亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第二章 彼が本当に欲しかったもの ②

 サピンは乱暴にかばんつかむと、家を出た。

 家を出ると、最寄りの停留所から、魔石軌道車に乗り込む。

 魔石軌道車は、魔石を動力とする公共交通機関である。道路にせつされたレールの上を、立ち乗りも含め定員五十人程度の車両が走る。元々、市街地の旅客輸送は馬車鉄道が主流だったが、技術の進歩によってその動力は馬から魔石に代わり、速度、定員共に大幅に向上したほか、ふんの問題も解決された。帝国の首都においても、臣民の足として、血管のようにレールが張り巡らされている。

 車両に乗り込むと、座席は全て埋まっていた。近くの手すりにつかまると、ゆっくり車両が動きだす。

 魔石は、地中から出土する資源で、大地に眠る魔力の結晶であると言われている。魔石の中に、古代語で『魔石技術』を記術し、それを詠唱によって呼び出すと、現実に干渉する様々な力を発揮するのだ。

 魔石技術は人間の生活に深く根付いており、様々な局面で利用されていた。今乗っている魔石軌道車も、メイン動力には【うんどう】、車内の空調には【れいきやく】や【ねつ】、夜間照明の【せんこう】など、様々な魔石技術が複合的に使用されている。

 もちろん、そういった平和利用だけでなく、魔石は武器としても利用されていた。というより、魔石技術の進歩は、必ず大きな戦争とセットになっていると言っていい。破壊と創造は双子であり、人は、その片方だけを飼い慣らすことはできないのである。

 車両が大きく揺れ、サピンは手すりにしがみついた。周囲の帝国人たちも同じようにバランスを崩しているが、いつものことなので誰も不満を口にしたりはしない。

 が、アルトスタ人かつ非常に心が狭いサピンはそうではなかった。


(この車両、古いんじゃないのか? アルトスタだったらとっくに新型に替えられてるレベルだぞ。大国の首都のインフラとは思えんな)


 最近の帝国は、軍事費増強のための増税を繰り返し、公共事業も行き届いていなかった。車両だけでなく、道路やレールの状態も悪いようだ。

 この揺れでは、新聞や本を読むのは難しい。サピンは、目の前の座席の客が読んでいる新聞を盗み見た。記事には、帝国の第二皇子が、帝国軍の大佐に昇進したニュースが大きく報じられている。第二皇子は容姿端麗で、民衆から人気だ。第一皇子がいるため帝位継承の可能性は低いが、まだ諦めていないようで、こうやって必死にアピールに取り組んでいるのである。

 こういうニュースが取り上げられるのは実に帝国らしく、新聞の持ち主が迷惑そうにしているのを無視して記事を読み込むが、すぐに自分には関係のないことだと気づく。


(皇帝が死んでどちらかの皇子が継承する頃には、俺は外縁圏で第二の人生だ)


 大きなあくびをすると、また車両が揺れ、危うく舌をみそうになるのだった。

 サピンは、アルトスタ大使館に到着し、庶務班の自席で雑務を済ませると、ある部屋に向かう。職員用の仮眠室である。扉をノックし、中にいる人物に声をかける。


「ラジャ、入るぞ」


 はい、と小さな返事が聞こえ、中に入る。そこにいるのは、長い黒髪に、民族衣装のような奇妙な服を着た少女。ラジャであった。ラジャは仮眠室の小さなデスクで、アルトスタ語のテキストを読んでいた。


「おはよう、ラジャ……また勉強か」

「オハヨウゴザイマス」


 ラジャは一言挨拶すると、また涼しい顔で勉強に戻る。どうも、会話が続かない。

 あの亡命の日から十日がったが、現状、ラジャの処遇は宙ぶらりんのままであった。もちろん、ラジャのことはアルトスタ政府に正式に伝えられ、報道もされている。が、今、帝国の重要人物の亡命を受け入れることで、領土問題への影響を恐れるのは本国も同じだったのと、何より、ラジャの素性がいまだに全くわからないせいだ。

 なぜ古語しかしやべれないのか? 『世界を滅ぼしてしまうかもしれない』というのはどういう意味か? なぜ帝室保安局に狙われているのか?

 質問をしても、ラジャは答えようとしなかった。言葉が通じないわけではないのだが、答えたくないようなのだ。口にできないほどの虐待を帝国にされていた可能性もあり、無理矢理聞き出すのは避けたかったが、だからと言って、素性のわからない者を安易に受け入れるわけにもいかない。

 結局、職員用の仮眠室を住居として与えられ、ラジャは今も大使館で生活している。

 サピンは、ラジャの向かいに座って、その瞳を見つめた。

 サピンは、引き続き彼女の教育係を命じられていた。サピン自身も、一度手を差し伸べた以上、亡命が決まるまで面倒を見るのが筋だとは思っている。

 あの日、ラジャを助けたのは、ただの同情だ。自分が善人だなどと言うつもりはない。外務省で出世する気がないから、上司に逆らうのが怖くなかったというだけである。ミアスのようなまともな官僚ほど、あの場でラジャの味方になるのは難しく、それを責めても仕方がない。

 もっとも、そのせいで逆にエンシュロッスに注目されてしまったのは困ったが、今のところ音沙汰はない。現実的に、外交官としてまともな実績が無いサピンが、急に重要な仕事を任されることなどないのだろう。


「エキ、マデノ、ミチヲ、オシエル、クダサイ……」


 ラジャは、テキストの例文を小声で読んでいる。

 外見は十四、五歳に見えるが、それもはっきりとはわからない。頭はいいようで、みは早かった。もうすぐ簡単な日常会話くらいならできるようになるだろうが、そんなことは問題ではなかった。いくら言葉を覚えたところで、このままでは、ラジャの亡命は決まらない。


「あのさ、ラジャ」


 サピンの言葉に、ラジャはテキストから顔を上げた。


「勉強もいいけど、退屈しないか? ずっと大使館にいて、散歩もできないだろ? 欲しいものとか、やりたいこととか、そろそろ出てこないか?」


 ラジャは返事をせず、不思議そうにサピンの目を見つめるだけだった。


「今ならお客様待遇で、大体の要求は通るんだけどな。もったいないな」


 サピンはいたずらっぽく笑みを浮かべて促すが、やはりラジャにはピンときていなかった。

 仮眠室には、ベッドと、最低限の家具しかない。ベッドの上には、大使館の費用で与えられたラジャの着替えが乱雑に置かれている。あとは、サピンが持ってきたアルトスタ語のテキスト。それが、ラジャの生活の全てだ。

 ラジャには、自分の意志というものがなかった。言語の勉強をしろ、と命じればやるが、自主的に何かを要望することはない。アルトスタに亡命したらどういう生活がしたい、という希望も特にないようだった。それは、ラジャという人間をわかりにくくしており、亡命が決まらない一因になっている。

 サピンはほおづえをついて、淡々と勉強を続けるラジャを眺める。ラジャはきっと、自分の意志や希望というものを、持つことも許されない境遇にいたのだろう。ラジャを取り返しにきた帝国の態度を見れば、まともな扱いをされていないのはわかる。

 それは仕方のないことだったが、この先、このままではやっていけないのも事実だった。


「ラジャ。一旦勉強はめよう」


 サピンが言うと、ラジャはテキストを閉じて顔を上げた。


「俺は、ラジャみたいに、控えめな性格、とてもいいと思う。でも、それだけでは、危ないこともある」


 ラジャは小さく首をかしげる。


「この世界では、食べる物も住む場所も人の力も、全部限りがある。自分の分はちゃんと確保しないと、誰かに取られてしまうからな」