亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第二章 彼が本当に欲しかったもの ⑦

 サピンは微笑を浮かべて言うと、ラジャの返事を待たずに仮眠室を出た。

 そのまま大使館の三階に戻る。向かったのは、資料室だ。資料室に入ると、サピンは棚の間を急ぎ足で進み、目当てのものを見つけて立ち止まった。


「あった」


 手に取ったのは、『ルジュエル出身者互助協会』が定期発行している会誌だった。ルジュエル出身者互助協会は、サピンの交渉相手、スキルパ・ヘーメル医師が会長を務める組織である。サピンは、会誌のバックナンバーを持てるだけ抱え、閲覧席に座って読み始める。

 正直、ヘーメルの説得方法は全く思いついていなかった。だが、不可能ではないはずだ。きっと、どこかに糸口はある。まだ戦争は始まっていないのだから。

 世の中に、本当に悪い人なんていないんだよ。

 ふいに、死んだ父の口癖が頭をよぎったが、サピンは小さく笑って打ち消した。今更、そんな甘い理想を信じる気はない。

 それからサピンは、資料室に籠もって、存在するのかどうかもわからない手がかりを探し続けた。誰もいない大使館に、一箇所だけ、こうこうと明かりがともつづける。

 その光は、けを過ぎ、空が白み始めても、消えることはなかった。



 フェルザ帝国の首都、テラージェ。世界屈指の大都市で、街並みは皇帝の力を誇示するかのように整備され、巨大な建造物や神経質なまでに整備された通りが、訪れた者を圧倒する。

 が、それはあくまで首都だけの話であった。帝国の土地利用には、ある制限がある。

『懲罰地帯』。現在、世界の七割を覆っていると言われる、黒い砂漠の存在である。

 帝国の国土は、『懲罰地帯』の割合が多く、まとまった面積を確保するのが難しい。故に、町や村は砂漠に点々と造られ、それらを線路でつなぎ、魔石軌道車が行き来する構造となっている。

 首都テラージェから出発した一本の魔石軌道車が、『懲罰地帯』の中を疾走していた。客席の一つには、ミアス・レゲールが硬い面持ちで座っている。ミアスは、昨日からずっと緊張しており、とても列車の旅を楽しむ気にはならなかった。一方、向かいの席ではサピンが寝息を立てており、よくもまあこの状況で眠れるものだとあきれる。

 会議の日から二週間がった。今日はいよいよ、ミアスの説得対象、スキルパ・ヘーメル医師との交渉の日なのだ。二人は今、ヘーメル氏の邸宅に向かっていた。

 ヘーメル氏の家は、首都テラージェから少し離れた、農業地帯にある。早朝に首都を出れば、魔石軌道車で昼前には着く程度の距離である。

 列車に乗ってからというもの、ミアスは頭の中で今日話す内容を反復していたが、さすがに少し頭が痛くなってきた。一息つくことにして、窓の外を見る。

 空は晴れ、穏やかな日差しが、黒い砂地に降り注いでいた。黒い砂の上には、同じように真っ黒な岩が無数に生えていて、あるものは水しぶきが凝固したような、あるものは燃え盛る炎のような独特の形で、その存在を主張している。

 首都テラージェを出てしばらくは草原だったが、すぐに『懲罰地帯』に突入した。アルトスタは、『聖域』に近いエリアにあるため、帝国に比べて『懲罰地帯』は少ない。首都のすぐ隣が砂漠というのは、アルトスタ人には新鮮だった。

 これがもっと北方、『外縁圏』の国家になると、まともな土地の方が少ないと聞く。同じ統一政府の統治圏の中ではあるが、ミアスには想像しにくい光景だった。

 車内に鐘が鳴った。車内が少しざわつき、乗客たちは窓を閉め始める。砂嵐の合図だ。

 窓の外には、予告通り、巨大な砂の柱が立ち上っていた。柱はまたたに魔石軌道車をみ、外の景色が見えなくなる。嵐といってもそれだけで、列車が揺れるようなことはなかった。

 ミアスは、周囲の乗客が、手を合わせて頭を下げていることに気づく。教会の祈りのポーズだ。全員ではないが、乗客の大半が静かに祈りをささげており、ミアスはその光景に少し驚く。


「そんなに珍しいか?」


 声をかけられ振り返ると、サピンが目を覚ましていた。


「いえ……聖典の中では、『懲罰地帯』はただの砂漠ではなく、神の罰で焼かれてできたことになっていて、砂嵐は神の怒りの表現だから、通り過ぎるまで祈りをささげる。知識としては知っていましたが、こういう光景を見るのは初めてで」


 ミアスは、砂で何も見えない窓に視線を移した。


「教会の教義って、単に、たまたま豊かな土地を確保した人間が、その正当性を主張するために作った理論でしょう。だから、自分たちの住む場所を『聖域』、砂漠を『懲罰地帯』なんて呼んで、『聖域』に住む自分たちを、一段上の存在だと見せようとした。支配者のまんです。そういうもうまいな信仰からは、早く脱却すべきですよ」


 サピンは、冷めた目でミアスの横顔を見ていたが、やがて小さな声で言った。


「俺の故郷は、『懲罰地帯』のすぐ近くでな。砂嵐のときは、毎回みんなで祈ってたよ。嵐が長引くと街の掃除に何日もかかるし、作物も枯れるし、死活問題だ。庶民は、こういうのをおろそかにすると生きていけない」


 ミアスは、返す言葉が出てこなかった。ミアスのレゲール家は、元々アルトスタの古い貴族で、『聖域』に近い、緑豊かな場所に領地を持っている。そこで育ったミアスには、砂嵐の終わりを祈る気持ちなど、知りようがなかった。


「まあ、あんたの言う、教会は支配者のまん、ってのは同意するけどな。あんまり庶民の信仰を馬鹿にしたもんじゃないぜ」


 そう言うと、サピンはまた目を閉じて寝入ってしまう。

 ミアスは、その寝顔をしばらく見つめてから、ため息をついた。サピンは、表立ってミアスを批判してきたことはない。だが、サピンと一緒にいると、自分のずるい部分や醜い部分を指摘されるような気がして、少し怖い。

 サピンが、実はこの交渉にやる気を出しているのは知っていた。遅くまで残って準備に打ち込み、時々、何やらエンシュロッス大使にじかだんぱんにも行っていたようだ。だがサピンは、どんな交渉を計画しているのか、ミアスには一切共有しようとしなかった。

 サピンは、自分に一線を引いている。それはわかっていたが、出会った当初、あれだけサピンの考えを否定してしまったのだから、距離を置かれるのは無理もないことではあった。

 ミアスはミアスで交渉の準備を進めてはいるが、自信は全くない。サピンとの連携も取れず、こんなことで、スキルパ・ヘーメルを説得などできるのだろうか?

 ヘーメル氏の家は、田園地帯にたたずれいな邸宅だった。豪邸ではないが、庭も建物もセンスよくまとまっている。ミアスは門を抜けると、広い庭を横切り、扉のノッカーを鳴らした。

 扉が開き、ミアスたちより少しとしうえくらいの女性が顔を出す。


「こんにちは! いらっしゃい、ミアスさん!」

「こんにちは! お久しぶりです、マルテさん」


 サピンはミアスの後ろで、二人が友人のように言葉を交わすのを不思議そうに眺めている。


「サピンさん、こちらは、ヘーメル氏の御息女のマルテ・ヘーメルさんです」

「……どうも。アルトスタ大使館のサピン・アエリスです」


 サピンは陰気な声で言うと、背中を曲げてしやくした。相変わらず服はよれよれの安物で、髪はだらしなく伸び、ちゃんと散髪していないのがわかる。ミアスは改めて、こんなやつを大切なヘーメル家に連れてきたことが恥ずかしくなった。

 マルテは一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに朗らかな笑顔で頭を下げる。


「はじめまして、アエリスさん。娘と言っても、血はつながっていないんですけどね」

「そうなんですか」