亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~
第二章 彼が本当に欲しかったもの ①
サピン・アエリスは、小さな事務所で立ち尽くしていた。目の前には、中年の男が、サピンに背を向けて椅子に座っている。サピンの父だった。
そこは、父の弁護士事務所だった。サピンが生まれ育った小さな街で、貧しい人々のトラブルを解決する、チンケな事務所だ。事務所にいるのは父と自分だけで、なぜか事務員はいない。異様に散らかっていて、床の至るところに、書類や書籍が散らばっている。
窓から入る光が逆光になって、父の姿は一つの黒い影のように見えた。その手には、酒の入ったグラスが握られている。昼だというのに、働きもせず酒を飲んでいる。
外は晴れていたが、事務所は妙に薄暗かった。よく見ると、窓には大きな汚れがあり、採光を邪魔している。外から、ペンキで落書きをされているらしい。
「またやられてる」
後ろで声がして、サピンは振り返った。声の主は、サピンの母だ。母は悲しげな表情で汚れた窓を見ていたが、やがて、一目見て無理をしているとわかる、硬い笑みを浮かべる。
「掃除しようか」
サピンと母は、モップとバケツを持って外に出た。案の定、事務所の壁や窓の至るところに落書きがされている。
詐欺師。金返せ。貴族の犬。街から出て行け。
サピンは、モップで必死に壁を
後頭部に何かがぶつかって、手を止める。間髪入れず、顔の真横でビンのようなものが壁にぶつかって地面に落ちた。振り返ると、街の人々が周囲を取り囲み、
「お前のせいだ」
「お前のせいだ」
「この街から出て行け」
人々は、口々に罵声を吐きながら、事務所にゴミを投げつけた。サピンは頭を抱える。やめてくれと叫ぶが、投げつけられるゴミが止まる様子はない。
「痛っ!」
母が叫び声をあげてうずくまった。サピンが慌てて駆け寄ると、母の額から血が流れている。投げられたゴミがぶつかったのだ。胸に、激しい怒りが込み上げる。
父さん!
気づくと、サピンは部屋の中で父を
「なんで、街の
外の
「父さん!」
父は振り返った。が、やはり逆光で表情は見えない。
「サピン。世の中に、本当に悪い人なんていないんだよ。世の中の仕組みが
「そんなこと聞いてるんじゃない! 母さんが
母は、サピンの足元で頭を押さえてうずくまっているが、父はそれを見ようともしない。
「心を
「じゃあ今すぐ、あいつらの心を何とかしろよ! あんたはそうやって、いつも口だけで……」
甲高い音とともに、ガラスが割れて石が投げ込まれた。サピンは慌てて、部屋の奥の本棚の陰に隠れる。うずくまって耳を塞ぐが、それでも
「何で、何でこんな目に遭わなきゃいけないんだよ、俺は、俺たちは悪くない、俺たちはただ……!」
絶叫したところで、サピンは目を覚ました。
目に映るのは、見慣れた、狭苦しい自室の天井だ。ベッドの上で身を起こすと、両親の姿も投げつけられる罵声も潮が引くように薄れていき、代わりに現実が姿を現す。
また、いつもの夢を見ただけだ。大量の寝汗で、下着が湿っていた。
「はるばる外国まで来て、まだ見るか」
サピンは吐き捨てるように言った。あるとき、サピンの街の住民と、近隣に領地を持つ貴族との間でトラブルが発生し、訴訟に発展した。元々評判の悪い貴族だったこともあり、ほとんど街を挙げての貴族との戦いのようになったのだが、父はその訴訟で、住民側の弁護を担当したのだった。結果は、住民の、つまり父の敗訴だった。そして、敗北による人々の怒りは、あろうことが弁護士だった父に向いた。父は、助けようとした人々に憎まれ、失意のうちに死んだ。
それから、母とサピンは街を出た。貧しい暮らしだったが、母はサピンが大学に行くことを望んだ。サピンは家計を助けるために働こうとしたが、母はそれを許さず、学費を稼ぐため身を粉にして働いた。結局、サピンは大学に進学したが、それを見届けた後、母は役目を終えたかのように死んだ。
夢で聞いた、父の言葉が頭に響く。
世の中に、本当に悪い人はいない。
それは、生前の父の口癖であった。
「……どこがだよ。悪人ばっかりじゃねえか」
小声で
時計を見ると、出勤時間にはまだ余裕があるが、二度寝は無理そうだ。諦めてベッドから出ると、パンと缶詰のソーセージで朝食を済ませ、着古したスーツに着替える。
少し早いが家を出ようとして、動きを止める。サピンの部屋は、積み上がった本に埋め尽くされていた。言語、法律、政治経済、金融。全て、今の環境から逃げ出すための、血の
地図の下部、陸地の南端は緑に塗られ、緑地が広がっていることを示している。だが、その緑の面積は、北に向かうに従って狭くなり、黒い土地が取って代わっていく。
それは、今、サピンたち人間が住んでいる、いや、住むことを許されている、世界の地図だった。つまり、『統一政府』の支配圏だ。
現在、世界の大地の約七割は、『懲罰地帯』と呼ばれる、黒い砂漠に覆われている。教会の聖典によると、元々は豊かな土地だったが、約千年前、『懲罰の日』と呼ばれる日に、神の怒りによって焼かれてしまったらしい。
もっとも現在は、よほど熱心な教会の信者以外、そんな伝説を信じる者はいなかった。様々な記録を
ともかく今の人類は、『懲罰地帯』の存在を受け入れ、残った僅かな緑の土地で生きていた。地図の南端、最も緑色が多い狭い地域は、『聖域』と呼ばれている。聖典によると、『懲罰の日』で生き残った人類が復興を始めた地域であり、今も教会の聖地として扱われていた。比較的豊かな土地が多い『聖域』周辺は、『教会圏』と呼ばれ、アルトスタも、その『教会圏』に存在する国家である。
『聖域』から離れるに従い、豊かな土地は減り、『懲罰地帯』が増えていく。今サピンが赴任しているフェルザ帝国は、アルトスタの真北に位置していた。帝国から北の地域は、『帝国圏』と呼ばれ、『教会圏』と比べ環境は厳しくなる。
その『帝国圏』のさらに北方、『外縁圏』と呼ばれる地域になると、土地は『懲罰地帯』ばかりでほとんど資源がない。
サピンは、もし帝国とアルトスタの戦争が始まったら。『外縁圏』の国家に逃げるつもりだった。さすがの帝国も、ほとんど
どうせ、天涯孤独の身なのだ。誰のためでもなく、自分のために、一人で逃げる。そのために外交官になり、財産を蓄え、言葉も覚えてきた。計画実行まで、もう少しだ。



