亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第三章 会議室の武士 ③

 自分自身は、そんなことを信じてもいないのに。

 サピンは立ち上がった。


「領土交渉は、最後まで見届けるよ。ルジュエル問題のすうは、俺にとっても重要だからな。だが、世界規模の戦争はいずれ起こるし、国外に逃げるのは決定事項だ。変更はない」

「サピンさん……」


 ミアスの顔が悲しげにゆがみ、サピンの胸が少しだけ痛む。


「実力を認めてくれてうれしかったよ。ありがとう、ミアス」


 そう言って、サピンはトレーを手に取り、食堂を後にした。

 それからサピンは、仕事をする気にもならず、一人で中庭に行った。中庭には、あかりのたぐいは何も無く、大使館の窓の明かりが、かすかに草木を照らすだけだ。こんな時間にやって来る物好きなどおらず、いるのはサピン一人だけだった。

 ベンチに座って、ぼんやりと闇を見つめる。最近、両親を思い出すことが増えていた。色々なことがありすぎて、感情がかくはんされ、古い記憶が浮き上がってきてしまったらしい。サピンは、あの頃の心の傷は治っておらず、封じ込めていただけだったことに気付かされる。

 少年時代は、悪いことばかりではなかった。あの貴族との訴訟の敗訴までは、父は、ちょっとした街の名士のような慕われ方をしていたのだ。父は、住民のトラブルに対し、単なる法的な決着ではなく、両者が納得し、その後も街で共に生きていけるような解決を目指していた。もちろん全てがくいったわけではないが、子供のひい目を差し引いても、父を中心にして、街の平和が保たれているような印象があったものだ。

 そんな街の住人たちですら、最後は父を捨てたのである。

 母は、そんな父の考えに共感していて、サピンにも、父を否定して欲しくないようだった。それが、サピンに苦労をさせない、という強情な決意につながり、高額な大学の学費まで稼がせたが、その無理が彼女の死期を早めた。

 サピンは両手で頭を抱え、大きく息を吐く。本当に悪い人はいない、というのは、父親の理想に過ぎなかった。だったら、自分も悪くなるしかないではないか。そうしなければ、利用されて終わりだ。

 そのとき、隣に気配を感じ、サピンは驚いて顔を上げた。振り返ると、小柄な人影が、ベンチのすぐ隣に座っている。

 ラジャだった。ラジャは、ガイドブックを手に持ち、黙って正面を見つめていた。


「ラジャ……どうした?」


 ラジャは答えなかった。表情は闇に覆われてよく見えないが、いつもの無表情なのは想像できた。サピンは小さく笑みを浮かべる。

 自分は、いずれ外務省を辞め、国外へ逃げる。ノウハウも資金もあり、何とか生きていけるだろう。だが、ラジャのような少女は、そうはいかない。自分のために生きるということは、ラジャのような存在を見捨てるということだ。


「ごめんな。ラジャ」


 サピンがつぶやくように言うと、ラジャは振り返った。


「この前、偉そうなことを言ったけど、やっぱりいずれ戦争は起きると思う。帝国が攻めてきたら、アルトスタに亡命しても、安全じゃないかもしれない。でもそのときはもう、俺はラジャのことを助けられない。俺は、そういうやつなん……」

「ダイジョウブ」


 ラジャは、サピンを遮るように言った。サピンは少し驚いてラジャの顔をのぞむ。暗くて表情はよく見えないが、瞳だけが、窓の明かりを受けて、かすかに光っている。

 サピンが何も言えずにいると、ラジャはもう一度口を開いた。


「サピン、ダイジョウブ」


 大丈夫。その言葉が何を指しているのか、サピンにはわからなかった。だが、不器用な彼女なりに、サピンを励まそうとしていることはわかる。


「……そうか。ありがとう」


 サピンは短くそう言うと、正面を向いた。ラジャも、それ以上、何か言おうとはしなかった。

 どちらも、何も言わなかった。肘と肘が触れ合う距離で、何をするでもなく、夜がすぎていく。雲がかすかに流れ、月明かりが、柔らかく、中庭を照らした。



 ついに、帝国がいきよう、ルー・バタイユとの交渉の日がやってきた。

 アルトスタ大使館の面々は、何台かの馬車に分乗し、帝国外務省を目指していた。外務省は、大使館と同じく首都テラージェにあるので、三十分ほどで到着する。

 若手用の馬車の中には、サピンの姿もあった。狭い車内に、同席を許された六名の若手が詰め込まれ、隣にはミアス、向かいにはクルンバンの姿もある。若手たちは、いつものように議場のかべぎわに座り、自分の関係する分野が話題になったとき、上司に耳打ちするのが仕事だ。サピンとミアスなら、ヘーメル氏やルジュエル出身者の移住などについて話題になったら、詳細情報を的確に答える必要がある。

 ミアスは、バキバキの目で資料を読み込んでいた。自分に質問がきたとき、間違っても答えに詰まることがないようにである。昨日眠れなかったようで、目の下にはくまができていた。

 そのとき、馬車が大きく揺れ、ミアスは資料を落とした。紙の束が床に広がるが、向かいに座ったクルンバンが素早くそれを拾う。


「ミアス、大丈夫か? 別に僕たちに難しい質問は来ない。普段通りにしていればいいんだ」


 クルンバンは爽やかな笑顔でミアスに資料を渡すが、その手はすごい勢いで震えており、紙束はカサカサと音を立てていた。よく見ると、彼の顔も青白い。

 サピンはあきれてため息をついた。皆、大舞台に緊張している。サピンも緊張がないわけではないが、それ以上に胸をさいなむのは、もっと得体の知れない不安だった。

 アルトスタ大使館の面々は、皆、この交渉の成功を確信していた。故にその関心事は、自分が失敗しないか、ヘマをしないかに尽きる。だが、サピンの不安の根源は、皆とは違った。

 窓の外に目をやると、道路が割れて雑草が伸びている。軍事費拡大による増税で、街にはどこか活気がない。

 自分にできることはもうやった。これ以上、思い悩んでも仕方がない。

 頭ではそう考えていても、胸の奥の不安は、やはり、消えなかった。

 サピンたちの馬車の少し先を走る、幹部用の馬車。

 広々とした座席では、エンシュロッス大使、政治部長、そして、統一政府から派遣された二名の職員の、計四名が揺られていた。

 エンシュロッスの胸は、静かに高鳴っていた。外交の大舞台はいくつも経験してきたが、今回は今までとは違う。

 エンシュロッスは、戦争を知らない世代だった。終戦の年に生まれ、物心ついたときは街に傷跡が残っていたが、その程度だ。外交官として彼がやってきたのは、あくまで平和な世の中における、各国との利害調整である。

 だが、今回は違う。明確に、自分たちに敵意を持った相手との交渉だ。これが決裂すれば、帝国と戦争になり、何万人という国民が犠牲になる。やるだけのことはやったが、それでも、鉄の塊をんだような胃の重みが軽くなることはない。

 エンシュロッスはふと、目の前に座っている統一政府職員、ペンザレ・カンボの顔色が悪いことに気づく。カンボは、青白い顔でうつむいていた。


「カンボ殿……御気分が優れないのでしょうか?」

「え? いや、あはは、そんなことはありません。万全ですよ……」


 カンボは、口ではそう言うが、目が泳いでいる。エンシュロッスの胸にかすかな不安がよぎる。

 ペンザレ・カンボ仲裁委員会委員長。統一政府において、国家間の紛争の仲裁を行う機関、『仲裁委員会』のトップを務める人物だ。大国レヴィテティオ出身で政府要職を経験したのち、十年ほど前に統一政府に転身した。今回の交渉で、少しでも帝国への圧力を強めるため、エンシュロッスが呼び寄せたのだ。