亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第二章 彼が本当に欲しかったもの ④

 ラジャの仕事とは、何なのだろうか。ラジャがここにいる経緯を考えれば、自分の意思でやっていたことではあるまい。

 次、ラジャが何かをするときは、それは、彼女自身が選択したことであって欲しい。サピンは、少女の寝息を聞きながら、そんなことを願ったのだった。

 それからラジャは中々起きず、放っておくと夜まで寝ていそうな勢いであった。お昼時に無理やり起こし、遅めの昼食を食べて、二人は総務部のサピンの席で過ごしていた。

 コンコンとパーテーションをたたく音がして、サピンは振り返る。


「こんにちは、サピンさん、ラジャちゃん……何やってるんですか? 二人して」


 立っていたのは、政治部のミアス・レゲールだった。ミアスは疑わしげに眉をひそめる。

 狭いパーテーションの中に、ラジャ用の小さな机を持ってきて、ラジャは封筒に一生懸命何かを書いている。


「いや、やることないから、俺の用事手伝ってもらっててさ」

「用事?」

「うん。アルトスタの証券会社に送る、株の注文書の宛先を書く作業をな」

「そうなんですか。確かに、アルトスタ語の練習にはなりますね……」


 ミアスはそう言って納得しかけたが、すぐに鬼の形相でサピンに詰め寄る。


「いやダメでしょ! 聞いたことありませんよ、亡命希望者に自分の投資を手伝わせる大使館職員なんて!」

「細かいこと言うなよ。アルトスタ語の練習になるって、あんた自身も言っただろ?」

「そういう問題じゃないでしょ! というか仕事中に自分の株取引をしないでください!」

「まあまあ。ちゃんと報酬だって払うし。な、ラジャ」


 サピンに言われ、ラジャはポケットからクシャクシャになった紙を取り出した。ミアスはそれを受け取って目を通す。


「え? ああ、契約書ですか。この件の報酬は、ラジャちゃんに支払うことになってるんですね。いや、だったらいいってことにはならないですけど、何かもういいです」


 もう言っても無駄だと思ったのか、ミアスは契約書をれいにたたみ直してラジャに返す。


「こういう大事な紙は、もっと大切に保管しようね……」

「ところで、ミアスさん。何か用があって来たんじゃないのか?」

「あ、はい、そうです。サピンさん、また大使からの呼び出しです」

「うわ……」


 サピンはあからさまに嫌そうな顔をしたが、ミアスは相手にしなかった。


「これから、ルジュエル地方の領土問題についての会議があります。サピンさんも出席しろと、大使がおおせです」



 ルジュエル地方。

 アルトスタ王国北東部、フェルザ帝国との国境付近の一帯の名称である。その土壌から豊富な魔石資源が出土するため、歴史的に、その領有権を巡って列強が争い続けてきた地域だ。

 五十年前までは帝国が支配し、帝国の敗戦後は一時的に統一政府の管理地となったが、その後正式に、アルトスタの領土となり今に至る。

 今でこそアルトスタに帰属しているが、その複雑な歴史的経緯ゆえ、どこの国のものなのかというと意見が分かれる場所だ。アルトスタも、ルジュエルの古い住民から見れば帝国と同じ侵略者であり、アルトスタからの独立を主張する過激派組織も存在しているという。

 帝国が、そんなルジュエル地方の返還をアルトスタに迫るようになったのは、五年前のことだった。発端は、帝国政府の最高責任者、ツフロ宰相である。彼は、宰相就任時、皇帝に対し『五箇条の誓約』という誓い、言わば公約を打ち出したのだが、ルジュエル奪還が、その誓いの中に入っていたのである。ツフロは辣腕で、『五箇条の誓約』のうち四つは既に達成しており、ルジュエル奪還は最後の一つで、五年前、ついに本腰を入れ始めたというわけだ。

 交渉は現在も継続中で、この問題の解決は、在帝国大使であるエンシュロッスの大きな仕事であった。

 そのルジュエル領土交渉に関する会議が、アルトスタ大使館の大会議室で行われようとしていた。

 開始までまだ時間があるので、部屋の中央の大きなテーブルには、まだ誰も着席していない。が、かべぎわに並んだ椅子には、既に若手官僚が着席していた。彼らの仕事は、テーブルに着席する上司に必要に応じて助言をすることで、皆緊張の面持ちで開始を待っている。

 サピンもその椅子の一つに座っているのだが、他の若手と違い、態度は緩みきっていた。だらしなく背もたれにもたれ、不遜に脚を組んでいる。隣に座ったミアスはさすがに怒った。


「もうちょっとしゃんとできないんですか? 背筋を伸ばしてください」


 ミアスの隣に着席するクルンバンも舌打ちする。


「やる気がないなら帰れ。大使が何を考えてるかは知らんが、お前なんか必要ないんだからな」


 サピンは小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。


「俺も帰れるなら帰りたいけど、懲戒になったら退職金もらえないからさ。大変なんだぞ? 好かれず期待もされず、かといってクビにならないようにするのは」

「……お前というやつは!」


 クルンバンが思わず叫びそうになった瞬間、会議室のドアが開いた。幹部たちが入ってきて、若手は起立して迎え入れる。サピンも、ミアスににらまれて仕方なく立ち上がった。

 中央のテーブルに、エンシュロッス大使をはじめとして、政治部、経済部の幹部たちが並んで着席し、会議が始まった。

 司会を務める政治部の職員が口火を切った。


「では、ルジュエル地方の領土交渉についての定例会を始めます。現状、帝国の要求は変わっておらず、ルジュエル地方の無条件の割譲を主張しています。先月こちらから提案した、ルジュエル地方を南北に分割し、北部を帝国、南部をアルトスタで領有する分割案は、前回の予備交渉で正式に却下されました。帝国は、今年中に決着がつかない場合武力行使も辞さないとする、事実上のさいつうちようを……」


 サピンは、姿勢こそ不真面目だが、話には真剣に耳を傾けていた。ルジュエル領土問題は、アルトスタと帝国の開戦の火種になりうる問題だ。ごとではない。

 アルトスタが提案した、『ルジュエル地方分割案』のことは、一応知っていた。エンシュロッス肝煎りの提案で、ルジュエル地方を南北で二つに分け、アルトスタと帝国で分け合おうというアイデアだ。これには、魔石資源の多い北部を帝国に譲るという意図があり、かなり帝国に譲歩した内容だったが、帝国はお気に召さないらしい。

 サピンは脚を組んでほおづえをついた。見かねたミアスがせきばらいするが、無視する。


(本質的じゃないな。名誉臣民どもの意見に押されたか?)


 サピンの考える、ルジュエル領有問題の本質。それは、ルジュエル地方を帝国に与えることで、彼らに、本格的なアルトスタ侵攻のきようとうを与えてしまうことにあった。ルジュエル地方の北、現在の帝国との国境線には山脈があり、アルトスタの天然の城壁として機能している。だが、ルジュエルを与えてしまったら? 帝国との国境は完全に平地となり、軍隊が素通しだ。

 だからこの問題は、ルジュエル地方を二つに分けてお茶を濁せばいいというものではなかった。ルジュエル北部を与えてしまう時点で、アルトスタは大きな不安要素を抱え込むことになるのである。

 大使も、それがわからないわけではないだろうが、政府内には、親帝国の議員や官僚も存在する。帝国に何らかの利権を持っていたり、文化や思想に共感を覚えたりしている者たちで、彼らは、を込めて『名誉臣民』と呼ばれていた。そういう者たちの意見も取り入れていくと、このような案になってしまうのだろう。


(皆の顔を立てた結果がこれか。人のいい、エンシュロッスらしいよ)


 司会の概説が終わると、エンシュロッス大使が口を開いた。