「こっち。この向き。赤いほうの針が矢印から動かないように、真っ直ぐ三百コルトルくらい飛べば、俺の職場に着く」
「…………」
「大人になってもまだ俺のこと覚えてたら会いに来いよ。無理にとは言わないけど」
わたしは思い切り首を横に振った。忘れるわけなんかない!
「ぜっっったいに会いに行く! 六年……ううん、もうすぐ誕生日だから、あと五年。待ってて!」
ハヤテがにっと笑う。くるんとした尻尾が一度左右に揺れた。
「もしどこに向かってるか分からなくなったら、地上に降りてその辺の奴に『ココット村の配送局に行きたい』って聞けば、よほどの世間知らず以外は教えてくれるはずだ。めちゃくちゃ目立つ外観だから」
目立つ外観ってどんなだろ。お城みたいな形とか? そもそも配送局ってどんなところで、どんな人が働いているんだろう。
ハヤテが笑って手を上げる。
「じゃあな。色々ありがとよ」
「ねえ、わたし、すごく楽しかった! またね!」
「ああ」
白い歯を見せて、ハヤテはそのまま軽やかに道を辿る。あっという間に端まで行き、シャッターの縁に手をかけてわたしに軽く手を振った。わたしはあわてて手を振り返す。ハヤテはシャッターの隙間から体をひょいと向こう側に渡すと、すぐに姿が見えなくなった。
わたしはしばらくそこにいた。もし飛行機のトラブルで出発できなくなったりしたら困るでしょ? でも、そんなことは起こらなかった。
そのまま、夢の中にいるような気持ちでぼんやりしてた。空が黒から白、白から琥珀色、琥珀色から薄水色に変わりかけた頃、わたしはやっとシャッターに背中を向けた。
玄関を開けて家に飛び込む。見慣れた灰色の岩の中、ダイニングテーブルに残された二つのティーカップだけがいつもと違う。
夢じゃない。
心臓が大きく飛び跳ねる。右手に握ったコンパス。岩の向こう側を指す黒い矢印。
夢じゃない。
本当に、さっきまでいた。立ってしゃべる、犬みたいな人。わたしが知らない外の世界の人。
知らなかったことをたくさん教えてくれた。だれも教えてくれなかったってことは、知っちゃいけないことだったのかもしれない。でも知っちゃったんだ。だから知らなかったことになんてできないよ。
もっと知りたい。
見てみたい。
固い石の床を蹴って一目散におじいちゃんの部屋へ向かう。ほこりをかぶった本棚の前に立ち、難しそうな本をぽいぽい抜き出しては後ろに積み上げていく。あれも違う、これも違う……本が山になって、もう一つ山ができて、また一つ……四つ目の山を作ろうとしたところで、棚の奥からこっちを向いてぱたりと倒れた本の存在に気づき、わたしは手を止めた。
手を伸ばして本を裏返す。中央には見覚えのある、赤と白のかわいくてかっこいい飛行機の絵。そして上のほうには、
「シア・アリムスの冒険……」
そう書かれていた。
本が倒れてきた段をのぞき込むと、堂々と並んだ四冊の表紙と目が合う。
こんなふうに隠してたなんて。
「おじいちゃん……」
見つかっちまったか、と声が聞こえた気がした。思わず笑みと意地悪な気持ちが込み上げてくる。
「ねえ、どんな秘密が書いてあるの?」
指先で硬い表紙をめくった。
とたんに広がる古い紙のにおいが、わたしを冒険に連れだす。
4
体がいたーい! 目が覚めた瞬間にそう思った。
本を読んでいるうちに床に突っ伏して寝ちゃってたみたい。ミシミシときしむ関節をゆっくり動かしながら起き上がると、薄い毛布が床に落ちた。だれかが心配して様子を見に来て、その時にかけてくれたんだろうな。
「おなかすいたぁ……いま何時?」
時計を見たら、なんともう夕方! 成長期なのにごはんを二食も抜いた上にお店まで休んじゃった。
「バレンさんたちはもう行っちゃったよね」
窓の外を見たら、やっぱり船はいなくなっていた。きのこの積み込みを手伝えなかったから悪いことしちゃったな。
ソファに座って本を開き直す。シア・アリムスの冒険、第二巻一四七ページ目。空賊の襲撃を受けてプルフ山脈に取り残された相棒のベルさんを救出に向かうシーン。わたしってばすごくいいところで寝ちゃってたんだ。
この本の中ではヒト類以外の人類がいることが当然のように書かれていた。おじいちゃんはどうしてこのことを教えてくれなかったんだろう。牛乳を飲みながら考える。
「それにしても、手紙のベルさんっておじいちゃんの相棒だったんだね」
けど、どんな人なんだろう。外見に関する描写がまったくないの。年齢性別に至るまで、全然触れられてない。
性格は、クールだけど結構やんちゃ。平気で無茶もする。わたしの予想では、バレンさんみたいなカッコイイ人だと思う。
ベルさんの通り名は「白のベル」だったらしい。かっこいー! 愛機ワローズを巧みに操る冒険家……きっとすっごくクールなおばあちゃんになってるに違いないよ。
目を閉じて、まぶたの裏に青色を広げる。即席の空に浮かぶのは、コチちゃんとワローズ。わたしはもちろんコチちゃんの後席に乗っていて、操縦はおじいちゃん。並列飛行をしながらベルさんと合図を送りあったり、空を飛ぶ珍しい生き物を見かけては指をさしてガラス越しに喜びを共有するの。
「でもベルさんがヒト類じゃない可能性もあるのかぁ。ハヤテみたいにフワフワの毛が生えてたりするのかな」
ベルさんってどんな人なんだろ。続きを読み進めていけば分かるかな? そう思ってまぶたを開けて、空の散歩から本の中の冒険に戻ろうとした時、わたしは大事な用事を思い出した。
「アリーさんに配達!!」
注文されていた食品や日用品をカゴいっぱいに詰め込んで、わたしは急いで店を出た。すれ違った人たちには「今日はこれからお仕事かい?」なんて言われちゃった。
「アリーさーん。遅くなってごめんね」
村の奥にある小さな家の前に立って声をかける。どうぞ、と明るい返事が聞こえてからのれんをくぐって中に入った。
「いつもありがとう」
声のしたほうを向くと、アリーさんはいつも通り小さな丸メガネをかけて部屋の隅で編み物をしていた。かぎ針をテーブルに置いて「ふんしょ」と立ち上がろうとする。
「無理して立たなくていいよ。いつもの棚に入れておくからね」
そう言ったのに杖をついてよろよろ近づいてくる。
アリーさんはいつも優しいおばあちゃん。足が悪くて買い物するのも一苦労だから、何日かおきにわたしが商品を配達しに来る。
「もう、座ってていいのに」
「しんどくても積極的に動かさないとねぇ、ダメなのよぉ。悪い足は放っておくともっと悪くなっちゃうの」
アリーさんは軽快におしゃべりしながら、持ってきた食品をカゴからキッチンの棚に移していたわたしの横まで来ると、ふっくらしたほっぺたにえくぼを作って目を細めた。