明けの空のカフカ

第1章 空のない空の上で ⑥

「こっち。この向き。赤いほうの針が矢印から動かないように、ぐ三百コルトルくらい飛べば、俺の職場に着く」

「…………」

「大人になってもまだ俺のこと覚えてたら会いに来いよ。無理にとは言わないけど」


 わたしは思い切り首を横にった。忘れるわけなんかない!


「ぜっっったいに会いに行く! 六年……ううん、もうすぐ誕生日だから、あと五年。待ってて!」


 ハヤテがにっと笑う。くるんとした尻尾しっぽが一度左右にれた。


「もしどこに向かってるか分からなくなったら、地上に降りてその辺のやつに『ココット村の配送局に行きたい』って聞けば、よほどの世間知らず以外は教えてくれるはずだ。めちゃくちゃ目立つ外観だから」


 目立つ外観ってどんなだろ。お城みたいな形とか? そもそも配送局ってどんなところで、どんな人が働いているんだろう。

 ハヤテが笑って手を上げる。


「じゃあな。色々ありがとよ」

「ねえ、わたし、すごく楽しかった! またね!」

「ああ」


 白い歯を見せて、ハヤテはそのまま軽やかに道を辿たどる。あっという間にはしまで行き、シャッターのふちに手をかけてわたしに軽く手をった。わたしはあわてて手をかえす。ハヤテはシャッターのすきから体をひょいと向こう側にわたすと、すぐに姿が見えなくなった。

 わたしはしばらくそこにいた。もし飛行機のトラブルで出発できなくなったりしたら困るでしょ? でも、そんなことは起こらなかった。

 そのまま、夢の中にいるような気持ちでぼんやりしてた。空が黒から白、白からはくいろはくいろからうすみずいろに変わりかけたころ、わたしはやっとシャッターに背中を向けた。

 げんかんを開けて家に飛び込む。見慣れた灰色の岩の中、ダイニングテーブルに残された二つのティーカップだけがいつもとちがう。

 夢じゃない。

 心臓が大きくねる。右手ににぎったコンパス。岩の向こう側を指す黒い矢印。

 夢じゃない。

 本当に、さっきまでいた。立ってしゃべる、犬みたいな人。わたしが知らない外の世界の人。

 知らなかったことをたくさん教えてくれた。だれも教えてくれなかったってことは、知っちゃいけないことだったのかもしれない。でも知っちゃったんだ。だから知らなかったことになんてできないよ。

 もっと知りたい。

 見てみたい。

 固い石のゆかって一目散におじいちゃんの部屋へ向かう。ほこりをかぶったほんだなの前に立ち、難しそうな本をぽいぽいしては後ろに積み上げていく。あれもちがう、これもちがう……本が山になって、もう一つ山ができて、また一つ……四つ目の山を作ろうとしたところで、たなおくからこっちを向いてぱたりとたおれた本の存在に気づき、わたしは手を止めた。

 手をばして本を裏返す。中央には見覚えのある、赤と白のかわいくてかっこいい飛行機の絵。そして上のほうには、


「シア・アリムスの冒険……」


 そう書かれていた。

 本がたおれてきた段をのぞき込むと、堂々と並んだ四冊の表紙と目が合う。

 こんなふうにかくしてたなんて。


「おじいちゃん……」


 見つかっちまったか、と声が聞こえた気がした。思わずみと意地悪な気持ちがげてくる。


「ねえ、どんな秘密が書いてあるの?」


 指先でかたい表紙をめくった。

 とたんに広がる古い紙のにおいが、わたしを冒険に連れだす。



 体がいたーい! 目が覚めたしゅんかんにそう思った。

 本を読んでいるうちにゆかしてちゃってたみたい。ミシミシときしむ関節をゆっくり動かしながら起き上がると、うすい毛布がゆかに落ちた。だれかが心配して様子を見に来て、その時にかけてくれたんだろうな。


「おなかすいたぁ……いま何時?」


 時計を見たら、なんともう夕方! 成長期なのにごはんを二食もいた上にお店まで休んじゃった。


「バレンさんたちはもう行っちゃったよね」


 窓の外を見たら、やっぱり船はいなくなっていた。きのこの積み込みを手伝えなかったから悪いことしちゃったな。

 ソファに座って本を開き直す。シア・アリムスの冒険、第二巻一四七ページ目。くうぞくしゅうげきを受けてプルフ山脈に取り残された相棒のベルさんを救出に向かうシーン。わたしってばすごくいいところでちゃってたんだ。

 この本の中ではヒト類以外の人類がいることが当然のように書かれていた。おじいちゃんはどうしてこのことを教えてくれなかったんだろう。牛乳を飲みながら考える。


「それにしても、手紙のベルさんっておじいちゃんの相棒だったんだね」


 けど、どんな人なんだろう。外見に関するびょうしゃがまったくないの。ねんれい性別に至るまで、全然れられてない。

 性格は、クールだけど結構やんちゃ。平気で無茶もする。わたしの予想では、バレンさんみたいなカッコイイ人だと思う。

 ベルさんの通り名は「白のベル」だったらしい。かっこいー! 愛機ワローズをたくみにあやつる冒険家……きっとすっごくクールなおばあちゃんになってるにちがいないよ。

 目を閉じて、まぶたの裏に青色を広げる。そくせきの空にかぶのは、コチちゃんとワローズ。わたしはもちろんコチちゃんの後席に乗っていて、操縦はおじいちゃん。へいれつこうをしながらベルさんと合図を送りあったり、空を飛ぶめずらしい生き物を見かけては指をさしてガラスしに喜びを共有するの。


「でもベルさんがヒト類じゃない可能性もあるのかぁ。ハヤテみたいにフワフワの毛が生えてたりするのかな」


 ベルさんってどんな人なんだろ。続きを読み進めていけば分かるかな? そう思ってまぶたを開けて、空の散歩から本の中の冒険にもどろうとした時、わたしは大事な用事を思い出した。


「アリーさんに配達!!」



 注文されていた食品や日用品をカゴいっぱいにんで、わたしは急いで店を出た。すれちがった人たちには「今日はこれからお仕事かい?」なんて言われちゃった。


「アリーさーん。おそくなってごめんね」


 村のおくにある小さな家の前に立って声をかける。どうぞ、と明るい返事が聞こえてからのれんをくぐって中に入った。


「いつもありがとう」


 声のしたほうを向くと、アリーさんはいつも通り小さな丸メガネをかけて部屋のすみで編み物をしていた。かぎ針をテーブルに置いて「ふんしょ」と立ち上がろうとする。


「無理して立たなくていいよ。いつものたなに入れておくからね」


 そう言ったのにつえをついてよろよろ近づいてくる。

 アリーさんはいつもやさしいおばあちゃん。足が悪くて買い物するのも一苦労だから、何日かおきにわたしが商品を配達しに来る。


「もう、座ってていいのに」

「しんどくても積極的に動かさないとねぇ、ダメなのよぉ。悪い足は放っておくともっと悪くなっちゃうの」


 アリーさんは軽快におしゃべりしながら、持ってきた食品をカゴからキッチンのたなに移していたわたしの横まで来ると、ふっくらしたほっぺたにえくぼを作って目を細めた。