亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第三章 会議室の武士 ⑥

「確かに、国の内部であれば、そのような統治もできましょう。国は人の上に立ち、法と警察力によって民衆を押さえ、秩序を作り出す。確かに、その秩序の中では、国が紛争を裁定し、人々の平和的な話し合いによる統治も可能だ……だがそれは所詮、領土の内側の話でしかない。領土の外、国同士の話となればそうはいかない。今の世界に、国の上に立つ存在はありません。強いて言うなら神がそれに当たるのかもしれないが、神は何もしてはくれぬ。国は、秩序なき原始の荒野で戦っているのと同じなのです。そんな荒野において、弱者の声が何になる? か細い声に、相手が望まぬことを強要し、相手がほつするものを諦めさせるような力が宿るというのか? こんな紙切れに!」


 バタイユは急に大声で叫ぶと、署名の束を机にたたきつけた。会議室全体がしびれたように動きを止め、サピンも硬直してバタイユを見つめることしかできない。

 バタイユは立ち上がると、つえを高く掲げ、柄を握って勢いよく引き抜いた。つえの中から現れたのは、銀色に輝くやいばだった。バタイユのつえは、づえだったのだ。彼の手には、美しく輝くサーベルが握られていた。

 バタイユは腕を振るい、空を切る音と共に、サーベルをテーブル越しのエンシュロッスに突きつける。エンシュロッスは小さく悲鳴をあげてのけぞった。


「帝国を思い通りに動かしたいのなら……署名などではなく、やいばを突きつけるべきでしたな」


 再び、会議室に沈黙が訪れた。アルトスタ勢は特に、ぜんとして声を出せない。

 それはサピンも同じだった。これは、国家同士の公式の会議だ。人間が長い時間をかけて築き上げた社会、理性と文明の果実のような場であった。だがその実、交わされているのは、自分たちは殺し合いをするのかしないのか、という話し合いに過ぎないのだ。文明の薄皮の中に詰まった果肉は、血と鉄の臭いを放っている。そのことを、誰もが思い出していた。


「バ、バタイユ殿! 外交の場で何ということを!」


 アルトスタの政治部長が、我に返って立ち上がった。バタイユは小さく笑う。


「申し訳ない。たわむれがすぎましたな。この剣はにせものですので、ご安心を」


 バタイユはそう言って、サーベルの先端を自分のてのひらに押し当てたが、全く傷はつかなかった。政治部長はあんのため息をつき、アルトスタ陣営には、笑いさえ浮かべている者もいる。

 サピンは小さく舌打ちする。よくない兆候だった。あんすべきことなど、まして笑うことなど何もない。バタイユがやったのは、外交の場においてあってはならない言語道断の無礼だ。だが、会場の空気は、既にバタイユに奪われていた。アルトスタ側の人間たちは、バタイユに対して、服従する者が支配者に感じる、卑屈な愛着を覚えつつあるのだ。

 バタイユはサーベルをつえにしまうと、着席した。


「話を戻しますが……我々の要求は、ルジュエル地方の無条件の返還、それだけです。我々にとって何の利もない『分割案』には、耳を傾ける理由がない。あなた方がそれを拒むというのなら、我々は力で奪う。そのための準備はできている。民の命を無駄にしたくないなら、我々の条件をみ、対抗できる自信がおありなら、自分の意見を貫けばいい。それだけです」


 そう言って、バタイユは黙った。エンシュロッスの表情は、サーベルを突きつけられたときのまま固まっている。会議の冒頭で、アルトスタ側が持っていた勢いや自信は、霧消していた。

 サピンの胸は、いらちともあせりとも言えない感情で支配されていた。

 圧倒的な暴力の持ち主を相手に、そもそも、話し合いなどできるものなのか?

 スキルパ・ヘーメルとの交渉のときから、いや、エンシュロッスから『分割案』の構想を聞いたときから、ずっと頭の隅にあったねんが、的中したのだ。

 人を動かすのは、紙切れではなく、やいばの切っ先のみ。バタイユが投げかけたのは、残酷な正論だった。彼の言葉の背後には、帝国の強大な力がある。数万の訓練された軍隊、豊富な資源に裏打ちされた魔石兵器、応接室に映し出されたあの巨大な空中要塞。

 力を持つ者は、言葉を必要としないのである。

 ヘーメルとの交渉がくいったのは、彼がある意味で、サピンと同じ弱者だったからだ。だから、利害の一致点を探す余地があった。だが、バタイユは、帝国は、違う。最初から武力に訴えるつもりの相手と、話し合いなどできない。

 帝国はそもそも、話の通じる相手などではなかったのだ。


「そ、そんな横暴を、世界が、統一政府が許すとお思いか! 五十年前のように、我々は団結して、帝国と戦いますぞ!」


 エンシュロッスは立ち上がって叫ぶが、バタイユは不敵に笑っただけだった。


「今の統一政府に、そんな力がありますかな? まして、統一政府を脱退した主要国が、アルトスタのために身をていして戦ってくれるとでも?」

「それは……」


 エンシュロッスは言葉に詰まる。サピンは、統一政府のペンザレに視線を移した。彼は人目をはばかることなく、下を向いて震えていた。


「国の上に立つのは神のみ、か……」


 さっきバタイユが言った言葉を、誰に言うでもなくつぶやく。

 統一政府は、当初は、国の上に立つ存在として作られた。だが、それは理想の粋を出なかった。もはや、多くの国家が統一政府への軍事力の譲渡を拒み、列強は独自に国力を強化している。骨抜きの統一政府軍など、帝国の敵ではない。

 では、そんな列強各国が、アルトスタのために、危険を犯して帝国に抵抗してくれるだろうか? そんなことはないだろう。確かに帝国の増長は面白くないだろうが、だからといって、今のアルトスタに身をていして救うほどの価値はない。だから助けは来ない。

 全ては、バタイユの言う通りだ。力の無い者は、強者に従うしかないのだ。

 バタイユは、深いしわの刻まれた顔に、獲物を見つけた狩人かりゆうどの笑みを浮かべた。


「繰り返しますが、我々の要求は変わりません。今月末日までに、ルジュエル地方返還のお返事をいただきたい、それだけです。冷静に状況を見据え、今一度ご一考ください」


 ルー・バタイユは、がいきようの執務室の自席に腰を下ろすと、窓から外を見た。大きな窓からは、首都テラージェの街並みを一望できる。重要な交渉の後で疲れ切っていても、この景色を見ると、己の使命の重さに身が引き締まる。

 あれから、アルトスタとの会議は特に進展もなく終了した。エンシュロッスらアルトスタ陣営は、署名に全く効果がないと悟ると意気消沈し、これといった反論もできず、すごすご帰って行ったのだ。あれだけ脅しておけば、もう抵抗する気にはならないだろう。一ヶ月後の最終回答は、きっと、帝国の意に沿うものになっているはずだ。

 バタイユは、会議でアルトスタから配られた資料を手にする。帝国の中で、アルトスタの『ルジュエル分割案』に賛成する者たちの署名である。並んでいる名前は、やはり元々反政府的な傾向があってマークされていた者が多いが、中には、驚くような人物の名前も交じっている。

 中でも、ある一人の名前に、バタイユは眉をげた。


「スキルパ・ヘーメル……? 陛下の主治医か。よく口説き落としたものだ……」


 ヘーメルには、何度か会ったことがあった。実直な医者で、皇帝からも絶大な信頼を得ている人物だ。彼をこの署名に参加させるとは、どのような手段を用いたのだろうか?


「エンシュロッスめ。平和な時代であれば、歴史に名を残せたかもしれんものを」