亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~
第二章 彼が本当に欲しかったもの ⑩
「確かに、今の分割案では、ヘーメルさんが受け入れるメリットはありません。ただ、案そのものは変えなくても、微調整を行うだけで、あなたにも利のある着地に変えられると思います」
そう言って、サピンは口元に笑みを浮かべた。
「私は、平和の名の下に、誰かが割を食うようなやり方は嫌いなので」
ミアスは驚いてサピンの横顔を見つめる。ふざけているようには見えなかった。だが、ヘーメルの結論を変えられる、魔法のような微調整が存在するなど、とても信じられない。
考えることはヘーメルも同じようで、
「それは結構だが……どんな調整の余地があるのかね? 今の分割案は、ルジュエル地方を南北にほぼ二等分する形になっている。この線をどうズラしても、どちらかが不利になるんだぞ?」
「そこなんですよ! その、南北で二等分する、という発想が安易すぎるんです」
サピンは身を乗り出し、資料に書かれたルジュエルの地図を広げた。
「ルジュエル地方と一口に言っても、かつては独立国だったこともある、広大な地域です。この領域を、もっと細かく見ていきましょう。今の線引きは、一見面積は公平ですが、経済的な重要性を重視し、魔石鉱床が帝国に多く配分されるように考えられています。エンシュロッス大使の人の良さが出た、いい案です。だがこの案は、ルジュエル地方の文化的な重要性を見落としている。ヘーメルさんたち帝国のルジュエル出身者にとって重要なのは、魔石鉱床なんかじゃない。むしろ、南部にある古都、ルジュエドではないでしょうか?」
ヘーメルの肩がぴくりと動いた。サピンは地図上のある一点を指し示す。そこには、ルジュエル地方南部、今回の案で言うとアルトスタ側の、一つの都市があった。かつて独立国の時代に首都だった、ルジュエドだ。今は重要性を失い、ただの寂れた観光地となっている。
ヘーメルはゆっくりと
「確かにそうだ……ルジュエドこそ、私の故郷だし、多くの人間はここに愛着を持っている」
「ですよね。現状の分割案では、ルジュエドはアルトスタ側にありますが、ここを帝国に差し上げます」
その言葉を、サピンがまるで昼飯でも
「そ、そんな……! ルジュエドは、ルジュエル地方の南部の都市ですよ!? それを帝国側にするなら、圧倒的に帝国の分配が多い線引きになります!」
ミアスは思わず抗議するが、サピンは動じなかった。
「別に、線をルジュエドの位置までズラすとは言ってません。
サピンは内ポケットからペンを取り出すと、地図に書き込んだ。分割の線はそのままに、南部のルジュエドを円で囲む。その円の北側から、帝国側の境界線まで線を引く。これで、南北の境界はそのままで、ルジュエドだけが帝国のものとなった。
「帝国もアルトスタも、ルジュエル地方と一口に言いますが、まずそれが間違っていると思いますね。自分より小さな国は全部同じだと思っている、大国の悪い癖です」
サピンはそう言って、口元に笑みを浮かべる。ヘーメルは、口元に手を当ててしばらく悩んでいたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「確かに、我々にとっては、ルジュエドは重要な場所だ。魅力的な案ではあるが……これだけで賛同するのは難しいな。結局、賛同することで、私が地位を失うことに変わりはない」
「はい、もちろん、これだけではありません。ヘーメルさん。あなたは今、帝国のルジュエル地方出身者団体、『ルジュエル出身者互助協会』の代表を務めてますよね?」
「ああ、そうだが」
「団体の中には、ルジュエル地方が帝国に戻ってきた暁には、ルジュエルへの移住を希望する人が沢山いると思います。その移住費用を、アルトスタが負担いたします」
「え……」
ミアスは思わず声を出していた。ヘーメルも驚きに目を見開いている。
「ヘーメルさん。あなたはルジュエル地方出身者でありながら、この帝国で、皇帝陛下の主治医になるまでに出世しました。でも、それは超希少な例です。ルジュエル出身者の大半は、今も帝国で貧しい暮らしをしている。だから、仮にルジュエルが帝国のものになったとしても、移住なんか無理でしょう? 帝国は、そんな弱い者たちを顧みたりしませんから」
ヘーメルは言葉が出ないようだった。ミアスも同意せざるを得ない。魔石の産地であるルジュエルは非常に地価が高く、貧しい人々の移住は不可能だ。
「古都ルジュエドの
そこまで言い切ると、サピンは黙った。そして、一息つくようにソファにもたれる。
ヘーメルも、目を見開いて何も言わなかった。
ミアスは驚いて地図を見つめていた。一瞬のことだった。分割案の線自体は、一切動いていない。ただ、ほんの僅かに要素をズラすだけで、どうしても
「……ルジュエドは、本当に美しい街でな。
ヘーメルは、小さな声で、
「今の私は、帝国で成功し、ルジュエドへも、旅行だったらいくらでも行ける。もし帝国が領土を取り戻したら、住むことだってできるだろう。だが、他の貧しい同胞たちは違う。大半は、その土を踏むことすらできんのだ。この悔しさは、誰にもわかってもらえないと思っていたがな……」
そう言って、ヘーメルはサピンを見た。
「いいだろう。その約束、本当に守ってもらえるのなら、私の地位を犠牲にするくらいの価値はある。分割案に賛成しよう」
ラジャは、大使館の自室のベッドに一人で座っていた。腕の包帯を外す。清潔な包帯はするすると
立ち上がって、窓の外を見る。大使館前の大通りを、沢山の人や、魔石で動いているらしい軌道車が行き来する。いつの間にか見慣れてしまった光景だが、この景色を見るのも、あと少しだけだ。
ラジャは、
最初から、アルトスタという国に亡命するつもりはなかった。大使館に保護を求めたのは、帝国の追っ手を振り切り、傷を治す時間を得るためだ。ラジャには、この帝国で、まだやることがある。
すぐに亡命が認められず、大使館に留め置かれたのは幸運だった。大使館に駆け込んだ日、熱で
そう考えたとき、胸に小さな痛みが走る。頭をよぎるのは、自分の世話係のようなことをしてくれた、サピンという人のことだ。彼には、悪いことをしてしまうことになる。



