亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第二章 彼が本当に欲しかったもの ③

 そう言いながら、サピンの頭には、死んだ父の姿がよぎっていた。父とラジャが似ている、というのは言い過ぎだろう。だが、誰よりも優しく無欲で、それ故に人々に利用され、使い潰された父の姿は、不思議とラジャに重なる部分があった。今のままアルトスタに行っても、また、同じように誰かに利用されないとも限らない。


「ということで、行くか」


 そう言って、サピンは立ち上がった。ラジャは不思議そうにサピンを見上げる。


「これから俺が、楽しく生きる手本を見せる」


 サピンは、大使館内の資料室にラジャを連れて行った。扉を開くと、古い紙の匂いが鼻を突く。部屋は、すれ違うのも大変な間隔で本棚が並び、それぞれの棚には隙間なく本が詰まっている。


「まず、この資料室。元々、ろくな本がなくて本棚もスカスカの状態だったんだが、俺が働きかけて本の数を倍に増やした」


 資料室は、本来、新聞雑誌などの公開情報から、非公開の書簡などまで、外交関係の文献が保存されている。が、まともに管理されておらず、最新の業界誌や帝国語のテキストなど、仕事に必要な本まで不足している有り様だった。そこでサピンは、総務部長と交渉して予算を倍増させ、さらに帝国の大手書店と独自に契約を交わして書籍を安く仕入れることに成功し、蔵書を大量に増やしたのだった。

 サピンは、資料室の奥まった場所にある本棚にラジャを連れていく。


「そしてこの棚が、サピン・アエリスセレクションコーナーだ! 外交に関係ないけど俺が欲しい本を総務部長をだまして購入した、センスと労力の結集! 歴史的文学作品から最近のベストセラーまでそろえている、が……ラジャは、帝国語が読めないからあまり楽しめないか」


 サピンが苦笑すると、ラジャは本棚より、部屋に出入りする人々を見ていた。資料室には、それなりの人の出入りがあり、たまに誰か入ってきては、本を抱えて出ていく。


「仕事でちょっと資料が必要なとき、皆ここを頼るんだよ。まあ、この部屋の充実ぶりが俺のお陰だってことは、ほとんどのやつは知らないだろうがな」


 そう言うと、ラジャは大きな瞳でサピンを見上げた。興味を持ってくれたのだろうか。


「次は、食堂に行こうか」


 アルトスタ大使館の中には、職員用の食堂が設置されていた。まだ昼時ではないこともあり、人はほとんどおらず、ちゆうぼうから仕込みの音が聞こえてくる。

 二人は、テーブルの一つに向かい合って座る。サピンはラジャにメニューを差し出した。粗末な薄い冊子だが、中には、飾り気のないデザインで、メニューがぎっしり書き連ねてある。


「食堂は前からあったが、典型的なお役所仕事で、メニューは少ないしいしで、ひどいもんでな。それで俺が、シェフの面接からメニューの考案、食材の仕入れまで改革を行った。月に一回の一般開放では、安くアルトスタ料理が食べられると帝国臣民の皆様からも評判だ」


 興味があるのかどうなのか、ラジャは、無言でメニューのページをめくっている。サピンは、自分でもメニューを見てみるが、我ながらさすがの充実ぶりだった。


「外務省辞めたら、飲食店のプロデュースでもするか……」

「あ、サピンさん、何してんすか、こんな時間に」


 後ろから声をかけられ、振り返ると総務部の後輩のスタマが立っていた。スタマはラジャに目を留める。


「あ、その子ですか。例の亡命者って」

「うん。お前は午前中に食堂で何やってんだ? サボりか?」

「違いますよ。朝イチ外出があって、飯まだなんすよ。ちょっと早いけど昼にしようかなって」

「そうか。お疲れ」

「いや、サピンさんのおかげで食堂がくなって、こういうときありがたいですよ。外行かなくていいし」


 そう言って、スタマはカウンターの方に去っていく。サピンはほおづえをついてその背中を見つめた。


「食堂を改良したのは、俺自身がいものを食うためではあるが……他の職員も得をしてるんだし、少しくらい俺の給料も上げてくれてもいいよな。こういう仕事は評価されないからな」


 ラジャは何も言わず、サピンの視線を追う。スタマは、楽しげに何かを注文していた。


「じゃあ、次はどこに行くか……」


 サピンは腕を組んで次の行き先を考えながら、そばの窓を見た。今日は快晴で、明るい日差しが中庭に降り注いでいる。気温も暖かくてちょうどい。


「天気もいいし、屋上でも行くか」


 大使館の屋上の、日当たりのいい一角。

 そこに、二つのデッキチェアを並べ、寝転がって日光浴をする、サピンとラジャの姿があった。二人ともサングラスをして、脱力して背もたれに身を預けている。椅子の間には小さなテーブルがあり、食堂で買ってきたジュースが置かれていた。


「いやー……気持ちいいな」


 サピンのつぶやきに、ラジャは答えなかった。

 椅子もテーブルもサピンの私物で、庶務班として屋上の管理を任された際、勝手に環境を整えたものである。普段は、あまけもかねてほろをかけて隠しているが、晴れた日は、ここで食堂で買った飲み物を飲みながら、資料室に仕入れた本を読むのが、サボりの黄金パターンだ。スタマなど、一部の仲のいい職員にも使うことを許しており、中々好評であった。


「俺が大使館でやってることは、こんなところだ。この通り、人生は、使いこなす意志さえあれば色んな楽しいことができる。この大使館は、もはや俺の別荘みたいなもんだ」


 横目で隣のラジャを盗み見る。小柄な体をデッキチェアに預け、広がった長い黒髪が、太陽を受けて艶々と輝いている。一応、楽しんではくれているのだろうか? 屋上での日光浴はさすがに断られるかと思ったが、意外にもラジャは、ちゃんとサングラスまでかけて付き合ってくれた。もっとも、断る理由がないからついてきただけかもしれないが。

 サピンは大きく伸びをして、今日はこれからどうしようか考えていると、隣から規則的な呼吸の音が聞こえ、少し驚いて振り返る。ラジャが、寝息を立てているのだった。サングラスで顔は見えないが、全身の体重を椅子に預け、リラックスしているのはわかる。


「寝ちゃったか」


 サピンは思わずほほんだ。きっと、今日まで緊張の連続だったのだろう。傷だらけになりながら帝国の手を逃れ、大使館に来てからも、いつ追い出されるかわからない。そんな彼女の心を少しでもほぐすことができたなら、今の自分の行動にも、少しは意味があったと思う。

 サピンは、ラジャに昼寝用のタオルケットをかけ、けのパラソルを持ってきて立ててやる。すると、少し物音が立ってしまい、ラジャが勢いよく身を起こした。


「あ、ごめん、起こしたか」

(……今何時?)


 ラジャはサピンの方を見ずに、古語でつぶやいた。サングラスがズレて、隙間から寝ぼけ眼がのぞいている。


(仕事、行かなきゃ)


 サピンは少し驚いた。ラジャは、何か仕事をしていたらしい。半分の夢の中で、寝坊を気にしているようだ。サピンは、最近ラジャとの意思疎通のために勉強している古語の語彙を、頑張って頭から引っ張り出した。


(えーと……ラジャ、今日、仕事、ない)


 何とかそれだけ伝えると、ラジャはサングラスを外し、目をこすりながらサピンを振り返る。


(あれ……今日、お休みなの?)

(はい、今日、休み)

(そっか……よかった)


 そう言って、ラジャはまた横になり、すぐに寝息を立て始めた。


「……寝つき、いいんだな」


 サピンは自分のデッキチェアに腰掛けると、ラジャにタオルケットをかけ直す。その寝顔は安らかで、年相応の少女にしか見えず、亡命や迫害といった背景は想像できなかった。