亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第三章 会議室の武士 ①

 一年前。統一政府、紛争仲裁委員会委員長、ペンザレ・カンボは、死体だらけの戦場跡をぼうぜんと歩いていた。

 フェルザ帝国北方、フォルビエと呼ばれる地域だった。二百年前に帝国に侵略された地域で、現在、独立の機運が高まっていた。そして二ヶ月前、ついに民衆が蜂起したが、帝国はその弾圧のために、軍を派遣したのだ。

 その結果が、今、ペンザレの目の前に広がっている光景だ。見渡す限りの平原に、無数の死体が転がっている。辺りには、死臭と火薬の匂いが充満し、ペンザレはさっきから、必死に吐き気をこらえなければならなかった。

 帝国軍の強さは圧倒的だった。フォルビエ独立軍はほとんどしろうとの集まりで、数も練度も足りず、帝国軍にすべもなくじゆうりんされた。実際、転がっている死体の中に、帝国軍の制服を着ているものはほとんど見当たらない。

 先日、フォルビエ独立委員会はついに帝国に降伏した。今日は、その講和会議の日である。

 ペンザレは、統一政府の幹部として、会議の仲裁のために派遣されたのだった。

 そのとき、ぬるりと足下が滑り、ベンザレは転んだ。地面に倒れ伏すと、目を見開いた死体と目が合った。


「うわあ!」


 悲鳴をあげて起き上がると、手をついた場所が新鮮なフルーツのように柔らかく潰れ、またバランスを崩す。焼死体に手をついてしまい、その皮がけたのだが、彼がそんな細かい事情を知ることはなかった。死体の山に思い切り顔をうずめてしまったペンザレは、ついに我慢の限界がきて、おうする。

 戦場を見るのは初めてだった。五十年前の対帝国戦争当時、彼は生まれていたが、まだ子供だったのだ。いや、仮に大人だったとしても、裕福な家に生まれた上に体も弱かった彼は、戦場に行くことはなかっただろうが。

 帝国軍による、少数民族の独立運動の弾圧。この事態を前に、統一政府は何もできなかった。

 統一政府は、各国から予算を徴収し、統一政府軍を組織していた。が、平和が長引くにつれ、各国は支出を嫌がるようになり、既に形骸化していた。統一政府は、復活した帝国の前に、対抗できる力を持たなかったのだ。ペンザレ率いる仲裁委員会は、帝国に対し何度も停戦勧告を行い、仲裁を申し出たが、帝国は聞く耳を持たなかった。相手にもされなかった。

 二度と、戦争を繰り返さない。帝国のような、突出した強者の横暴を許さない。そんな決意のもとに団結したはずの統一政府は、実際の戦いに際して、何の役にも立たなかった。


「心安らぐ光景ですな」


 背後から太い声が響き、ペンザレは驚いて顔を上げた。背の高い老人が、微笑を浮かべて戦場を眺めている。


「人は、この世に生を受けた瞬間から互いに相争う生き物だ。ならば、隣人の死こそ、平和への偉大なる第一歩となる……そう思いませんか? ペンザレ殿」


 ペンザレは返事をしようとしたが、声が出なかった。

 帝国外務省、ルー・バタイユがいきよう。今日の講和会議の帝国側の責任者だった。帝国外務省のトップだが、その姿はとても外交官には見えなかった。白い豪華な毛皮のマントを羽織り、腰に宝石のついたサーベルを下げた大柄なたいは、文官より将軍や元帥といった肩書が似合う。だが何より、しかばねの山をとして見つめる様は、死をつかさどる神か何かのように見えた。

 ペンザレは胃酸の味がする唾を飲み込んだ。目の前にいるのは、これから話し合いをする相手だ。いや、話し合いなどという生易しいものではない。喉元にナイフを突きつけられた、どうかつだ。圧倒的な力を持つ帝国に、自分たちが、どんな仲裁をできるというのだろう。

 バタイユがいきようは笑顔を浮かべたまま、身をかがめ、ペンザレに手を差し出した。


「さあ、平和のための話し合いをいたしましょう。統一政府、仲裁委員会委員長殿」



 在帝国アルトスタ大使館の会議室は、高揚したムードに包まれていた。先日の会議から約一ヶ月がつ。帝国の有力者に、『ルジュエル分割案』への賛同を依頼する計画は、順調に進んでいた。壁に人物リストが貼られ、説得に成功した人物には丸がつけられる。見たところ、半数以上は丸がついていた。

 サピンたち若手は、例によってかべぎわの椅子に座っていた。隣では、ミアスも興奮した面持ちで座っているが、サピンは、会議室の浮ついた空気を、どこかごとのように感じていた。

 政治部長が、顔を綻ばせて壁のリストを見る。


「いやあ、想像以上ですな。ここまで賛同が集まるとは」

「ああ。帝国にも、平和を願う人々がこれだけいるということだ。捨てたものではない」


 エンシュロッス大使もうなずくと、会議室に集まった皆のほうを振り返る。


「皆、ご苦労だった。これだけの賛同が集まれば、帝国政府への圧力としては申し分ない。このそうそうたる顔ぶれに、優劣をつけられるものではないが……特筆すべきは、皇帝陛下の主治医、スキルパ・ヘーメル氏を引き込めたことにあると思う。担当の二人に敬意を表したい」


 その瞬間、サピンたちに皆の視線が集まった。ミアスは一瞬顔を引きつらせるが、すぐに涼しい顔に戻り、立ち上がった。サピンも渋々それに続く。

 エンシュロッスはうれしそうに二人を見た。


「レゲール八等官が築いたコネクションと、アエリス八等官の手腕、二人の力で得た手柄だ。これからもよろしく頼む」

「ありがとうございます。これからもご指導ごべんたつのほど、お願いいたします」


 ミアスは余裕の笑みで挨拶し、周囲から温かい拍手が起こる。ミアスが着席したのを見てサピンも座りながら、自分への視線はあまり好意的ではないことに気づく。皆、ミアスのことは祝福するが、サピンに対しては大半が疑い、良くて驚きだ。ヘーメルの説得は二人の手柄と言われているが、サピンが何かしたというのが信じられないのだろう。


「ふん、いい気になるなよ」


 急に、とげのある言葉が投げつけられた。ミアスを挟んだ席に座っている、クルンバンだ。


「ルジュエドとびに、移住費用の負担だと? その案を認めさせるために、大使にじかだんぱんまでしたらしいじゃないか。そんなわがままが通るなら、誰だって交渉をまとめられるさ」

「そうか。俺にはこれ以外、ヘーメル氏を説得する方法が思いつかなくてな」

「ルジュエル出身者の移住費用も、血税から捻出されるのだぞ。わかっているのか?」

「帝国と開戦したときの戦費に比べれば百分の一以下だろ? 勝負どころで賭け金を積めないやつは、一生うだつが上がらないままだぜ」

「下品な! 外交をなんだと思っている!」

「あの、私を挟んでけんしないでもらえますか」


 間に座るミアスが貼り付けたような笑顔で言ったので、サピンとクルンバンは萎縮して黙った。ミアスは笑顔を崩さずに続けた。


「クルンバン先輩。サピンさんは、確かに言動に大いに問題はありますが、優秀な人ですよ。彼がいなければ、ヘーメルさんの説得は無理でした」

「え!?」


 クルンバンは、ミアスがサピンをかばったことがよほどショックだったのか、言葉を失った。サピンはさすがに気の毒に思い、かける言葉が見つからない。


「では、これからは、帝国がいきよう、ルー・バタイユとの交渉だ。今後の計画を説明する」