亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第二章 彼が本当に欲しかったもの ⑤

「説明の通り、ルジュエル問題の交渉は厳しい段階にある。だが、諦めるのはまだ早い。帝国とて一枚岩ではない。帝国人にも、ルジュエル問題の強引なやり方に反感を持っている者は多いからだ。だから我々は、帝国の世論を味方につける努力をすべきだと考えている」


 大使がそう言うと、部屋の隅に控えた事務官たちが、何かの資料を出席者に配布した。資料は、壁側に座る若手たちにも配られ、サピンの元にも回ってくる。

 資料には、帝国人の人名と肩書が列挙され、それに対応して、担当者として大使館外交官の名前が記載されている。列記された帝国人は、皆、立派な肩書を持つ名士ばかりだ。


「この資料に書かれているのは、政界、財界、貴族界など、帝国における各界の有力者たちだ。彼らは、政治的、経済的、様々な理由で、ルジュエル問題に、中立的な立場を取っている人々である。我々は、彼らを説得して『分割案』の賛同を得て、その声を、署名として帝国に提出する。帝国の強硬な姿勢を、外圧ではなく、内圧によって崩すのだ」


 会議室がどよめいた。


「確かに、帝国にも平和主義者はいるからな」「このリストにある人間全て、いや半分でも味方に引き込めれば……」「帝国政府は財政難だから、財界からの猛反発を受ければ、耳を傾けないわけにはいかなくなるはずです」「希望が出てきたな」


 多くの者が、熱っぽい口調で大使の案について語り合っている。


「資料に挙げた重要人物に対して、関係性を踏まえ、それぞれ担当の職員も記載してある。各人、速やかに説得に動いて欲しい。この方針は、外務大臣の承認済みである。質問があれば受け付ける!」


 それから、リストの内容に対して質疑応答が始まった。皆、熱心に、自分がすべきことや進め方について質問をぶつけている。クルンバンも何か重要な役割を与えられたらしく、よし、やるぞ! と興奮してリストを見つめていた。


「……帝国が、そんな素直に下々の言うことを聞くかね」


 サピンは、周りほどこの作戦に熱狂できず、顔をゆがめてリストを眺める。

 とりあえず、大使のやろうとしていることはわかった。が、それより気になるのは、自分の役割が何なのかだ。説得に必要な資料の用意でもするのだろうか。


「!」


 サピンは資料に書かれたある名前に全身を硬直させた。最初は、見間違いかと思った。が、何度読み直しても、そのづらは変わらない。


『対象:社団法人 帝国医師会会長 スキルパ・ヘーメル

 担当:政治部二課 ミアス・レゲール八等官

    総務部庶務班 サピン・アエリス八等官』


 自分の名前だ。自分の名前が、重要人物説得の担当者として書かれているのだ。

 スキルパ・ヘーメル。それが誰なのかは知らないが、帝国医師会会長という肩書からして有力者であるに違いない。そんな人物の説得を、自分がやるのか? 庶務班の自分が?


「冗談じゃないよ……こんな采配、聞いたことがない」


 サピンがうつろな目でつぶやくと、ミアスがすました顔で言った。


「アエリス八等官、同じへーメルさんの担当になったみたいですね。よろしくお願いします」


 会議を終えたサピンとミアスは、ラジャと共に、大使館の職員用の食堂で休憩を取っていた。


「スキルパ・ヘーメルさんは、帝国医学界の重鎮で、老齢の皇帝の主治医チームの主任を務めておられる方です。この方を、我々の『分割案』に引き入れることができたら、当然、帝国内へのインパクトはかなり大きなものとなります……聞いてますか?」


 ミアスは、サピンの様子を見て眉をひそめる。サピンは注文したコーヒーを飲みもせず、沈んだ顔で座っていた。ラジャは、その隣で静かにお茶を飲んでいる。


「不服なのかもしれませんが、いつまでいじけているんですか!」


 一喝すると、サピンは浮かない顔のまま、手元の資料を掲げた。


「いやあ……そりゃ、やれって言われた以上はやるけどさ。こんな人を、本当に説得できると思ってるのか?」

「それは……」

「帝国医師会会長、スキルパ・ヘーメル七十四歳……今回の説得対象リストの中でも、トップクラスに難しい相手だ。何せこの人、他でもない、ルジュエル地方の出身者なんだろ?」


 サピンは指先で資料をはじいた。

 ヘーメル氏は、ルジュエル地方で生まれ育った人物だった。幼少期をルジュエル地方で過ごしたが、帝国の敗戦でルジュエルがアルトスタに占領されたのを機に、帝国に移住したのだ。

 帝国には、そういうルジュエル出身者や、その子孫が多く住んでいた。特に、ヘーメルのような戦前生まれは、故郷をアルトスタに奪われたという反感を持っていることが多い。


「そんな人に、『ルジュエル地方をアルトスタと帝国で分け合いましょう』って言って、賛同してくれるわけがないだろ。むしろ、帝国が故郷を取り戻してくれればうれしいだろうさ。大体、この人の担当が俺とあんたの二人だけってのが、全く期待されてない証拠だろう」


 ミアスはサピンの言葉にカチンときた様子だが、すぐには反論しなかった。図星だからだ。スキルパ・ヘーメルは、今回のリストの中でも、かなり説得が難しい人物であった。ミアスはティーカップを音を立ててソーサーに置いた。


「しかしヘーメルさんは、高等教育を受けた、ちゃんとした良識の持ち主です。武力を背景にしたどうかつを認めたりはしませんし、世界の秩序のためという大義があれば、分割案だって受け入れてくれるはずです。戦争を支持する、好戦的な他の帝国人とは違います」


 サピンはかすかに顔をしかめる。ミアスの言葉には、帝国の大衆に対する無意識の偏見がのぞいていた。外務省のエリートにはミアスのような考えの人間が多く、そういう視野の狭さが交渉の選択肢を狭めている気がするが、言っても仕方のないことだった。


「……確かに俺は、ヘーメルさんの人となりは知らないから、そのあたりのことはわからんが。というか、あんたは彼と面識があるのか? もし俺が大使に目をつけられなかったら、ヘーメルの担当はあんた一人だったみたいだし」

「はい。以前、五カ国合同の医学シンポジウムが帝国で開催されたことがあって、そのアルトスタ担当が私だったんです。私にとっては、帝国に赴任して最初の仕事だったんですが、ヘーメルさんにはとても良くしていただきました」


 そう言って、ミアスは悲しげに目を伏せた。サピンは何も言えなくなる。そのような相手と対立しなければならない、ミアスのつらさが想像できたからだ。外交官も人間である。国益のために働くのが仕事だとわかっていても、相手国の人間に情が移ってしまうのはよくあることだ。

 ふと気づくと、ラジャがじっとミアスを見ていた。


「ラジャちゃん、どうしたの?」


 ミアスは尋ねるが、ラジャは答えない。サピンは皮肉っぽく顔をゆがめた。


「同情されてるんじゃないか?」

「まさか……私たちの話、わかるんですか?」

「すごい速さでアルトスタ語を習得してるよ。この会話も、重大な情報ろうえいだ」

「そんなすぐに、他国の言葉の政治の話についていけると思えませんが……」


 ミアスは戸惑うが、ラジャはやはり何も語ろうとはしない。サピンが言ったことは冗談ではなかった。ラジャは、どうやらかなり頭がいい。しやべることはともかく、理解はかなりの程度できているはずだ。もっともサピンは、この交渉自体にやる気がないので、ラジャに聞かれようが理解されようが気にするつもりもなかったが。

 サピンは、もう一度ヘーメルの資料に目を落とす。そこには、彼の経歴が書かれていた。