亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第三章 会議室の武士 ⑤

 帝国側の面々はまだ来ておらず、アルトスタ勢は先に着席した。例によって、幹部たちがテーブル、サピンら若手はかべぎわの席だ。

 誰も、何も言わなかった。華やいだ部屋に似合わぬ、重苦しい沈黙が周囲を満たす。サピンも、手の中に汗をかいていた。落ち着かなければならないと思う。

 会議室の扉が、重い音を立てて開いた。アルトスタ勢が立ち上がると同時に、ぞろぞろと帝国側の人間が入室してくる。

 列になって入ってくる帝国陣営を眺めながら、サピンの視線は、ある一人の人物にくぎけになった。列の中ほどにいる、その人物が発する殺気のせいだ。

 白い毛皮のマントを大仰に羽織った、周囲より頭ひとつ背の高い老人。

 フェルザ帝国がいきよう、ルー・バタイユその人であった。

 脚が悪いのかつえをついているが、たいには厚みがあり、か弱い印象は無かった。大きな瞳はしっかりと正面を見据え、視線自体が質量を持つかのように、力にあふれている。白髪を肩まで伸ばし、豊かなひげを蓄えたいかつい顔は、文官らしからぬ野性味があった。

 かつてバタイユは軍人であり、先の戦争にも将校として戦地に赴いていたという。脚の傷はそのときのものだった。彼は、戦いを知る人物なのだ。サピンは思わず唾を飲む。


「お待たせして申し訳ない。脚が悪い人間には、広すぎる庁舎は酷でしてね」

「とんでもございません。今日はよろしくお願いします」


 バタイユとエンシュロッスは握手を交わした。バタイユの声や所作の一つ一つから熱気のようなものが発散しており、体格はさほど変わらないのに、エンシュロッスが少し小さく見える。

 双方着席し、ついに交渉が始まった。

 進行役の帝国の外交官が今日の議題を確認すると、早速エンシュロッスが口火を切った。


「本日の議題は、言うまでもなく、ルジュエル地方の領有権問題についてです。貴国は、我々アルトスタに対して、ルジュエル地方の無条件の割譲を要求しておられる。最終回答の期限は、今月の末日。我々が要求をまない場合、貴国は武力をもつて係争地を奪取するつもりである、ともおつしやった。これは、事実上のさいつうちようであると捉えております」

「我々は、割譲、ではなく、返還、だと捉えているが。まあいいでしょう」


 バタイユは、力みの見えるエンシュロッスを軽くいなすように言った。エンシュロッスは一瞬沈黙するが、唾を飲み込んで再び話しだす。


「我々は、貴国の要求を、本国政府とも検討しましたが、やはり受け入れることはできない、という結論に至りました。武力を背景に領土を脅し取るなど、統一政府が作り上げた秩序を乱す行為であり、断固として拒否します。脅しには屈しません」


 その言葉に、帝国側の面々がざわついた。ある者は驚き、ある者はあきれているが、共通しているのは、プライドを傷つけられた、強者の怒りとも言うべき感情だ。アルトスタ勢は、エンシュロッスの態度に勇気づけられたのか、勇敢な面持ちで黙っている。


「もっとも我々も、歴史的経緯を鑑て、ルジュエル地方全てがアルトスタのものだと主張するつもりはありません。よって、前回の会議で提案した、ルジュエル地方の分割案を引き続き提案いたします。今回は、前回の提案に若干の修正を加えており、南部の古都ルジュエドをとびとして貴国の所属とする形にしております」


 出席者に、資料が配られた。一枚は、新しい分割案の詳細だった。帝国からルジュエルへの移住を希望する者への、移住費用の負担についても言及がある。もう一枚は、人名のリストだった。


「我々と同じくする声は、貴国……帝国内部からも上がっております。ご覧の通り、帝国の政界、財界、貴族界など、各界の有力者が、平和を望み、『分割案』の支持を表明してくださいました。お配りしたのは、その署名になります。これだけの方々の意見をないがしろにすれば、帝国政府としても、国家運営に支障をきたすものかと考えます」


 バタイユの眉が、かすかに吊り上がった。

 エンシュロッスは、テーブルの端にいる、ペンザレ委員長に視線を向ける。


「そしてこれは、言うまでもなく、統一政府紛争仲裁委員会も同じ結論であります。ペンザレ委員長」


 その瞬間、皆の視線が集中し、ペンザレは青ざめた。激しく目が泳ぎ、やがて、逃げるように視線をうつむける。


「わ、我々としても、両者の意見、経緯を総合的に判断いたしましたが……やはり、統一政府としては、帝国を支持することはできません。武力を背景にした強要行為を強い言葉で非難し、即刻要求の取り下げを求めます」


 ペンザレの言葉は、文言こそ力強かったが、語尾は消え入りそうだった。エンシュロッスは一瞬顔を引きつらせるが、また勇ましい表情を作って後を引き継ぐ。


「我々としても、分割案の線引きをずらすことはできません。しかし、古都ルジュエドの扱いを始め、様々な点で譲歩を行っております。バタイユがいきようの考えを、お聞かせ願えますでしょうか?」


 エンシュロッスが口をつぐむと、会議室に沈黙が訪れた。

 皆が、固唾をんでバタイユの動きに注目していた。彼は何を言うのか? アルトスタの提案に、どんな反応をするのか? バタイユは無言で、アルトスタの提出した資料を眺めている。

 一方サピンは、別のことが気になっていた。ペンザレ委員長だ。彼は、二日酔いのような青い顔でうつむいていて、バタイユのことを見ようとしない。さっき発言したときもそうだった。彼は、何をあんなにおびえているのだろうか?


「なるほど……帝国の有力者から、帝国政府の意志に反する署名をこれだけ集めるとは。さぞ、苦心したことでしょう」


 バタイユが口を開き、サピンもバタイユの方を振り返った。


「だが、これら全て……徒労ですな」


 そう言った瞬間、バタイユは資料から顔を上げ、口元に笑みを浮かべた。


「なんですと? これだけの有力者の方々の平和を求める声を、無意味だとおつしやるのですか?」


 エンシュロッスは声を荒らげるが、バタイユは動じなかった。


「確かに、貴国のような民主主義国家であれば、こういう声にも意味はありましょう。だが、我々は違う。帝国の進む道を定めるのは、大いなる父、すなわち皇帝陛下の一声だけだ。帝国臣民は、皆、父に守られる赤子にすぎない。そして陛下は、赤子のままを無条件に聞くような、甘い親ではないのです」


 バタイユは淡々と述べた。大声を出したわけでも、威圧的な言葉を使ったわけでもない。なのに、気づけばその場にいる者全員が、恭順するかのように耳を傾けていた。

 バタイユは、口元の笑みを消して、鋭い視線をエンシュロッスに向けた。


「エンシュロッス大使。いい加減、議論と意見が世界を動かすなどという、けた幻想にすがるのはおやめなさい」


 その瞬間、サピンは、いや、会議室にいる全員が、何かが変わったことを察知した。バタイユの声色なのか、視線なのか、態度なのか、その全てなのか。急にバタイユの何かが変わり、彼を中心に、会議室全体に強烈な威圧感が充満したのだ。遠く離れていたサピンでさえ、あと退ずさりするような圧力を覚える。