ダウの冷たい鼻先がわたしの手に触れて、はっとした。二人の顔を見るのが怖くなって、わたしはくるりと背中を向けて部屋を出る。脇目も振らずに走る。
お店のドアを開けて中に飛び込む。鍵をかけて、家のドアも同じようにする。
だれにも会いたくなかった。おじいちゃんのジャケットをかぶってベッドの上でうずくまる。
……言い過ぎちゃった。でも、やっぱり納得できない。
「大人になるまでって、あと五年もこうしてなきゃいけないの? なんで?」
ベッドに突っ伏したまま口をもごもご動かした。くぐもった声が布団の中に染み込んでいく。
お腹がきゅるると鳴る。成長期の体には、マフィン二つじゃ少し足りなかったみたい。
まだ成長期の証拠。
急に背が伸びて、明日になったら大人になってないかな。
『そっか……』
コチちゃんの中で、何枚目か分からないちり紙を取って鼻水をかむ。ノルンの声が優しい。
『何か理由があるのかもしれないけど……それにしたって外の空気さえ吸わせてくれないなんて、ちょっと意地悪すぎるよ』
「ぐすっ……だよね。ひどいよね。自分たちばっかりずるい」
操縦席で膝を抱える。無線機越しに聞こえるノルンの吐息から心配してくれているのが伝わってきて、少し心が軽くなった。
『カフカのそばにいられたらいいのにな。そしたらいっしょに遊んだり、愚痴を聞いたり、カフカの味方になったりできるのに』
「無線越しでもしてくれてるじゃない。しりとりしたり、わたしの愚痴を聞いて味方になってくれたり」
あ、とノルンが間の抜けた声をあげたから、わたしはくすくす笑っちゃった。照れくさそうな吐息がマイクをカサカサ鳴らす。
「いつもありがと」
『……うん。こっちこそ』
はぁっと息をついて今朝のことを思い出す。外に行ってみるかって聞かれた時、やっぱりわたしも付いて行ったらよかった。ハヤテのもちふわな手を借りながら壊れた鉄柵を乗り越えて、細い通路をこわごわ進んで、村の外に広がる空を見るの。わあなんて綺麗! じゃあね、道中(空中?)気をつけて。小さくなっていく飛行機に手を振って、朝日を背に優雅に家へ戻る。ずるいおじい二人組に会っても全然平気。「ごきげんよう。わたしだって空くらい見たことあるから羨ましくなんかないのよ」「ええっいつの間に?」「それは秘密。おほほほ」ってお話しして喧嘩にもならない。
「正解はこれだったかぁ……」
『ふぁぐ、なんの話?』
「こっちの話。ねえなんか食べてる?」
『食べてないよ。歯磨きしてた』
「ならよかった。夜に食べたら太るからね」
昨日の自分を棚に上げてそう言うと、返事みたいにシャコシャコ聞こえてきた。
わたしたちは話すことがなくなると、好き勝手に活動しだす。本を読んだり考えごとをしたり。独り言が聞こえてきたら反応したり、そこからまた会話になったりならなかったり。やってることは一人の時と変わらなくても、そばに友達がいるって思うだけでうれしいし落ち着くんだ。
「ねー、今の空って星出てる?」
無線機の向こうでギッとイスが鳴った。
『うん。綺麗に見えるよ』
「いいなー。何個くらい?」
『んー、三百兆個』
「すごーい」
そんなに星があったらオリジナル星座が作り放題だね。空想の星空には三百兆個の星は描ききれないから。なんでも想像より現実のほうが素敵ってことねーはいはい。
『うがいひてくう』
「んー」
投げやりに返事をして天井を見上げた。ランタンの光にぼんやり照らされた岩の天井。その向こうに広がる黒い空と星の粒。
想像するだけで体の奥からじわっと何かが湧き上がる。
空や外の世界には何度も憧れたけど、今日の気持ちは今までとはどこか違った。
ハヤテに会って、曖昧だった憧れがくっきりとふち取られた。話で聞くだけだった世界がぐんと近づいてきて、さわれそうなほど確かになって。
天井に手を伸ばす。胸の鼓動がトクトクと速まっていく。
もう昨日までの自分には戻れないみたい。
「……空、見てみたいな」
村の外に出てみたい。
「長老の家に忍び込んでやろうかな。鍵はトンカチで破壊して……」
『物騒な独り言』
ノルンが戻ってきた。
「ねえノルン、わたし決めた。空を見に行く」
一瞬沈黙。目をぱちくりさせている気配がする。
『いいと思うけど、どうやって?』
「そこなの! やっぱり長老の家の隠し部屋に不法侵入かな」
いや待って。出口ならもう一箇所ある。
なんで思いつかなかったんだろ。せっかくハヤテが柵を壊してくれたのに。別にハヤテがいなくたって通れるじゃない!
「ちょっと行ってくる!」
『早っ。ちょ、カフカ……おーい』
コチちゃんの翼から蛍光きのこランプをひったくって、わたしは飛び跳ねるみたいにガレージを出た。すぐ左手を見ると、いつものように換気のためにうっすら開かれたシャッター。そして蹴飛ばされたボロボロの柵が、
「……ない」
錆びた鉄柵は綺麗に片付けられていて、代わりに太いパイプがバッテンの形に組まれ、キケンと大きく書かれた張り紙までしてあった。
「なによもー!」
変なところで仕事が早いんだから! 恨みをこめて非常通路をにらみつけると、不思議なことに昨日よりも広く、わたし一人でも通れそうに見えた。
とぼとぼとコチちゃんのところへ戻って声をかけると、すっかり気の抜けたノルンの声が返ってきた。もうおねむらしいノルンにおやすみを言って、ぱちっと電源を切る。
あっという間に一人の世界。計器の光が消えたうす暗い操縦席の中で膝を抱える。
こうやってコチちゃんの中にいると落ち着く。ノルンみたいに優しくなぐさめてくれないし、好きな小説に出てくるバーのマスターみたいに小粋なジョークで楽しませてはくれないけど、いつでもおいでって思ってくれているような気がする。
「あのねぇコチちゃん。今日ね、コチちゃんが大活躍する本を読んだよ。おじいちゃんといっしょに空を飛び回って悪い空賊をやっつけたり、鳥竜と競争したり……かっこよかったよ」
操縦桿に手を当てる。固くひんやりした感触。そのままぎゅっと握っていたら、わたしの手の温もりとコチちゃんの冷たさが混じりあって、まるで一つになったみたいだった。
かっこよくて可愛い、おじいちゃんの相棒。赤と白のぴかぴかボディがまぶたの裏の空を舞う。