよな」


 ふにゃけたくちびるを結び直してすまし顔を作る。わたしも、このシャッターと岩の向こうにあこがれてる……そう返したら、ハヤテはなんて言うかな。

 気になったけど、口には出さない。ハヤテはそんなわたしをやさしい目で見下ろす。


「シャッターの外まで連れてってやろうか。空が見たいんだろ」


 そう言われて、視線をゆっくりと前に向けた。いつもさくしに見ていた細い道は、ハヤテがさくばしたおかげでいつもより広く見えて、気をつけて歩けば全然危なくなんかないんじゃないかって思えてくる。

 行ってみたい。すごく。けど足が地面にへばりついて動かない。

 ずいぶん長いあいだなやんでいたような気がする。早く行かなきゃいけないはずなのに、ハヤテはじっとだまって待っていてくれた。けど、わたしは結局首を横にった。


「勝手に行ったらおこられそうだから」


 ハヤテは「そっか」と言って笑ってみせた。たおれたてっさくに足がれないようにかろやかにえる。いっしゅん、こっちに向けて手をばしてくれないかなって思ったけど、そんなわけないよね。『行かない』ってわたしが言ったんだから。


「ね、また来てくれる?」


 ハヤテは苦笑いをする。


「無理だよ。さっき話したろ? 上に住んでるヒト類は俺たちのことがきらいなんだ」


 予想通りの答えはわたしの顔を少しだけうつむかせた。笑って「またね」って言いたかったけど、言えそうになくて、なんだかくやしい。

 視界のすみでハヤテが手を動かしている。金具や布がこすれる音がして、「カフカ」と名前を呼ばれて顔を上げる。


「へいパス」

「わっ」


 小さな何かがわたしの胸に飛び込んできて、とっさにきしめるみたいにキャッチした。

 手のひらから出てきたそれは、小さなコンパス。西南西の位置に黒い矢印が書いてある。口を開けたまま目をハヤテに向けると、ゆっくりとうでばし、手に持っていたペンで岩のかべを指す。