亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第二章 彼が本当に欲しかったもの ⑪

 帝国の追っ手が自分を取り返しに来たとき、彼だけが、自分をかばってくれた。そして今は、戦争を防ぐと言って、帝国と交渉に臨んでくれている。帝国とアルトスタの問題を解決するため、帝国の偉い人物を説得しようとしているのだ。

 それがくいくかどうかは、わからない。ラジャには、政治の話は理解できなかった。それでも、胸に温かいものが込み上げるのを感じて、静かに目を伏せる。

 あのようない人を、死なせないために。

 自分は、使命を果たさなければならない。

 そのとき、廊下から勢いのい足音が聞こえ、ラジャは顔を上げた。足音は明らかに、自分の部屋に向かって近づいてくる。

 扉の前で足音が止まり、ドアがノックされた。


「ラジャ! 入るぞ!」


 返事をする前に、勢いよくドアが開かれる。立っていたのは、サピンだった。サピンはずかずかと部屋に入り、ラジャの前に立つと、勝ち誇ったような微笑を浮かべる。


「交渉、成功したぞ」


 何を言っているのかわからなかった。ラジャは無言でサピンを見上げる。


「今日の交渉相手、俺の出した条件をんで、アルトスタ側に回ってくれるって。これで、帝国との戦争は一歩遠のいた」


 え……?

 ラジャは驚きで大きく瞳を見開いた。

 ラジャが何も言えずにいると、サピンは少し迷うように視線をらしたが、やがて、おずおずと切り出す。


「俺が言うのもなんだが……人間は確かに争ってばかりではあるが、ここ五十年くらいは、なんだかんだ大きな戦争は起こさずくやってきたんだ。これからもその状況が続かないと、なぜ言い切れない? 絶対に戦争になるとは限らないよ」


 するとサピンは、かばんから一冊の本を出して差し出した。ラジャは、出されるがままに本を受け取る。表紙を見るに、どうやらアルトスタの観光ガイドブックらしい。


「だからラジャにも、起きるかどうかわからない未来におびえるだけじゃなく、少しでいいから、今を楽しむことを考えて欲しいんだ」


 ラジャはガイドブックの表紙を見つめた。名所とおぼしき城のような建物と、笑顔の旅行者のイラスト。なんの変哲もないその絵から、なぜか、目を離すことができない。


「だからまずは、アルトスタでやりたいことを、決めることからだな」

「あ、サピンさん、こんなところにいた!」


 廊下から声がして、顔を上げるとミアスが立っていた。


「何してるんですか! 大使と政治部長に、交渉結果の報告しなきゃでしょ」

「そんなのは、ラジャの後でいいんだよ」

「いいわけないでしょ! ……そういうことだから、ラジャちゃん、あとでね!」


 そう言うと、ミアスは、サピンを引っ張って行ってしまった。

 仮眠室に、静けさが戻ってくる。一人残されたラジャは、ぼうぜんと立ち尽くしていた。

 胸が高鳴っていた。今まで感じたことのない感覚だった。敵に周りを囲まれたとき。大きな砂嵐に追いかけられているとき。砂漠の真ん中で水が尽きかけたとき。どれとも違う。その高鳴りは、少し痛いくらいに胸をたたくのに、不思議と、心地よいものだった。

 自分は、が治ったら大使館を出ていく。この帝国で、使命を果たす。アルトスタには、行かない。

 その気持ちは変わらないのに、サピンからもらったガイドブックから目を離せない。

 握りしめた手のぬくもりで、ガイドブックが湿って柔らかくなっている。

 自分の気持ちの正体は、すぐにはわかりそうもなかった。

 だからそれは、このガイドブックを、少し読んでみてから考えることにしよう。

 立ち尽くすラジャを、窓から差し込む陽気が、暖かく、照らしていた。