亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第二章 彼が本当に欲しかったもの ⑥

「しかし、すごい人だな。青年時代にルジュエルから帝国に移住。ほぼ全ての財産を失った状態から、すさまじい努力で帝国医師会の頂点に上り詰めたのか。しかも、ルジュエル出身者団体の会長も務めてるじゃねーか」


 サピンの驚きに、ミアスもこめかみを押さえる。


「そうなんです……正直、サピンさんの言うことも一理あるんです。ヘーメルさんは、ルジュエル出身者の中では一番の出世頭で、しかも故郷への思い入れが強くて。ルジュエル出身者は貧しい人が多いので、経済的支援を行ったりもしています。きっと、ルジュエルが帝国に戻ってくることは彼にとって悲願で、アルトスタの分割案には、賛同する理由がない……」

「そんな相手の担当を俺にやらせるか。勝負を捨てるにしても、露骨すぎるな」


 サピンは自嘲するような笑みを浮かべる。自分が、ヘーメルの担当にされたのは大使の意向だろう。力試しでもしているつもりだろうか。が、これは考えようによっては好都合だった。


(ここで何の結果も出せずに終われば、変に期待されることもなくなるか)

「さっそく手詰まりになっているようだな、アエリス」


 振り返ると、クルンバンが立っていた。勝ち誇った笑みでサピンを見下ろしている。


「ああ、俺にはもうどうすればいいかわからん。優秀なお前なら何かいい知恵を思いついてるんじゃないか? 教えてくれよ、クルンバン」


 サピンが顔をゆがめて笑うと、クルンバンは一瞬の戸惑いののち、すぐに目をらした。


「そんなもの、自分で考えろ! それより大丈夫か、ミアス? こいつに足を引っ張られてないか?」


 クルンバンは妙に優しい表情になってミアスに向き直る。ミアスは、いかにも社交辞令的な、取ってつけたような笑顔で答えた。


「はい、今のところは」

「何かあったらすぐに僕に言えよ。僕も自分の担当があるから全面的に助けることはできないが、できるだけ協力はする」

「ありがとうございます、先輩」


 サピンはほおづえをついて二人の会話を眺める。クルンバンはどうやらミアスにれているようだが、ミアスのようなプライドの高い人間相手には、過度に気に掛けるのは逆効果ではないだろうか。心配と過小評価は表裏一体である。


「相手の需要も読めずに、外交交渉もないだろうに」

「ん? 何か言ったか?」

「いや、何も」

「ともかく、ミアスの邪魔だけはするなよ! 我々外交官は、国家の利害を調整し、アルトスタを守る使命を負っているんだ。帝国との戦争を防げるかどうかは、我々にかかっていることを忘れるな!」


 クルンバンは一方的に言い捨てると、食堂から去っていく。


「何しに来たんだあいつは」


 サピンはあきれてつぶやくが、そのとき、ラジャの様子がおかしいことに気づいた。ラジャは目を見開いて、小さな声で何かつぶやいている。


「センソウ……センソウ……」

「ラジャ?」


 例によって表情はほとんど変わっておらず、ミアスは気づいていないらしい。だがサピンは、ラジャの考えていることがわかる気がした。ラジャは、おびえている。かすかにこわった視線は、数日前、帝国の人間が大使館に押しかけてきたときのそれと似ていた。

 夜がけ、大使館にはもうほとんど人は残っていなかったが、総務部庶務班のデスクには、まだランプの光がともっていた。席では、サピンが事務処理の文書と向き合っている。残業だ。

 ラジャの教育に時間を割きすぎたせいで、本業の庶務班の仕事が終わらないのである。これに、今後はスキルパ・ヘーメルとの交渉も加わるわけだが、これ以上残業を増やしてまで力を入れるつもりはなかった。

 ようやく仕事に区切りがついて、大きく伸びをする。部屋は自分の席以外真っ暗で、もう誰も残っていなかった。そろそろ行かないと、最終の魔石軌道車が出てしまう。

 執務室を出て、階段を下りていく。二階に差し掛かって立ち止まり、誰もいない廊下を見る。この廊下の奥に、ラジャの仮眠室があった。

 今日、食堂で話していたときの、おびえた表情が気がかりだった。普段表情を変えないラジャが、あのように感情を出すのは珍しい。

 もう寝ているかもしれなかったが、サピンは暗い廊下を進んで仮眠室に向かい、ラジャの部屋のドアをノックした。


「ラジャ。起きてるか?」


 声をかけてみたが、返事はない。さすがにもう寝ているかと思い、きびすを返したそのとき、ドアが開いた。


「……ラジャ? どうして……!」


 サピンは、現れたラジャを見て息をむ。

 ラジャの表情には、相変わらず何の感情も表れていない。だがその頰には、涙の跡があった。ラジャは、泣いていたのだ。

 ラジャは、無言で部屋の中に戻り、ベッドに座る。サピンも部屋の中に入りドアを閉めたが、それ以上奥に進むことはできなかった。ラジャがこんな風に感情を表すとは、想像もしていなかったのだ。

 部屋に、沈黙が流れる。二人ともその場を動かず、ランプの炎だけが、小刻みに揺れていた。


「……コウショウ、ウマク、イク?」


 ラジャの声が、部屋の空気をかすかに揺らした。何も語らない大きな瞳が、サピンを見つめる。


「コウショウ、ウマク、イク?」


 ラジャは、サピンたちが帝国との外交交渉に臨んでいることは理解しているようだった。サピンは言葉に詰まり、視線をうつむけた。


「……正直言って、難しいと思う」

「センソウ、ナル?」

「たぶん」


 ラジャは無言でサピンから視線を外し、うつむいた。そして、小さな声でつぶやく。


(私たちのせいだ)


 そのつぶやきは、アルトスタ語ではなく、古語だった。


(このままじゃ、また世界が滅びてしまう……)


 世界が滅びる。ラジャが、亡命してきた日にも口にした言葉だ。それはきっと、サピンに聞かせようとも、まして返事がほしいとも思っていない、聞き取るべきではなかった、ラジャの心の声だ。サピンは古語を勉強し直していた自分を恨み、何も言えず視線をらす。

 机の上に、資料室から持ってきたのであろう、歴史のテキストが置かれていた。それは初級の歴史テキストで、世界が『懲罰地帯』に覆われてから今日までの出来事が解説されている。それはすなわち、人間が、残された大地を取り合った、戦争の記録と言ってよかった。

 ラジャは、戦争を恐れている。いや、戦争そのものというより、戦争によって、世界がいつか滅んでしまうことを。普通に考えれば、ラジャのような少女のせいで世界が滅びることなどありえないし、その恐怖がどこから来るのかはわからない。だが、いつか世界が滅びる、ということへの漠然とした恐れは、サピンにもわかる気がした。

 確かにここ五十年、世界に大きな戦争は起こらなかった。だが、短い平穏はもう終わろうとしている。時代が変わっても、人の根本が変わらなければ、人は同じように争いを繰り返し続けるだろう。本当に、取り返しがつかない場所に至ってしまうまで。


「……戦争には、ならないよ。俺がさせない」


 ラジャははじかれたように振り返った。大きく目を見開いてサピンを見る。


「確かに、人はみんな勝手だし、それで争いになることもある。でも、それなりに、くやれるもんだ」


 サピンは、自分の言葉に自分で驚いていた。人が、くやれる? まるで、考えていることと真逆だ。そんなことはできないから、いつか争いにまれてしまうと思うから、外交官の責務を捨て、国外逃亡の準備までしているというのに。

 それでも、頭ではない別の何かに動かされるように、言葉は止まらなかった。


「交渉は成功させる。だから、もうおやすみ」