亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第二章 彼が本当に欲しかったもの ⑨

 本当に、サピンに好きに話をさせるのは危険すぎる。今回はヘーメルの人柄によって事なきを得たが、普通の相手だったら出禁レベルの大失言だ。


(まさか、わざとじゃないだろうな)


 胸に一抹の疑念がよぎる。サピンは、外務省を退職したがっているのだ。あえて失態を犯して評価を下げる、というのもあり得ない話ではない。正直ものすごく不安であったが、そこまで自分勝手な人間ではないと信じたかった。

 ケーキを食べ終え、食器を片付けると、三人は改めて向かい合った。テーブルの一方にミアスとサピンが、向かいにヘーメルが座る。ケーキが片付けられたテーブルは、妙に広く感じられた。静かに目を伏せたヘーメルの顔は、急に別人のように見えてくる。

 ミアスは、背筋を伸ばして切り出す。


「では、本題に入らせていただきます。事前にお伝えした通り、本日お時間をいただいたのは、現在フェルザ帝国とアルトスタの間で発生している、ルジュエル地方の領有権問題についてのご相談です」


 ヘーメルの顔からは、もう、先ほどまでの優しい祖父のような柔らかさは消えていた。僅かに視線を落とし、穏やかにミアスの声に耳を傾けている。


「貴国は、我々アルトスタに対し、ルジュエル地方の無条件の割譲を主張しています。遺憾ながら、我々は、その要求をむわけにはいきません。しかし、ルジュエル地方の長い歴史というものを考えたとき、あの地域がアルトスタのものだ、と強く主張するつもりもありません。だから今回は、折衷案をお持ちしました」


 ミアスは、持参した資料をヘーメルに差し出す。


「ご提案するのは、ルジュエル地方の分割案です。ご覧の通り、ルジュエル地方を南北で二つに分け、北部を帝国が、南部をアルトスタが、それぞれ領有する計画となります」


 ヘーメルは資料を手にとって見つめた。資料には、分割案の具体的な内容が書かれている。具体的にどの位置に線を引くのか、北部在住のアルトスタ人の処遇はどうなるのか。

 ミアスは、熟読するヘーメルの表情を盗み見るが、何の感情も読み取れなかった。


「これが、我々が示せる最大の譲歩です。申し訳ありませんが、貴国の全ての主張をむわけにはいきません。ただ、両者でルジュエルを分け合うことで、平和的に着地することはできると考えています」


 ミアスは身を乗り出し、ヘーメルの目を見る。


「そして、ヘーメル様には、是非ともこの案に賛成いただきたいのです。皇帝陛下の主治医を務める、帝国屈指の有力者であるあなたの賛成があれば、帝国政府も、耳を傾けてくれるはずです。ルジュエル地方の平和のために、なにとぞ、よろしくお願いします」


 そう言って、ミアスは深く頭を下げた。ヘーメルは何も言わなかった。ねばついた沈黙が、傾けたミアスの背中に重く覆いかぶさってくる。


「これを私のところに頼みに来た、その度胸は褒めてあげたいが……悪いが、無理だな」


 ヘーメルはため息交じりに言うと、資料をテーブルに置いた。やはり。そう思いながら、ミアスは顔を上げる。


「私は、ルジュエル地方出身の、しかも帝国人だぞ? ルジュエルを帝国の手に取り返すことに、異論があるはずがなかろう。しかも、アルトスタの都合で勝手に線を引いて、ルジュエルを二つに分けるなど……ぼうとくと言われても仕方がない」


 ミアスは、ヘーメルの顔を見てショックを受けた。温厚なヘーメルが、見たことのない硬い表情をしている。ミアスは、彼にこんな顔をさせたことを申し訳なく思うが、これが自分の仕事だった。ヘーメルのこの反応も、想定のうちだ。


おつしやることはわかります。ルジュエル地方は、アルトスタの領土とは言えません。ただ私どもは、そもそも帝国のものというわけでもないと考えています」


 ピクリと、ヘーメルの眉が動いた。


「ルジュエル地方の帰属は、歴史の中で転々としています。確かに、直近でもっとも長くルジュエルを統治していたのは帝国ですが、それは百五十年前、独立していたルジュエル地方を、帝国が侵略した結果だったはずです」


 事実だった。歴史的に見れば、帝国によるルジュエル地方の統治は、けっして長くはない。ヘーメルにとっては、物心ついたときには帝国のものだったが、それ以前は完全な独立国だったこともあり、それを帝国が侵略したのだ。帝国によるルジュエルの統治期も、圧政とは言わないまでも、扱いはいいものではなかった。


「貴国は、五十年前の戦争で弱体化し、一時、他国への侵略的な姿勢を改めました。しかし、また当時の勢いを取り戻しつつあります。事実、威圧的な外交姿勢や、少数民族の独立運動弾圧も問題になっています。ヘーメルさんも、きっと心の底では、賛成ではないはずです」


 ミアスはヘーメルの目を見る。ヘーメルは逃げるように視線をうつむけた。図星なのだ。


「このままでは、帝国とアルトスタの交渉は決裂し、ルジュエル地方が争いの種になります。ヘーメルさんの故郷が、戦火に包まれることになるんです。それは、あなたも望んでいないと思います。ですから、今一度、我々の案について、考えていただきたいんです」


 ヘーメルは難しい表情で黙ったきり、何も言わなかった。だが、この沈黙はさっきとは違う。今、ヘーメルの中では、様々な葛藤が渦巻き、ぶつかり合っている。物を言う沈黙だ。ミアスが言えることは、もう全て言った。あとは、ヘーメルの良心に賭けるしかない。


「……確かに、君の言う通りだよ、ミアス君」


 やがてヘーメルは、絞り出すように言った。ミアスを見る目は、悲しげにゆがんでいる。


「心情的には賛成してあげたいが……やはり、私には無理だ」


 ミアスは何も言えない。断られることは、予想はしていた。だが面と向かって言われると、やはり言葉が出てこない。


「確かにルジュエルは、かつて帝国に侵略された場所だ。少年時代、帝国からルジュエルに来た商人や役人は、おうへいで嫌なやつばかりだったしね。だが……今は違う。今の私には、帝国人としての生活がある。帝国に背き、アルトスタの案に賛成するようなことがあれば、私は政府中枢からにらまれ、今の地位を失うだろう。皇帝陛下の主治医と言っても、そんなものなのだ」


 吐き捨てるように言ったヘーメルの言葉には、どこか自嘲的な響きがあった。


「ルジュエル地方出身者は、今も帝国では弱い立場だ。敗戦後、着の身着のままで帝国に逃れ、差別を受けながら貧しい暮らしをしていたのは、君も知っているだろう? 一般的な帝国臣民との差は、今も埋まらんままだ。そんなルジュエル出身の私がここまで出世するのに、どれだけ苦労したか……」


 ヘーメルは、まっすぐミアスの目を見た。その視線は、許しを乞うような色を帯びていた。


「だから、すまないが……君の要求は聞けない」


 ミアスは何も言えず、うつむくことしかできなかった。だが同時に、予想通りの結末でもある。ヘーメルを説得する方法をミアスなりに考えてはきていたが、結局、決定的な手段は思いつかなかった。だからこうやって、ヘーメルの情に訴えるしかなかったのだ。

 ミアスの説得に、ヘーメルの心は動いている。だが、そこまでだ。実際の生活、利害をてんびんにかけて、彼は動かない選択をした。ミアスの心に落胆がにじむ。ヘーメルのような人でさえ、結局、正義より自分が大切なのだ。


「確かに、そうですね……ヘーメルさんのおつしやとおり……」

「ちょっと待ってください」


 唐突に、何者かの声が横からミアスを遮った。ミアスとヘーメルは驚いて振り返る。

 声の主は、言うまでもなくサピンだった。