明けの空のカフカ

第1章 空のない空の上で ⑨

 ダウの冷たい鼻先がわたしの手にれて、はっとした。二人の顔を見るのがこわくなって、わたしはくるりと背中を向けて部屋を出る。わきらずに走る。

 お店のドアを開けて中に飛び込む。かぎをかけて、家のドアも同じようにする。

 だれにも会いたくなかった。おじいちゃんのジャケットをかぶってベッドの上でうずくまる。

 ……言い過ぎちゃった。でも、やっぱりなっとくできない。


「大人になるまでって、あと五年もこうしてなきゃいけないの? なんで?」


 ベッドにしたまま口をもごもご動かした。くぐもった声がとんの中にんでいく。

 おなかがきゅるると鳴る。成長期の体には、マフィン二つじゃ少し足りなかったみたい。

 まだ成長期のしょう

 急に背がびて、明日になったら大人になってないかな。




『そっか……』


 コチちゃんの中で、何枚目か分からないちり紙を取って鼻水をかむ。ノルンの声がやさしい。


『何か理由があるのかもしれないけど……それにしたって外の空気さえ吸わせてくれないなんて、ちょっと意地悪すぎるよ』

「ぐすっ……だよね。ひどいよね。自分たちばっかりずるい」


 操縦席でひざかかえる。無線機しに聞こえるノルンのいきから心配してくれているのが伝わってきて、少し心が軽くなった。


『カフカのそばにいられたらいいのにな。そしたらいっしょに遊んだり、を聞いたり、カフカの味方になったりできるのに』

「無線しでもしてくれてるじゃない。しりとりしたり、わたしのを聞いて味方になってくれたり」


 あ、とノルンが間のけた声をあげたから、わたしはくすくす笑っちゃった。照れくさそうないきがマイクをカサカサ鳴らす。


「いつもありがと」

『……うん。こっちこそ』


 はぁっと息をついて今朝のことを思い出す。外に行ってみるかって聞かれた時、やっぱりわたしも付いて行ったらよかった。ハヤテのもちふわな手を借りながらこわれたてっさくえて、細い通路をこわごわ進んで、村の外に広がる空を見るの。わあなんてれい! じゃあね、道中(空中?)気をつけて。小さくなっていく飛行機に手をって、朝日を背にゆうに家へもどる。ずるいおじい二人組に会っても全然平気。「ごきげんよう。わたしだって空くらい見たことあるからうらやましくなんかないのよ」「ええっいつの間に?」「それは秘密。おほほほ」ってお話ししてけんにもならない。


「正解はこれだったかぁ……」

『ふぁぐ、なんの話?』

「こっちの話。ねえなんか食べてる?」

『食べてないよ。みがきしてた』

「ならよかった。夜に食べたら太るからね」


 昨日の自分をたなに上げてそう言うと、返事みたいにシャコシャコ聞こえてきた。

 わたしたちは話すことがなくなると、好き勝手に活動しだす。本を読んだり考えごとをしたり。独り言が聞こえてきたら反応したり、そこからまた会話になったりならなかったり。やってることは一人の時と変わらなくても、そばに友達がいるって思うだけでうれしいし落ち着くんだ。


「ねー、今の空って星出てる?」


 無線機の向こうでギッとイスが鳴った。


『うん。れいに見えるよ』

「いいなー。何個くらい?」

『んー、三百兆個』

「すごーい」


 そんなに星があったらオリジナル星座が作り放題だね。空想の星空には三百兆個の星はえがききれないから。なんでも想像より現実のほうがてきってことねーはいはい。


『うがいひてくう』

「んー」


 投げやりに返事をしててんじょうを見上げた。ランタンの光にぼんやり照らされた岩のてんじょう。その向こうに広がる黒い空と星のつぶ

 想像するだけで体のおくからじわっと何かががる。

 空や外の世界には何度もあこがれたけど、今日の気持ちは今までとはどこかちがった。

 ハヤテに会って、あいまいだったあこがれがくっきりとふち取られた。話で聞くだけだった世界がぐんと近づいてきて、さわれそうなほど確かになって。

 てんじょうに手をばす。胸のどうがトクトクと速まっていく。

 もう昨日までの自分にはもどれないみたい。


「……空、見てみたいな」


 村の外に出てみたい。


「長老の家にしのんでやろうかな。かぎはトンカチでかいして……」

ぶっそうな独り言』


 ノルンがもどってきた。


「ねえノルン、わたし決めた。空を見に行く」


 いっしゅんちんもく。目をぱちくりさせている気配がする。


『いいと思うけど、どうやって?』

「そこなの! やっぱり長老の家のかくし部屋にほうしんにゅうかな」


 いや待って。出口ならもういっしょある。

 なんで思いつかなかったんだろ。せっかくハヤテがさくこわしてくれたのに。別にハヤテがいなくたって通れるじゃない!


「ちょっと行ってくる!」

『早っ。ちょ、カフカ……おーい』


 コチちゃんのつばさからけいこうきのこランプをひったくって、わたしはねるみたいにガレージを出た。すぐ左手を見ると、いつものようにかんのためにうっすら開かれたシャッター。そしてばされたボロボロのさくが、


「……ない」


 びたてっさくれいに片付けられていて、代わりに太いパイプがバッテンの形に組まれ、キケンと大きく書かれた張り紙までしてあった。


「なによもー!」


 変なところで仕事が早いんだから! うらみをこめて非常通路をにらみつけると、不思議なことに昨日よりも広く、わたし一人でも通れそうに見えた。

 とぼとぼとコチちゃんのところへもどって声をかけると、すっかり気のけたノルンの声が返ってきた。もうおねむらしいノルンにおやすみを言って、ぱちっと電源を切る。

 あっという間に一人の世界。計器の光が消えたうす暗い操縦席の中でひざかかえる。

 こうやってコチちゃんの中にいると落ち着く。ノルンみたいにやさしくなぐさめてくれないし、好きな小説に出てくるバーのマスターみたいにいきなジョークで楽しませてはくれないけど、いつでもおいでって思ってくれているような気がする。


「あのねぇコチちゃん。今日ね、コチちゃんがだいかつやくする本を読んだよ。おじいちゃんといっしょに空を飛び回って悪いくうぞくをやっつけたり、ちょうりゅうと競争したり……かっこよかったよ」


 そうじゅうかんに手を当てる。固くひんやりしたかんしょく。そのままぎゅっとにぎっていたら、わたしの手のぬくもりとコチちゃんの冷たさが混じりあって、まるで一つになったみたいだった。

 かっこよくてわいい、おじいちゃんの相棒。赤と白のぴかぴかボディがまぶたの裏の空をう。